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文章の聞香、書かなかったものの気配

「書いて、良かった」

「丁寧に読んでもらえて、嬉しい」

「何故わたしが、この字体で書きたいのかが、繋がりました」

「あの頃の私は、誰かに聞いてほしかったのだと思います。ずっと後になって、こうして届くとは」

文章の聞香をはじめて、そのような感想が届いた。

お題を出す。
それについて書いてもらう。
それを読んで、言葉を返す。

なぜ私がこの「文章の聞香」と呼んでいる、往復書簡をしたかったのか。
その気持ちを受け取ってもらえたのだと思った。

はじめて一週間で、五人の方からお返事があった。
正直、驚いた。届かないかもしれないと思っていたラブレターだったからだ。

ラブレターには、「記事を書くときの言葉の扱い方」というお題の記事が読みたいと書いた。
同じお題に添った記事なのに、一つも似通ったものはなかった。

しかも、記事を書くときのステップと称して箇条書きにするような、ありふれた記事でもなかった。(ああいう記事の良し悪しを言うつもりはない。誰にでも分かりやすく、整理された文章が必要とされることもあるし、匂いが立ち昇らない文章と思われることもある。それだけだ。)

ただ、よく見かける形式ではなかったけれど、どれも思考の跡をしっかりとたどれる文章だった。
その人の息遣いが感じられるものを、夢中になって読ませてもらった。
そういうとき、私はその人の香りがするような気がする。

それは、生が時間の中を通過した、その残滓のようなものだ。

だから、批評ではなく、返歌のようなお返事を書いた。

同じお題でありながら、あれほど違う文章が集まったのは、おそらく最初の呼びかけの形によるのだと思う。
ラブレターへの返事は、正しさや手順よりも、「どう答えるのか」を意識する。
そのため書き手は、一般的な答えではなく、自分の言葉の来歴へと降りていく。どこで迷い、どこで言い淀んだのかを辿るようになる。

独り語りであっても、自分に語りかけるように書かれていても、語りは他者の存在を前提としている。だからこそ、閉じることなく、それぞれのかたちで他者へと届く。

だからこそ、似通わなかったのだろうし、そこに思考の跡や息遣いが残ったのだと思う。
そしてそれを、意味として整えるのではなく、揺れや余白ごと受け取ろうとしたとき、書き手の中に残っていた時間が、遅れて言葉になる。
「繋がりました」や「届いた」という感想は、そのあとに立ち上がってきたものだったのだろう。

けれど、言葉になりきらなかったものも、そこに残っている。
この文章にも、書かなかったものがある。

次回のお題は、「書かなかったことについて」。
あえて言葉にしなかったこと、書いて消したもの、残さなかったものを、自由に綴ってほしい。

そして、記事を書いたら、コメントでそっと知らせてもらえたら嬉しい。


五人の方との往復書簡は、マガジンにまとめている。どれもその人ならではの声が聞こえる文章が味わえる。

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