見出し画像

ヤマケイ ―山の警察—(第2話-2)

(目次へ)

(第2話 縦走(夏)-2)


   

  立山に 降り置ける雪を 常夏に
  見れども飽かず 神からならし

 万葉集の中で、大伴家持がそう詠んでいるのだそうだ。夏になっても雪が残り、ずっと姿を変えることがない立山を見飽きることがないのは、きっとそれが神の山だからだろう――というような意味らしい。
 今でこそ立山は山が好きな人たちがこぞってやってくる山歩きのメッカだけれど、昔はこうじゃなかった。立山は神さまたちの山とされて、人間は踏み入ってはいけない場所だったのだそうだ。
 わらじを履いて、白衣に身を包んだ修験者たちが、金剛杖をついて歩くような場所。
 立山曼荼羅ってものがある。
 曼荼羅っていうと大宇宙の真理を表したなんちゃらとか難しい印象だけど、立山曼荼羅はそういうのとちょっとちがう。極めて日本的な、情と山岳信仰が結びついたような一枚絵だ。
 立山曼荼羅には、立山の山々を舞台に、極楽と地獄が描かれている。賽の河原、三途の川に修験道、それに血の池地獄なんかも。そして、曼荼羅の左隅。行き着く場所のようにそびえている山が剱岳だ。
 剱岳の別名は針の山。立山曼荼羅に描かれる剱岳は、鋭い刀剣の集合体だ。亡者たちが、地獄の鬼たちに追い立てられて剱岳で全身を切り刻まれる。立山信仰において、剱岳は地獄のシンボル。だから、長い間ずっと、人々は剱岳に入ることを禁じられていた。
 祭先輩が指をふりふり言っている。
「まあつまり、立山はずっと神さまの居場所だったわけ。で、日本中から大勢人が集まってくるから、岩峅寺や芦峅寺が宿坊として栄えたのね」
「へー」
「ってノブヒデに教えてもらった」
 感心してソンした。「あ、そうですか」
「んで、時代は移り変わって時は今。今や剱岳は山ヤたちの憧れの場所になりましたとさ。だからハイシーズンの剱岳はいつも大渋滞。登山道が人で埋まっちゃうくらい」
「へえー。わたしの中では人を寄せ付けない孤高の山のイメージだったんですけどね」
「うん。今も孤高の山にはちがいないよ」
「え? でも人が大勢いるって……」
「夏はね。でも冬は別物。冬の剱岳は今も地獄だよ」
「…………」
「怒ったときの剱岳は本当に怖い。剱岳を筆頭に、立山の全部の山が猛烈に怒り出すんだ。許さない、許さないって雪を降らせる。人を閉じ込めようとするんだよ」
 笑顔のまま言うものだから、こっちも笑顔を崩すタイミングがわからない。
「それでも登ろうとする人はいる。だからあたしたちもそれに備えるんだ」
 花たちは奥鐘山北壁近くの山小屋に来ていた。山小屋の主人に請われて、登山者たちに向けてクライミング技術の講習会をするためだ。
 時折こういう依頼がある。山岳警備隊の仕事は遭難者の救助だけではなくて、遭難の防止だって大切な仕事だ。だから、登山道のパトロールや、こういった登山技術の講習も業務の一つになっているのだ。
 花は朝から鼻息が荒かった。だって今日初めて、奥村花の山岳警備隊としての存在意義が示せるのだ。救助の現場で、「怖い」とか「無理」とかさんざん弱音を吐きまくって、先輩隊員たちの異常なまでの体力と技術にその度に仰天して、そろそろ花のちっぽけな自尊心は崩壊しかかっていた。だから今こそ。
 ボルダリングで培ったスキルを、遺憾なく発揮するのだ。

 アメリカのお菓子みたいな色したホールドが、壁にボコボコ埋め込まれている。
 花はそれを見上げていた。何だかとても懐かしい。
「じゃあ山岳警備隊の隊員さんに、まずは模範を見せてもらいましょう。奥村さん、登っちゃってください」
 鼻からムフーって感じの息が出た。花は頭の中でコースを確認する。最初のホールドがあそこで、次に右上のホールドをガチでキープして、それから左手であそこのピンチをつかんで――。うん。行ける。
「奥村、行きます」
 スッサスッサ登って行く花を、トレッキングに来たおじいちゃんやおばあちゃんが「ほー」とか言いながら見上げている。花は何だか誇らしい。山岳警備隊に入って初めて賞賛の声を聞いた気がする。ペーペーの花は基本使いっ走り。この、「何だかよくわからないけどすごいものを見ている」って感じの声を浴びるのはずいぶんと久しい。
 登り切って見下ろしてみたら拍手が起きていた。山岳ボランティアの指導員が苦笑いしている。
「あー。奥村さんどうも。あの、みなさんはあんなふうに登る必要ないですからね。大丈夫ですからね。奥村さんはえーと……、あの、山岳警備隊はあの、特殊部隊みたいなものなんで、……ねえ?」
 花は顔を赤くする。やらかした。めちゃくちゃ早く登ってしまった。登り終えてから気が付いた。よく考えたらこれボルダリングじゃなかった。クライミング技術の講習会だった。岩を登る時に気をつけることを伝えるための講習会なのに、技術とか何一つ伝えずに速度とムーブだけ求めてしまった。人の目を気にせず登るとかサル山のサルかわたしは。
 久しぶりに壁を登った高揚と恥ずかしさで花の顔は真っ赤だ。
「先輩ぃい」
「おー。花ちゃんご苦労様。どうしたの? 顔真っ赤」
「やらかしましたぁ」
「何が?」
「思わず全力で登っちゃいました。みんなきょとんとしてましたぁ」
「あはは。いいよいいよ。拍手喝采だったじゃん。これからの講習に向けてのつかみみたいなもんだよ」
「そうですかねぇ……」
「しっかし花ちゃん大人気だねー」
 また顔を赤くする。さっき浴びた歓声を思い出す。
「ああいうの、恥ずかしいけど気持ちいいんですね。なんだかアイドルになった気がしました」
「あはは。ていうか、完全にアイドル扱いだったね。おじちゃんおばちゃんばっかだけど」
「ステージに立つってこんな感じなんですね」
「あはは。花ちゃん舞い上がってる」
 ふざけ合っていたら、花の腰のハーネスにくくりつけている無線機が鳴り出した。ほぼ同時に山荘備え付けの無線機もピーピー鳴り出す。
 空気が変わった。
〈本部から各員。本部から各員。剱岳で滑落事故発生〉
 祭先輩が無線機をつかみとって答えた。花も同じ気持ちになる。
「北壁の祭です。奥村もいます」
〈剱岳カニの横這いで男子学生一名が滑落した。行けるか〉
 二人同時に答えた。
「はい」
 出動だ。

「第2話 縦走(夏)-3」へ続く

(目次へ)


※涌井の創作小説です。


いいなと思ったら応援しよう!