天使の約束(7)
第七章 儚い恋の終わり
「ところで、春陽さんはもう恋をしないの?ずっと一人で生きていくだなんて」
「え?」
春陽は、間中の唐突過ぎる質問に戸惑った。
「離婚の経験は、恋愛を諦めなければいけないほど悪いことなのかな」
恋愛が悪いこととは思っていないけど、間中が言った『恋』という言葉以上に、下の名前で呼ばれたことに春陽は驚いた。男性から下の名前で呼ばれたのは久しぶりだ。
「離婚してから恋のチャンスがなかったわけでもないけど・・」
私に好意を持ってくれた人が過去にいたが、私が気づかないふりをしたことでそれ以上何も進展することはなかったと伝えた。
春陽は続ける。
「私、離婚しているだけではなくて小さな息子がいるの」
これまでごく親しい人以外には話したことのない事だったが、お酒が少し入っているせいで春陽の口は滑らかに動く。多分、相手が間中だからというのもある。伝えておかなければという気がしたのだ。
「別れたときはまだ赤ちゃんだったから、きっと私の事は覚えていない。引き取りたかったけど」
間中さんの瞳が少し揺れたような気がしたが、感情は読み取れない。
「仕事がまだその時は決まっていなくて経済的な不安があったの。息子を手放すことを受け入れてでも一日でも早くあの家を出たかったという気持ちが強かった。妻、嫁、母として役割が急に重たくなって逃げだしたかったんだろうね。
息子との面会禁止が離婚の条件だと義両親から言い渡されていたの。でも息子が3歳になる少し前に、義両親が面会を許してくれたと元夫からメッセージが届いて‥心が揺れた。息子は6歳になったけど、離婚してからは一度も会っていない。もう3人の家族に戻ることはできないから。
元夫は定期的に手紙で息子の成長を教えてくれる。あ、開封していないから写真は見ていないけど」
間中さんは、何か感想を言うわけでもなく慰めや励ましの言葉をいうわけでもなく、軽く相槌を一度打っただけで静かに私の話を聞いていた。
「元旦那さん、春陽さんに戻ってきてほしいのでは?再婚はしていないのでしょう?」
「一度お見合いをしたみたい。次の年賀状で再婚の報告が来るのかも。新しい家族になりましたとか何とか・・写真入りでね」
「すみません。無神経なことを言ってしまいました」
「いいよ。まあ、というわけで、子供を捨てた母親は恋愛する資格はない。しばらくは再婚もなし。一人で生きていく人生を選ばざるを得ないの。そう決めているの」
「何故?春陽さん、きっとこれからたくさんの出会いも経験するだろうし、素敵な恋をして、誰かと二人で歩く人生を望むことの方がむしろ自然だと思います。人生はこれからじゃないですか」
そう、今は自分もそれが自然だと思っている。人生はまだまだ、これから先が長いってことはわかっている。
「ありがとう。人生これからよね。実は私・・」
やっぱり自分の気持ちに嘘がつけない。もう恋している相手はいる。目の前にいるあなたのことが好き。間中さんに見つめられると、お酒の力を借りて成り行きで告白しそうになる。でも今はダメ、心にブレーキをかけたが間に合いそうにない。
酔いが回ったからと、春陽はさっと席を立った。ここで気持ちを伝えて受け入れてもらえなかったらこれからもっと辛くなる。
お手洗いで鏡の中のもう一人の自分と目が合った。今正直になるか、もう少しこの気持ちをしばらく抱えて時期を待つか、きっぱりあきらめるか。春陽、どうしたいの?
私はどうしたいのだろう。気持ちを立て直して席に戻り間中に言った。
「すみません、今日は酔いが回ってしまったみたい」
「大丈夫ですか?」
「間中さん、一つお願いがあるの」
「どうしましたか?」
「今度、映画に付き合ってもらえませんか?」
お手洗いを出て席に戻るまでの数秒でふと沸き起こった気持ちを伝えた。もう一度、会社ではない場所で間中さんと話したい。その時に気持ちを伝えてで断られたら、きっぱり彼の事はあきらめよう。
恋心なんて、いつかは消えてしまうものだから。
「もちろん。では、見たい映画があるのですが」
「本当?じゃ、その映画を見に行きましょう」
間中さんは、私と映画へ行くことを受け入れてくれた。少なくとも嫌われてはいない。間違いなく今は恋人もいない。ほんの少し希望を持ってもいいのかな。
春陽と間中は、鳥味鶏を後に早い春を思わせるほんのり暖かく優しい冬風に見送られて駅へ向かった。
・・◆◇・・
年が明けた最初の日曜日。年末とは打って変わり、お正月が終わったとたんに寒さが厳しくなった。風はなく雲も見当たらない穏やかで広い晴天の空を見ていると、寒いということを忘れてしまいそうだ。今日の一日が終わった時、これまでとは違う変化が訪れるのだろうか。楽しみであり怖かった。
今日は間中さんと映画へ行く約束をしている。男性と一緒に映画なんて何年ぶりだろうか。結婚前には元夫とデートでは必ずと言っていいほど一緒に映画館へ足を運んでいた。夫と結婚するきっかけも、映画がくれたようなものだ。結局は別れることになったけど。
映画館には、様々な人たちがいた。同年代のカップルやご夫婦、一人で来ている男女、男性ばかり、または女性ばかりの3~4人のグループ出来ている人たち。
今日の映画は、過去の映画のリバイバル上映だった。ホームレスになってしまったシングルファーザーが医療機器の在庫と小さな息子を抱え、たった一人の採用枠を勝ち取るために無給で過酷な研修期間経て、半年間も奮闘するストーリーだ。
努力のかいあって最後は採用を勝ち取る。実話を基にした、感動的なサクセスストーリーらしい。この映画は当時私の目を覚まさせてくれた映画だ。
間中さんがこの映画を見たかった理由は聞いていないが、見逃したから機会があれば映画館で観てみたいと思っていたらしい。
誰にも真似ができない大変な努力をしても、採用されるかわからない。だけど、人生を賭けて今この時に集中し、自分の持てる力を発揮する。主人公の資質や才能もあったのだろうけど、こんな努力私に出来るだろうか。たった一人の選ばれた人になるための努力。恋愛を成就させるための努力も必要なのかもしれない。
映画が終わったのは16時過ぎだった。出口に向かいながら春陽は考える。食事に誘うかお茶に誘うか。そういえば映画を見た後のことは決めていなかった。とりあえず、コーヒーショップかなと考えていると間中さんが春陽に言った。
「春陽さん、今度は僕からのお願いです」
「あ、はい。何でしょう」
「これから一緒に行ってほしい場所があります」
「ええ、もちろん。でも、どこに?」
「僕のお気に入りの場所でとても素敵なお店です」
ここからすぐなのですが、隠れ家みたいな雰囲気で知っている人は少ないです。開いているのか、何の店なのか少しわかりにくいからか初めての人より常連の人が多いみたいです。まあ、楽しみについてきてください。
ゆっくり歩く間中さんより少し遅れて春陽もゆっくり歩く。映画館の裏通りの道を2本入って右に曲がると、人通りがほとんどない住宅街のような通りに出た。とてもお店があるような場所には見えないが、注意深く見ていると住宅と思っていた一軒家は雑貨店や喫茶店のようだった。
「ここです」
「喫茶店ですか?」
「barです」
入口の横に小さく書かれたお店の名前は「ange et fleurs」と書かれている。フランス語だろうか、読み方がわからない。入口にウエルカムプレートがかかっている時が営業中で、かかっていないときはお休みだという。
ドアを開けて中に入ると、照明を落とした店内は漆喰の白壁だった。さりげなく小さな花が飾ってあるだけで、置物などの装飾品はほとんどなくシンプルで上品な造りだ。思っていたバーのイメージとは違う。
暗くてタバコくさい・・というのが春陽のバーへのイメージだった。壁一面にお酒の瓶が並べてあるが、白い壁を多く見せるためか少し低めの位置にあるので圧迫感を感じない。時間が早いせいか、まだ店内にお客さんは誰もいなかった。
カウンター内にはマスターらしき人と女性が一人。間中さんが一席だけある2人掛けのテーブルへエスコートしてくれた。ほかの席はカウンターとスタンディングスタイルの小さなテーブルがいくつかある。
barへ来るのがはじめての私は、何を注文すればいいのか、どう注文すればいいのかがわからず少し緊張した。メニューは置いてあるが、独特な表現は読んでも解らない。
「いらっしゃい。おや、間中さん、今日はお連れさんと一緒、珍しいですね。美しい花が一輪、テーブルの上に咲いたようです」
おつまみのナッツが入った小さな小皿をテーブルに置きながらマスターが言う。落ち着いた雰囲気だが、年齢は意外に若い。30代後半くらいだろうか。
「ここのマスターは好みのイメージを伝えるだけでオリジナルカクテルを作ってくれますよ」
「当店は男性専用というわけではないのに、なぜか男性一人のお客様が多いのですよ。」と、マスターがいう。
「何をおつくりしましょうか? 間中さんはいつもと同じでいいですかね」
「はい、お願いします。春陽さんは何がいいですか?」
「すみません、私こういうお店は初めてなので、何を頼めばいいのかわからなくて」
「かしこまりました。では、あなたを一目見た時にある花をイメージしたのでそれをおつくりします。お酒は強いほうですか?」
「普通かな・・ワインボトル半分くらいなら飲めます」
「なるほど。では、ワインがお好きなようですので白ワインをベースにしますね。」
マスターがカウンターに戻ると女性が、どうぞ・・・と、とてもきれいに切りそろえられた一口サイズのサンドイッチを出してくれた。
なんてきれいなサンドイッチなのだろう。生ハムとチーズ、キュウリのピクルスだろうか。自分が作るスーパーの安いロースハムとプロセスチーズではないことは確かだ。ハーブだろうか、小さな花が付いた一枝があしらってある。
私なら、茹でたブロッコリーかプチトマトを切って飾ることしか思いつかない。春陽は心の中でそう思いながら、つまんで口に運んでみた。うん美味しい。ワインに合いそうなサンドイッチだ。
・・◆◇・・
「僕は、仕事で割り切れない思いを抱えてしまった時や、元気が出ないときにここへ来ることが多いかな」
マスターは静かに僕の話を聞いてくれるし、話したくないなと思っているときは、察してくれて無理に話しかけたりしない。今日は春陽さんと一緒だから、なんだかドキドキします。誰かとこの店でご一緒できることがとても新鮮で。デートで来られるようになるとう嬉しいですね」
「あら、今日は私とのデートではないのですね。」
「今日は同僚・・いや、ちょっぴり先輩社員の春陽姉さんのおもてなしをさせてください。先日、素敵なクリスマスイブを過ごさせてもらったことへのお礼です。まあ、僕がもてなすというより、マスターがもてなしてくれるのですけどね。ねえ、マスター」
間中さんはマスターに微笑みかける。
なんだ・・私としては初めてのデート気分をひそかに楽しんでいたのに。“同僚の春陽姉”さんと言われたことに間中さんとの間に大きな心の距離を感じる。冗談でももう少し違う言い方をしてほしいと思うのはわがままかな。
「おもてなしなのですね。それは、楽しみです」
笑顔で返したが、春陽は心の中で思いっきりがっかりしていた。
にこやかな表情でテーブルに来たマスターは、春陽のために作ってくれたカクテルとロックグラスをそっと置いて、軽く頭を下げたあとカウンターへ戻っていった。
乾杯をして、カクテルを一口含む。さわやかですっきりとした甘さ。マスカットの香りが鼻抜けた後、ほんのり淡いバラの花のような香りが口に残る。なんという名前のカクテルだろう。私だけのオリジナルと言っていたが。カクテルグラスに浮かんだ淡いピンクの花を見つめていると間中が話し始めた。
「この間、春陽さんがご自身のこと話してくれましたよね」
「ええ」
「今日は僕のことをお話ししたいと思って。聞いてもらえますか?」
「もちろん」
元気が出ないときや割り切れない思いを抱えたときに来る場所。そこへ私を連れてきた意味は何だろう。達観したような大人びた表情を仕事中でも見せることがある間中が抱えていることが何なのか春陽はとても気になった。
「実は、僕、会社のみんなからも独身だと思われているけれど、結婚しています」
「え?」
「妻の亜紀とは別居中ですが」
女性は恋をすると、つい相手の薬指を確認する。このまま恋し続けていい相手かどうかを確認するために。春陽も、間中への想いに気づいたとき最初に気になったのは薬指のリングのことだった。
もちろんリングも、リンクの跡もついておらず、年下の間中のことは独身だと思っていた。指輪の跡が全くついていないのは、外してから何年もたったからなのか、はめていた時期が短かっただけなのかはわからない。
間中によると、現在東京に住む奥さんとは、長い間同棲期間を経て2年前に籍を入れたそうだ。籍を入れたきっかけは、奥さんの転勤が決まったことだった。結婚してから別居するとは不思議な関係だ。世の中には想像もできない男女の関係というか状態があるものなのだ。
一年半で戻る予定が半年間延期になり、結局そのまま奥さんは戻ってこなかった。まだ子供もいなかったので離婚を考えたが、結論は出さなかった。今はお互いの気持ちの整理をつけている期間で、法的にはまだ夫婦ということらしい。
「間中さんはこれからどうしたいの?奥さんとやり直したい気持ちが強い?」
「そうだね。実はわからないんだ」
間中さんから聞いていた通り、2人で話しているときマスターも女性のバーテンダーも決して無理に話題に入ってこない。その代わり、グラスや周りのお客様へさりげなく気遣い、絶妙なタイミングでの接客をしてくれる。
間中が既婚者であると聞いて、春陽の心は穏やかではなかった。でも二人の関係はこの先どうなるかわからない。間中はどちらかというと修復を望んでいるように見える。としたら、春陽が気持ちを伝えたところで受け入れてはもらえないだろう。やめよう、どうなるかわからないことを考えるのは。
それから話題を変えて、会社や仕事のこと、さっき見てきた映画のことを話した。この映画を間中が見たかった理由は背中を押してくれるきっかけが欲しいからだと言った。背中を押してもらいたいことって、奥さんとのことだろうか。
二杯目に頂いたお酒が強くて、春陽はすぐに酔いで頭が回らなくなった。それから彼と何を話したのかははっきりとは覚えていない。自分の気持ちを無意識に伝えてしまったかもしれない。ただ、この瞬間を繋ぎ合わせた今という時間が、楽しく幸せだという気持ちであふれていた。
barは長居をする場所ではない。スマートに飲んで小一時間会話を楽しめば席を立つもの。二人が店に入ってから、二時間近くが過ぎていた。そろそろ、別のお客がはいってくるかもしれない。
「間中さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「そろそろ、出ましょうか」
「そうですね。春陽さんいい感じに酔っていますものね」
・・◆◇・・
「今度は、私一人でも来ていいですか?」
「大歓迎です。是非、お待ちしています」
「あの・・今日いただいたカクテルの名前は何というのですか?」
「秘密です。お好きなように命名してください」
マスターはそう言いながら春陽に軽くウインクをした。私たちの会話をにこやかに見つめた後、間中さんが先に店を出る。私がコートを羽織っている時、マスターが私の耳元でそっといった。
「春陽さん、間中さんの事頼みますね」
「え?」
「本当にまた、是非いらしてください」
頼みますとはどう言う事だろう。その言葉の意味がわからず少し戸惑う私に、マスターはそれ以上何も言わず、ただ微笑んでいるだけだった。
「それでは、お気をつけて。ありがとうございました」
マスターは二人を見送ると、春陽達が入店後にさりげなくしまい込んでいた「営業中」を知らせるウエルカムプレートを再び入口に掲げた。店の中に戻ると、カウンターの一輪挿しにノースボールの花をそっと挿した。
店を出ると、間中さんが優しいまなざしで春陽を見ていた。
あ、私はやっぱりこの人の事が好きだ。なに、今ここで気持ちを伝える勇気が出ない。彼は結婚をしている。けれど、離婚をするかもしれない。もう少し時間が経ったら・・伝えてみようこの気持ちを。
駅まで歩く道、間中が話し始めた。
「4日後に妻と会うことになっているんです」
「二人の関係を前に進めるために?」
「もう一度やり直そうって話が出ていて。妻と向き合ってこれからの2人のことをしっかりと話し合って結論を出してきます」
そう言うと、間中はコートの内ポケットから指輪を出して自分の薬指にはめた。それを見た春陽はショックで一気に酔いから醒めた。
長らく外していた指輪を今このタイミングで私の前ではめるということは、奥さん以外は受け入れないという決心の現れなのだろうと春陽は察した。
これで自分の気持ちを伝えることは出来なくなった。でも伝えたら私たちの関係は知りあいや単なる同僚としてではなく特別な関係に進むことができるのではないか。本当は心の底では淡い期待を抱いていた自分に気づく。
ぐっと気持ちを押し殺して、言葉を絞り出した。
「なんだ、良かったじゃないですか。嫌いになったわけじゃなかったのでしょう?離婚している私がいうのも変ですけど、ちゃんと愛し合った2人だから、きっとうまくいくと思います。応援しています」
「ありがとう。そうだね。今度はきっとうまくいくと思う。長く離れてみてわかった妻の良さもあるし。妻はね、実は僕の理想の女性で、僕から熱烈にアタックして付き合いを始めプロポーズして結婚したんだ」
ああ、もうどうでもいいや。続きは聞きたくないけど、聞かなければ。
「ふふ。間中さんって、意外と積極的な人だったのですね。肉食系とか」
「そうだね。ここぞというときは一点集中でとことん責めるタイプ」
「そういうのを肉食っていうのでは?そういえば、仕事もそんな感じですもんね」
笑いながら大人の対応を装い間中の話を聞いているが、春陽の心の中ではショックのような嫉妬のような良くない感情の渦が巻いている。だが、知らなかったとはいえ間中さんは結婚していたのだから、始めてはいけない恋だったと思う。
駅まで送ってくれた間中と別れ、振り返らずに駅の階段を上った。
家に着いた春陽は一人の部屋で窓の外を見る。
一日だけの最初で最後のデートになった。ひょっとしたら、間中さんも私の事が好きかもしれないという淡い期待を抱いていたなんて、私はバカだ。こんな日なのにお月様がとても綺麗に見える。
「ほんと、綺麗」
泣くつもりはないのに少し涙が目に滲む。涙はどんどん溢れてきて止まらない。誰もいないから遠慮をせずに声を出して泣いた。こんなに泣いたのは久しぶりだ。息子と別れて一人になったとき以来だろう。でも、その時の涙とはどこか違う。涙をいっぱい流して声を出したらすっきりしてきた。
離婚して息子を手放すと決めたときは、不安がいっぱいで自信をすっかり失い、気力を日々失っていた。軽く考えていた就職活動に苦戦していたからだ。今はショックではあるけれど、諦めることが正解、これで良かったという気持ちがあった。
何より「恋をできる自分」にまた会えたできたことで強くなれた気がする。これから、もっと好きになれる人が見つかるだろう。これからの人生はまだ長い。私の中で生まれた小さな恋心は、私の中だけで完結した。
・・◆◇・・
春陽を駅まで送り届けた後、地下鉄の駅に向かって歩き出した優紀は、信号で立ち止まり透き通った空気の先の夜空を見上げた。
バーで一緒の時間を過ごしていた間、少し酔った春陽さんは何とも言えない可愛らにあふれていた。子供が無邪気に話すように沢山おしゃべりをしてくれたが、きっと話の内容は覚えていないのだろうな。
実際の年齢よりずっと若く見える彼女はまるで僕の妹のようで、そんな彼女を守ってあげられる存在になれたら・・と思うようになった。だが、彼女を守ってあげる人は僕であってはならない。
いつの間にか芽生えてしまった春陽さんへの恋心を打ち消すために、あえて彼女の目の前で薬指に結婚指輪をはめた。思わず彼女を抱きしめてしまわないように、自分の感情を押さえるためのお守りとして亜希との結婚指輪をポケットに忍ばせていたのだ。
そういえば妻の亜紀と春陽さん。外見もタイプも正反対なのにどことなく似ているような気がするのはなぜだろう。
仕事をしている時の亜紀は自分にも周囲にも厳しく聡明で、テキパキ動くフットワークの軽い女性だ。だが僕と2人きりの時はとても甘えん坊で可愛い。少女のように小さな幸せを見つけることが上手で、目を輝かせて喜ぶ。一つ年上の姉さん女房だが、夫である僕の事を信頼してくれている。無邪気で素直な女性なのだ。
春陽さんは仕事対して誠実でまじめ、処理も丁寧で性格だ。ここぞというときはきっちりとフォローしてくれる。他の女性社員たちのように「間中君」と呼ぶのではなく、3つ年下の僕を「間中さん」と呼び、丁寧な言葉で話してくれる。
二人とも年齢や立場で相手を選別して態度を変えることをしない。年下だからと言って上から目線で人を見ない。そんなところが亜紀と春陽さんは同じなのだ。
駅の改札へ着いた時、barに入る前よりぐっと気温が下がっていることに気づいた。頬にあたる風の冷たさが増し、冷たいというより痛く感じる。もっと本格的な冬の寒さががこれからやってくるのだろう。
改札を通りホームへの階段を下りている時、亜紀との日々が少しずつ蘇ってきた。あんなに愛しあっていたのに、いつから心がすれ違ってしまったのか。お互いの考えを整理するために、二人の距離をおくという決断は間違っていたのだろうか。
僕たちは、正式な夫婦になる前の恋愛期間がとても長いカップルだった。亜紀と出会って恋に落ちたのは、僕が22歳で亜紀が23歳の時だった。同棲を始めるまでは3ヵ月くらいだったが、その後、入籍するまでに4年もの時間が過ぎていた。
生まれたての恋心はとても熱い。その熱い気持ちはしばらくすると少しずつ冷めていき2人にとって心地よいと感じる程度の温度まで下がる。それ以後はしばらく一定の温度を保ち続ける。お互いへの強い責任感を背負っているわけではない。
ゆるいつながりと心地よい温度に浸っている状態から、二人とも抜け出すことが出来ずにいたのだ。世間の多くの人は、相手の人生にきちんと責任を持ちますよと言う事を形にするために入籍をして生活を共にするのだろうが、僕たちの場合は違った。
籍を入れたきっかけは、亜希の東京転勤が決まったことだ。物理的な距離に負けないように、しっかりと絆を結ぶための入籍だった。僕の手のひらに包まれた亜希の手を大切に守っていくのだと心の中で誓った時の感触はまだ覚えている。
電車が入線してきた音で亜希の記憶がパッとはじけ飛んだ。
亜紀とのこれからの関係に答えを出す約束の日が4日後にやってくる。春陽さんには、妻とやり直すつもりだと伝えたが、それは本心ではない。僕は、ついさっきまで亜希にどのような言葉を伝えて関係を終わりにすべきか悩んでいた。
もう二人の関係は結婚前や結婚後に過ごした日々のような関係には戻ることができないだろう。けれど、亜希が夫婦という関係をまたやり直したいと考えているのなら僕は承諾するつもりだ。
今でも亜希のことは大切だし理想の女性だということは嘘ではなかった。僕の体の一部は、まだ亜希の事を愛し求めている。
だから、春陽さんの気持ちに僕は気づかないふりをして遠ざけようと思った。
・・◆◇・・
しばらくして、間中さんに東京にある関連会社へのの出向命令が出た。barからの帰りに春陽の目の前ではめた薬指の指輪は外されることなくずっとつけたままだった。
春陽は、間中さんと奥さんの関係は結局どうなったのかについては聞く勇気がなく、間中さんからも何も言ってこなかった。
間中さんが入社する前の、いつもの日常に戻った。以前のように斜め後ろの席は空席に戻り、背中でなんとなく感じていた彼のぬくもりはもう感じることはかなわなくなった。
(第八章につづく)
