ヤマケイ ―山の警察—(第1話-3)
(第1話 奥鐘山-3)
4
「やっと会えた」
マコトの息は弾んでいた。額は汗に濡れている。だけど微笑んだ。やっと会えた。白髪の男性がマコトを見て何度か瞬く。生きてる。意識もはっきりしてる。間に合った。これなら助けられる。
男性が口を割って声を出した。
「す、す、……すみま、せん。ごご、ご迷惑」
マコトは微笑みを返す。
「大丈夫。迷惑なんかじゃない。生きていてくれただけで十分」
男性の怪我の程度を確認した。灰色の花崗岩の上に、男性の肩からの出血で黒い水たまりができていた。体をねじった状態で背中から岩壁に衝突したらしく、右の肩が砕けていた。自分で手当てしたのだろう。頭部には白い布が巻かれていて、そこにも多めの血がにじんでいた。右手で胸を押さえている。肋骨も何本か折れていそうだ。
マコトは無線に言う。
「祭。現着しました」
花は双眼鏡で祭先輩を見ていた。
要救助者のいるハング。その周辺はところどころにブッシュが茂った巨大な一枚岩だ。無線機から祭先輩の荒い息遣いが聞こえてくる。
太陽はずいぶん傾いていた。西日に岩壁が照らし出される。灰色の花崗岩がオレンジに染まっていた。岩壁に茂ったブッシュが、壁のところどころに黒い影を落としていた。その影が刻一刻と伸びていく。日が沈んでいくのだ。
荒い息に続けて祭先輩からの報告が届く。
〈おそらく鎖骨と肩甲骨を骨折しています。それと頭部に裂傷。かなりの出血が見られます〉
隊長の短い声。
〈ハング上で止血できそうか?〉
〈やってみます〉
〈応急処置後に搬送開始だ〉
〈はい〉
しばらくはハッハッという祭先輩の息づかいだけが無線を通して聞こえてきた。花はいつの間にか、両目に双眼鏡を強く押し付けていた。青年の肩に置いた手に力がこもる。背中を汗が伝っていく。遥か上空のハングで、豆粒の祭先輩が救助活動をしている。その祭先輩の直下、百五十メートルほど下のハングには新堂先輩が張り付いている。要救を背負った祭先輩が安全に下りられるよう、新堂先輩があらかじめ下降ルートを決めて、大き目のハングに中継点を作ったのだ。祭先輩は要救を背中に乗せて、三百メートルの上空から一気に百五十メートル下の中継点までこれから下りる。
〈下ります〉
祭先輩の声がした。森口分隊長が無線を通さず大声で言った。
「祭ぃ! 直下に立木とブッシュがある。ロープワークに注意しろぉ!」
分隊長の声の大きさに花の体が震えた。数秒の間を置いて、祭先輩の返信が無線から届く。
〈はい〉
返事と同時に祭先輩の足が岩肌を蹴った。蹴り足で壁から距離を取って、そのまま一気に下降する。背中に乗った要救助者は祭先輩より大きい。要救の首は力なく左右に揺れていた。祭先輩の体が弾むように下りて行く。何度も岩壁を蹴る。その度に無線から、ハッ、ハッと短い声が漏れてくる。
一ピッチ目。祭先輩はまだ豆粒だ。四十メートルも下ったはずなのに、まるで近づいてこない。
二ピッチ目。祭先輩がほんの少しだけ大きくなった。大きくなった分だけ現実感が増して、それに比例して恐ろしさも増す。祭先輩がまた叫んだ。
「ロープ」
これで三ピッチ目。百二十メートルだ。もう三十メートル下には新堂先輩が待っている。あのハングで搬送を中継するのだ。そこで新堂先輩にタッチして、今度は新堂先輩が要救を背負って、この壁の核心部(一番難しいところ)を越える。一瞬だって気を緩めたりできない。緩めたら死ぬ。
新堂先輩が腕を伸ばし、下降してきた祭先輩の背中の要救をつかんだ。無線から聞こえた。
〈マコトさん、もらった〉
〈ノブヒデ、まかせた〉
双眼鏡の中で、新堂先輩が要救のハーネスを自分の体に結び付けているのが見えた。祭先輩は気息奄々だ。あたりまえだ。自分の体重より重い要救助者を背負って百五十メートルを降りたのだ。ここからは新堂先輩だ。祭先輩だって、要救が背中からいなくなっただけで、まだここから降りなきゃならない。気は抜けない。
〈クライムダウン〉
二人の声がして、落下してくる小さな塊が二つになった。少しずつロープを伸ばしながら弾むように下りてくる。岩の上にはブッシュが茂っていて、突き出したハングもたくさんある。あ、大きなクラック(岩の割れ目)が見える。花崗岩の岩だ。脆い岩だ。蹴り足が岩壁の浮石を踏んでしまったらどうしよう。クラックに指を滑らせたらどうしよう。背中の要救が突然暴れ出したらどうしよう。花には何をすればいいのかまるでわからない。けれど、下りなければならないのだ。生きるためには。
花は祈っていた。祈るよりなかった。
風よ吹くな。
日よ沈むな。
涙が滲んだ。どうか神さま。
みんなを、生かして返して。
完全に日は沈んだ。新堂先輩が河原に降りたとき、その足元を照らしていたのは、隊員たちのヘッドランプの明かりだけだった。ギリギリだ。すぐに祭先輩も降りてくる。ストレッチャーを抱えた隊員たちが新堂先輩に駆け寄った。新堂先輩が背中の要救を河原に下ろした。その場で大きく息をつく。
「帰って、……きたね」
新堂先輩が微笑んだ。顔中を汗に濡らしたまま。
「もう、大丈夫」
要救は自分の足で立っていた。
要救の男性が、無言のまま、コクンと首を縦に振った。その目の端が光っているように見える。
「親父」
花の隣から、将青年が父親のところに駆け寄っていった。父親を抱こうとして、その肩がべっとりと血に染まっているのを見て手を止めた。何度か両手を躍らせて、それから言った。
「ごめ……。ごめんなさい」
父親はしっかりと前を向いて、息子に顔を見せていた。微笑みの顔。その顔に怒りなんてない。不安もない。あるのはただ一つ。よかった、の顔だ。
将青年の目から、ボロボロ大粒の涙がこぼれ落ちた。顔をぐしゃぐしゃにして、溢れる涙を両の腕で拭っていた。
「よかったぁ……」
花は見ていた。二人は命を失わずに済んだ。事故に遭ったけど、生きて帰ってきた。
そっか。
思った。
山岳警備隊って、こういう仕事なんだ。
いつの間にか、森口分隊長が花の隣にやってきていた。
「奥村」
「は……、はい」
分隊長に見えないように涙をぬぐった。顔を上げる。
言われた。
「よくやったな」
「え?」
「よく彼をなだめた」
「…………」
花は何もしていない。ただ、あまりにも過酷な現場の空気に呑まれていただけだ。
「そんな……、わたし、何も」
「お前、彼の肩から手、一度も離さなかっただろ」
「あ……」
「それでいいんだ」
森口分隊長が、ポンと花の肩を叩いてから、祭先輩と新堂先輩のところに近づいて行った。もう笑っている。
「おー! 新堂、祭、疲れたかぁ?」
先輩たちも、汗に濡れたまま笑顔に変わっていた。
「あ……、あたりまえでしょ」
「頭がクラクラする」
「うん。そうだな。まあそんなもの、飯食えば治るぞ」
「治んないよ。モグさんじゃないんだから」
グウと豪快な腹の音がした。二人を見たら、赤い顔をしていたのは祭先輩だったから犯人はこの人だ。
「お。腹減ったか?」
デリカシーという概念を持たない森口分隊長が大声で言った。
「だから、あたりまえだっつーの」
「よし。じゃあ今夜はこの河原でビバークだな! レトルトも缶詰も大量にあるぞ! みんなでキャンプみたいで楽しいな!」
「ええー! 何それぇ!」
祭先輩の悲鳴の後で新堂先輩がため息交じりに言った。
「日が落ちて……、もう、ヘリは飛べないってわけですか」
「その通り! 明日の朝一番で〝つるぎ〟に来てもらうからまあ我慢だ! な!」
「えええ……」
苦笑いするしかない。
まあ、そんな日もあるさ。
幸い、父親の大きな怪我は肩の骨折だけで、頭の出血もすぐに止まった。意識もはっきりしている。急を要する状態ではないと判断して、明日の朝、〝つるぎ〟でピックアップしてそのまま麓の病院に搬送することになった。だから今夜はいっしょに夜を過ごす。河原のテントでビバークだ。
黒部川のせせらぎが聞こえる。
「よっしゃ! マコトシェフ特製、サンマパスタ完成ー!」
テントのファスナーが降ろされるのと同時にものすごくいい匂いが流れ込んできた。その匂いに乗っかるみたいにして祭先輩が顔を出す。
「サンマの缶詰でこしらえてみましたー」
祭先輩の手にフライパンが握られている。その上に黄色いパスタが山盛り。パスタの上にはほぐされたサンマの身が、これでもかという程乗っかっている。そこから香る。オリーブとサンマの匂いだ。そこにパスタの香りが絡み合って何だコレ。体の中の食欲をぜんぶたたき起こされたみたいに感じる。匂いだけで猛烈に腹が減る。
「みんな、出てきてー」
ぞろぞろとテントから出て行く。空には星しかなかった。背中にある壁は真っ暗で、真っ暗だからだろうか。昼間見た時のような恐ろしさは感じない。川が流れていた。足が地に着いていた。これだけでほっとする。地面って偉大だ。
「いやー。ほんとはここに長ネギがあるとねえ……。完璧だったんだけどねえ」
言いながら、祭先輩がみんなの皿にパスタを取り分けてくれた。森口分隊長がそわそわしている。新堂先輩は田端親子の隣にいた。父親の怪我の様子を確認して、「よし」と呟いてから笑顔に変わる。
「お二人は、親子でよく山に登るの?」
父親の方が答えた。
「いや……。こいつがまだ高校生だった頃は、よく一緒に行ったんですが……」
息子は岩に腰かけ、膝に手を置いたままうつむいていた。
「おれ、春に大学卒業したのに、まだ就職が決まらなくて……」
森口分隊長が急に口を挟んできた。
「就職活動かぁ。知ってるぞ。集団面接にグループディスカッションだろ? な? な?」
新堂先輩のきつい一言。
「モグさん。とりあえず知ってる単語口に出すのやめた方がいいよ。バカだってバレるよ」
「え……、あ……。すまん」
ひとしきり笑った。夜の沢に人の声は響く。笑い声ってすごく不思議。聞いてるだけで、一人じゃないって腹の底から思える。
薄く笑みを浮かべて将くんが続けた。父親を見ずに言う。
「あんまり不採用が続くもんだから、おれ……、自分は必要じゃない人間なのかなって……。いらない人間なのかなって思って」
父が言った。
「いらないわけないだろ。お前がいなきゃ、おれは今日死んでた」
将くんが父を見た。父親が笑っている。
「将。助けてくれて、ありがとうな」
祭先輩がパンと手を叩いた。みんなに言う。
「さ、冷めちゃうよ。食べよ」
みんなで声をそろえた。
「いただきまーす」
箸を割る。湯気の立つパスタを口いっぱいに頬張る。
口に入れた順に顔がほころんでいった。連鎖反応みたいに、火を囲んだ全員がみんな笑顔になって、それから誰かが笑い出した。
「わは」
「ははは」
「あー。なんかおかしいね。あははは」
「だな。がははは」
「あははははは」
「わー! 気持ちいいぞー!」
誰かがバンザイしながら叫んだ。きっと祭先輩だ。
花も空を見た。丸い大きな月が見える。
黄色い月。
ああ、生きてるなって思った。
もう一口、パスタを口いっぱいにほおばる。今日だけはいいや。今日くらいはいいや。森口分隊長みたいに大口開けて、おいしいものを「うまい」って言おう。同じものを食べて、みんなで「うまい」って笑おう。
「奥村さん」
将くんに言われた。花は、口をパスタで膨らませたまま「はい?」と応じる。
「ありがとうございました」
きょとんとしてしまった。しばらく将くんの顔を見つめてから、口の中がパスタでいっぱいなのを思い出して慌てて飲みこんだ。言葉を探す。こんな時なんて言えばいいんだろう。「いいえ、わたしは何も……」って謙遜? それとも「山を甘く見るな」って叱責? いや、「辛かったね」って同情? いろいろ考えたら混乱してきた。なんかもう、いいやって思った。
いいや。思ったことを言おう。
花は言った。
「生きてて、よかったね」
※涌井の創作小説です。
