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「もし東京にいたら、私はカフェをやっていなかった。」借金1300万を背負う前の「原点」の話。

20年ほど前、私は父の土地を担保に1300万を借りてカフェを開業しました。
特に経営の才能があったわけでも、経営を学んだわけでもありません。
料理人修行や店長の経験もなく、コーヒーやお菓子のプロでもなかった。
当時の私は、お金も無い、実家に居候するただのフリーター。
これは、何者でもなかった私が「自分のお店」を持つまでの、「原点」のお話です。

前回(自己紹介)の記事はこちら↓


東京で見つけた「カフェ道」


若い頃の私は、東京への憧れが強く、世間知らずなただの田舎娘でした。
高校卒業後、「ライターや編集の仕事がしたい」と上京し、学校に通いながら生活していくために選んだのが飲食業です。
正直に言えば、最初は飲食の仕事を「誰でもできる仕事」「学歴の無い人がする仕事」と見下していました。(本当にすみません…!)

しかし、実際に働いてみると、その奥深さと楽しさに魅了されていきました。結局、通っていた専門学校を半年で退学し、飲食業の世界にのめり込んでいきます。

転機は、数年後にブライダル業界への就職を目指した時に訪れました。
カフェやレストランウエディングも手掛ける、ある外食企業のブライダルコーディネーターの募集。「短大卒以上」の募集条件に、高卒の私が「受けさせてほしい」と直談判。
なんとかこじ開けた面接で、社長は私にこう言いました。

「きみは、カフェの方が向いてるんじゃない?」

その一言で配属されたフレンチスタイルのカフェ。
そこで私はカルチャーショックを受けるほど、カフェの魅力に取り憑かれました。

ただ、そんな楽しい生活も長くは続かず、都会の生活に心身共に行き詰まった私は、25歳での帰郷を余儀なくされます。


「何もない」という絶望と勝機


帰ってきた故郷。
東京は空前のカフェブームでしたが、ここにはまだ「カフェ」と呼べる場所がほとんどありませんでした。カフェにハマっていた私にとって、それはとても寂しくガッカリする現実。
友人はみんな、ファミレスやファーストフードをカフェ代わりに使っている。
それに気付いた時、私の中にひらめきが瞬く間に降りてきました。

「私が行きたいお店がないなら、自分で作ればいい」そして、
「この地域に、カフェ文化・カフェの楽しみ方を広めたい」という使命感のようなものが湧いてきたのです。

もし私があのまま東京にいたら、自分でカフェをやろうとは絶対に思わなかったでしょう。

すでに素敵な店が溢れている場所で、私がやる意味なんて見出せなかったはずです。
「何もない場所」だったからこそ、私はそこにリスクを背負う価値を感じました。

今思えば、私の中には「パイオニア(開拓者)気質」が眠っていたのだと思います。


「転職癖」は武器になる


カフェを創ろう!と決意はしましたが、当時の私はお金も人脈もない、実家暮らしのフリーターです。
同級生たちが結婚や正社員として安定していく中、肩身の狭い思いを抱えながら、コンビニや飲食店を転々としていました。

居酒屋、焼肉店、日本料理、イタリアン、カフェ、ダイニングバー、ファミレスなどなど、飽きっぽくてすぐに新しい世界を経験したくなるため、職場を変え続けてきた経歴は、裏を返せば「あらゆる業態・様々な規模の飲食店のノウハウを持っている」ということになります。

一般的に履歴書の汚点とされる「転職回数の多さ」も、経営者になれば「引き出しの多さ」という武器に変わる。
そう信じて、私は独学で調理師免許を取り(融資に有利になるかも、という戦略でした)、カフェや飲食店を見て周り、東京へ視察に行き、事業計画書のようなものを何度も書いていました。


準備が整うのを待っていたら、
一生始まらない


それでも、現実は厳しいものでした。
数年経ってもお金は貯まらない。実現の気配が見えない。
焦りを感じていたある日、新聞の片隅にあった「異業種交流会」の記事が目に止まりました。

「ここに行けば、何かが変わるかもしれない」
勇気を出して飛び込んだその場所で、私はチャンスを掴みます。
交流会が主催するイベントへの出店。
さらに、そこで閃いた、知人とのコラボイベント。そして、花屋さんの空きスペースでの出張カフェ。
店舗を持つ前から、私は月に1〜2回オープンする「小さなカフェ」を始めました。

お客様は最初は知り合いばかりでしたが、この「出張カフェ」での実績と出会いが、のちに融資を獲得し、実店舗を持つための最強の足がかりとなったのです。

ピンと来たら、動くこと。
店ができてから集客するのではなく、店ができる前からファンを作る。

これが、お金のない私がとった唯一の、そして確実な戦略でした。

(つづく)

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