2022年12月23日春馬さんの「言葉」を詠む ( “春馬さんの「言葉」を詠む” の記事は、今回が今年の最終回です)
2020年4月5日に出版された「日本製」の“広島県”のなかから
“広島県”は
まず、「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」
事務局長・梶矢文昭さんの言葉を
できるだけそのままに・・・4首✨
次に、三浦春馬さんの言葉を
できるだけそのままに・・・3首✨
7首詠みましたので今回は七首目です。 (三浦春馬さんの言葉より✨)
短歌の調べにのせて詠んでいきます。
(彼を見習って英語バージョンも)
様
々
な
事
件
や
災
害
の
陰
に
は
と
ん
で
も
な
く
頑
張
っ
て
い
る
ひ
と
が
い
る
Behind the scenes of various disasters and incidents,
there are always some people
who make tremendous efforts to overcome difficulties .
「日本製」“広島県”より
*三浦「被曝された時はおいくつだったんですか?」
梶谷「6歳です。国民学校、今でいう小学校一年生でした。体験談を聞いて、6歳の記憶がそんなに残るものかとビックリされる人もいますが、強烈な記憶は残るものです」
*よく『雲ひとつないよく晴れた朝』という言い方をしますが、1945年8月6日の広島はよく晴れていました。
*原爆のことを『ピカドン』といいますが、距離が近ければ近い程ピカとドンの間が短くなる。私もピカとドンをほぼ同時に体感したと思いますが、そのあとすぐ頭の上にガラガラと屋根が崩れてきて真っ暗になってしまった。必死に柱と柱の間の小さな隙間をかいくぐってなんとか屋根の上に這い出すと、周りの家が全部ぺしゃんこに潰れとって目の前を被災者がゾロゾロとそれはそれは長い列を作って逃げていくのを見た。私も無我夢中でその列にくっついて、広島駅の裏にあるニ葉山の中腹まで逃げました。
*一旦戦争を始めたら、これはもうケンカじゃけ、手段は選ばんわ。どんどん威力のあるものを作って、それを使って強いほうが勝つのが戦争。始める時は些細なことがきっかけかもわからんが、一旦始めた戦争をやめる、収めるというのは非常に難しいことだよ。
*梶谷さんは長年「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」を通して子供たちに平和の大切さを訴え続けている。
*以前、ある人が、『想像力が欠如した時に人間はむごいことをする』と言っておったが、想像力をなくさないためにも『事実、実相、実感』を語り継いでいくことが大事なんじゃないかと思うんです。
*つまりその時のことを直接語れる人は、かなりのご高齢になっている。梶谷さんも今回の依頼をした際、高齢を理由に悩まれたようだが、最終的には快く引き受けて下さることに。「若手俳優さんの連載なんです」と編集者が伝えると、「僕は俳優さんとかわからなくてね」と正直に仰る。ご年齢を考えれば無理もないが、念のため「三浦春馬さんという俳優さんなのですが」とお伝えすると、急に「ええっ!三浦春馬さんなの!?」と声の調子が一変。「『永遠の0』という映画が大好きで何度も観ているんですが、その中でも三浦さんのお芝居が本当に好きだったんですよ」と喜んでくれた。そして来る日。三浦の訪問を心から歓迎し、予定時刻を超え二時間超もたっぷりとお話し頂いた。帰り際、何度も繰り返しご覧になったという『永遠の0』のDVDを「これですよ、これ」と嬉しそうに三浦へ見せる梶谷さん。結ばれるべくして結ばれた縁だったのだなと、実感した瞬間だった。
みんなのフォトギャラリーの画像をお借りしました。
ありがとうございます。
それからnoteからメッセージを頂きました。

今日から少しずつ、以前のペースに戻れそうです。
15日のつぶやきの記事にも優しいメッセージを頂きありがとうございました☺️
余裕が無くて、お返しのメッセージを書くことができませんでしたが、
これからもどうぞよろしくお願い致します🌸
スキをして下さった方、読んでくださった方、
ありがとうございました😊
皆様のご健康をお祈りいたします🌸
