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なぜ、丸い穴から生える草を愛でてしまうのか|まちへの愛着は「名づけ」から始まる

先日、渋谷で開催された「ぶやぶや渋谷」に参加した時の、印象に残った会話がある。

この日、路上園芸鑑賞家の村田あやこさんやtimespaceZINEの皆さんとまちを歩き、僕はまち感性指標をつくるワークを担当した。
イベント開始前に、村田さんと立ち話をしていた。
その中で聞いた話が、今も妙に頭に残っている。

コンクリートの壁に開いた丸い穴。その内側に土がたまり、小さな植物が生き生きと育っている。

丸い穴から生える植物

そんな光景を愛でる人は、日本だけではなく世界のあちこちにいるらしい。

国も言葉も違うのに、なぜ人は似た風景に反応するのだろう。

なぜか見てしまう感覚

この話を聞いたとき、ブーバ・キキ効果を思い出した。

この図を見て、どちらがブーバで、どちらがキキか?と問いかける
そうすると、

ブーバ・キキ効果

丸い形には「ブーバ」。尖った形には「キキ」。
意味を教えられていなくても、世界共通で多くの人が似た組み合わせを選ぶという現象で。

人間の感覚には、言葉や文化より手前にある層が存在するのではないか。意味を理解したあとではなく、身体が先に反応してしまう。

丸い穴の中で育つ植物にも、似た構造を感じた。

硬いコンクリートと柔らかな植物。人工的な円と、そこからはみ出そうとする生命。閉じた形の内側に、小さな世界ができている。

植物の種類を知らなくても気になる。場所の歴史を知らなくても、なぜか目を向けてしまう。

これは科学的に確認された話ではない。けれど、人間が反応しやすい形や関係があるという仮説は、まちを見るうえでかなり重要だと思う。

名づけると風景が増える

イベントの振り返りでは、もうひとつ印象的な話があった。

特定の状態や現象に名前をつけると、その対象への愛着が増えていくのではないかという話だ。

路上園芸鑑賞も、おそらく同じ構造を持っている。
ビルの上から植物が生えた状態を「ビル毛」と名付けた人がいるとか

名前をつけた瞬間、同じ風景が少し違って見える。

使い古された容器ではなく、新しい仕事を得た鉢に見える。手入れされていない壁ではなく、成長を続ける壁画に見えてくる。

対象そのものは変わっていない。変わったのは、こちら側の視線である。
名づけるとは、単に説明することではない。どこに注意を向けるかをつくることだ。

名前がつくと、別の場所でも探せる。誰かに教えられる。似た風景を並べて比べられる。

そして何度も見るうちに、その状態がなくなったとき、少し寂しいと感じるようになる。

愛着は突然生まれるのではない。注意を向けた時間が積み重なり、あとから育ってくる。

指標は測るためだけにあるのか

この話は、まち感性指標の価値にもつながる。

指標というと、すでに存在する状態を測るものだと思われやすい。人流や売上、滞在時間のように、目の前の現象を数値へ変換する。

けれど、まち感性指標が扱うのは少し違う。

まだ多くの人が意識していない状態に名前を与える。その名前を通して、まちの中に新しい見方をつくる。

例えば、丸い穴から植物が育っている状態を「丸穴いきいき率」と呼んでみる。

名前は少し変なくらいでいい。その方が記憶に残る。

一度名前を知ると、次の日から水抜き穴が目に入り始める。植物がある穴。何もない穴。枯れかけた穴。勢いよく葉がはみ出している穴。

昨日まで背景だったコンクリートが、観察する風景へ変わる。

つまり指標は、まちを評価するだけのものではない。まちを見る感度を上げる装置にもなり得る。

数値化によって感覚を冷たくするのではない。個人の中にあった小さな反応を、他者と共有できる形にする。

そこに、まち感性指標の本当の価値がある。

愛着を測るのではなく、愛着を生み出す

これまで僕は、まち感性指標では人と人のズレが重要だと考えてきた。

自分が見ているもの。他者が見ているもの。AIが写真から読み取るもの。その違いには、まだ名前のない価値が眠っている。

この考えは今も変わらない。
ただ今回、もうひとつの入口が見えた。

人による違いだけではなく、文化や言葉を越えて、なぜか反応してしまう形や状態。その中には、人間の感性の原型と呼べるものがあるかもしれない。

そこへ名前をつける。

名前が視線を生み、視線が観察を生む。観察が共有され、繰り返されることで愛着へ変わっていく。

そう考えると、まち感性指標は愛着を測る指標ではない。
まちへの愛着が生まれる回路をつくる指標である。

何もないまちなんてない。見えていないだけ。

そして見えていないものの多くは、まだ名前がないだけなのだと思う。

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