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天使の約束(6)

第六章 恋の神様からのクリスマスプレゼント


●前回のお話はこちら 第五章>>

派遣社員として仕事が決まった。就職活動はひとまず区切りがついた。

大阪から横浜に戻った春陽は、智に仕事が決まったことを伝えた。

「派遣社員で働くことが決まったよ」
「そう。よかったね」
「一週間後には家を出るね」
「ねえ、本当に出ていくの?有希に会えなくなるんだよ」
「わかっている。時間をおいてからそのことは話し合おう。仕事頑張るから」
「面会のこと、両親の説得は続けるから。会いに来てほしい」
「そうしたいとは思っている。けど・・」

仕事が決まった喜びよりも、間もなく有希と離れなくてはならない現実に、心が少し折れそうになっているが、もう決めたのだ。自分は意地を張っているのかもしれない。どうかしているのかもしれないけど。

春陽は、淡々と転居の準備を始めた。最低限の荷物だけをもって関西に戻ることにした。有希が生まれてから撮りためた写真を収めたアルバムを開く。まだ生まれて2年もたっていないのに5冊もあるアルバムからは、毎日少しずつ成長をしている様子が見て取れる。

その中から、生後3か月の時の写真を一枚抜いた。首がしっかりと座ってやっと抱っこが楽になった時のものだ。写真の中の有希を見つめる自分の顔はなんて優しい顔をしているのだろう。当時の想いが込み上げてきた。

今はヨチヨチと歩き、言葉らしき声も出すようになった。もう私を母親だとわかっているけれど、会えなくなるときっと、私のことなんかすぐに忘れてしまうだろう。でも要らないから手放すんじゃない。将来を考えると、私と暮らすよりパパと暮らすほうがきっと幸せな未来が待っている。何不自由なく、育ててもらえると思う。

ごめんね。これからの君の成長を毎日見てあげることができなくて。2歳の誕生日を一緒に祝うことができなくて。ママの心が弱くて、ほんとにごめん。せめて家を出るまでの一週間はたくさん抱っこさせてね。

仕事が決まってからの一週間があっという間に過ぎていった。少し大きめの段ボール3個の荷物は、先に宅配便で実家に送ってあった。

「駅まで送るよ。勇希といっしょに」
「いいよ。つらくなるから、ここで」

元気でね。小さな勇希の手をそっと握り、柔らかい髪をなでる。

「智も、元気でね」
「うん」

じゃあねと手を振り、二人を振り返らずに春陽は歩き出した。今持っている荷物膨らんだバッグはちょうど勇希が生まれて時の体重と同じくらいの重さだなと思うと、涙が少しこぼれた。

薬指にはめていたリングを外し跡だけ残っている指を見つめたとき、何か大切な約束を破ってしまった気分になったのはなぜだろう。

とにかく、私は今日からまた一人の人生に戻ったのだ。

・・◆◇・・

実家につくと、兄夫婦が父と一緒に迎えてくれた。

「お帰り。お弁当つくってきたから。一緒に食べよう」
「ただいま。これからまたお世話になります」
「固いこと、言わんといて。頑張っていたらいいことあるよ」

私にも居場所がちゃんとあったのだと、3人の顔を見て思う。寂しいという気持ちが少し和らいだ。

離れて2年たった自分の部屋は、当時とあまり変わらない様子だった。父がまめに掃除をしてくれていたのだろう。埃もほとんど積もっていない。段ボールを開け、中身を出し、服をハンガーにかけてクローゼットにしまっていた時に仕事へ来ていくような服がないことに気が付いた。

初出社まであと一週間ある。社会人復帰のために必要な準備、服も必要だ。明日は、服と靴と鞄を買いに行くことにしよう。オフィスカジュアルでネイルもヘアカラーもOKでと聞いてはいるが、初日くらいはきちんとした格好をしたほうがいいだろうから。

春陽はもともとファッションに興味がなく、ブランドのバックも靴もアクセサリーも持っていなかった。それより、本や映画、こだわりのカフェなど、質の良い時間を過ごすためにお金を使うのが好きだった。

買い物慣れしていない春陽は、ショッピングセンターへ行きお店を見て回るが、入る勇気が出ない。ああ、疲れたな。何かジャケットだけ買えばいいか。でもせっかく来たし、もういい大人だし。

たまたま立ち止まったショーウインドーの中でマネキンが着ているオフホワイトにレース地の少し光沢のある生地でしつらえたワンピースが目に映った。

「素敵だな。いいな」
数秒間見つめていると、店員さんが中から出てきた。しまった、声を掛けられると思ったと同時に、案の定声をかけられた。

「もしよろしければ、中を見ていきませんか?」
「あ・・でも」
「今日決めなくても、見るだけでもいかがでしょう」
「はい、では」

店員さんの笑顔と言葉に促され中に入ってみた店内には、不思議なくらい、自分の好みに合う洋服であふれていた。すらっと背が高く肌がきれいでモデルさんみたいな店員さんと目が合うと自然な笑顔に好感がもてた。さりげなく名札を見ると、常田真紀と書かれていた。

「どのようなものをお探しですか?」
「再就職、いや、派遣ですが仕事が決まったので」
「そうだったのですね。就職、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「それではあまりカジュアル過ぎないほうがいいですかね」
「ええ、職場に着て行っても大丈夫なように、カジュアル過ぎず、デザインもシンプル目なものが・・・」
「なるほど。お客様には奥左手にあるブランドのものがお似合いかと」

初日に着ていく服はどうしよう?パンツスーツかスカートがいいのか。ワンピースってどうなんだろう。いろいろなことを考えながら店内を見回していると、常田さんが、コーディネートした洋服を手にして春陽に声をかけた。

「こちらはいかがでしょうか。お客様のイメージにぴったりですし、初出社の時でも大丈夫だと思います。

常田さんが選んでくれた服は、レトロな水色のレース生地のワンピースとベージュ系のカーディガンだった。レース生地といっても少し離れるとレースかどうかわからない繊細な生地だった。ノースリーブなので真冬以外はオールシーズン着られるし、カーディガンは短めの丈で小さな編み込みがアクセントだが仕立ての良いデザインで、小柄な春陽に似合いそうなものだった。

「ビジネススタイルがよければ、こちらのパンツスーツもおすすめですよ」
「どちらも素敵。どうしようかな」
「迷いますよね。ほかのものも自由にご覧になって、試着もしてください」
「はい、ありがとう」
「何かありましたらお声がけくださいね。あ、試着だけでも大丈夫ですから」

春陽は悩んだ末、常田さんが勧めてくれたコーディネートと、グレーのジャケットを買うことにした。値段も思ったほど高くはなく安心した。

常田さんは帰り際に、春陽に言った。

「お客様の節目の日に、お洋服を一緒に選ぶことができて光栄です。また、ぜひいらしてくださいね」

私も。新しい人生を始める時に、常田さんに洋服を選んでもらってよかったと。そう思ったのだが、恥ずかしくて伝えることはできなかった。誰かに洋服を選んでもらうって、悪くないな。

・・◆◇・・

出社初日は、派遣会社の営業さんと会社の受付前で待ち合わせをしていた。春陽が受付につくと営業さんが先に着いていて迎えてくれた。企業訪問の時に同行してくれた営業さんが休暇中とのことで代わりに来てくれた人だ。

「すみません、遅くなりまして」
「大丈夫です、まだ時間前ですよ。初めまして、営業の常田ともうします」
「若葉です。どうぞよろしくお願いします」

常田。この間入った婦人服店の販売の人も常田さんだった。あまり多くはない苗字だと思うけど、おもしろい偶然だ。ご親戚なのだろうか。

「若葉さん。まずは、この仕事を大切に頑張ってみてください。きっと、若葉さんの事を見てくれてきちんと評価し、必要としてくれる会社は必ずみつかりますからね」
「ありがとうございます。はい、頑張ります」
「あまり、肩に力を入れないでくださいね」

常田さんは、春陽の就業決定を心から喜んでくれているようだった。派遣社員として経験を積みながら正社員を目指すこともできるし、今回は企業様の意向として、勤務の状況を見て派遣から直接雇用という可能性もあると教えてくれた。もちろん、若葉さんのお気持ちもあるでしょうからあくまで可能性ということでと締めくくった。

受付を済ませ、人事担当者と顔合わせの後、常田さんは会社へ戻っていった。就業場所の部署で紹介をされてから、春陽の社会人生活が始まった。

・・◆◇・・

結局、最初に就業した会社は、3回目の更新を迎えたときに方針が変更となり直接雇用の話はなくなったと聞いた。それからは3か月ごとの契約更新を何度か繰り返しながら、タイミングをみて就職のため求人情報を検索し求人への応募を続けた。しかし正社員は賞与があると言っても、派遣社員である今と年収はそんなに変わらない。

一度書類審査に合格し、面接に行った会社の60歳くらいの社長から手厳しい言葉を浴びせられたこともある。

「派遣社員で働いているなんて、真剣に生きていない証拠」
「先の人生に対する見通しが甘い」
「30歳も過ぎて独身なのは人格にも問題があるのではないか」

このようなことを言われるために面接に行ったのではないと、悔しかった。

正社員で働くことは、もうあきらめようか。最近では法律が変わり派遣社員の時給が上がり交通費も全額支給されるようになった。時給だから月々の収入にばらつきはあるとしても、年収では正社員と大きく変わるわけではない。また、合わない社風やルールに縛られるのが嫌で正社員へのこだわりは薄れていた。

今後も派遣社員として必要とされる自分になる努力をしようと考えを切り替えた。派遣会社が開催しているパソコンや経理のセミナーなどにも参加して仕事が途切れないようにスキルアップにも励み、現在3社目となる派遣先で好条件の時給で就業できるようになった。

離婚後、智からは定期的に手紙が届く。きっと、中には勇希の写真が入っていて成長の様子などが書かれているのだろう。春陽は、手紙が届くたび封を切らずにすぐに小さな箱へしまい込んでいた。時々、LINEのメッセージも届くが、いつも既読スルーをしてきた。

離婚してからこの4年の間、好意を持ってくれる男性がいないわけではなかった。告白されたこともある。だが、離婚歴がある・別居している息子がいることを伝える勇気が出ず、負い目から関係が進展することはなかった。

積極的に恋をしない自分でいること・恋する資格はないと自分に言い聞かせることが、子供を置いて離婚した女性が受ける罰だと思うようにしてきた。再婚も高望みだと考えている。1人で生きていくしかないのだと、自分に信じ込ませてきた。

「でも、本当にこれでいいのかな」

一人でずっと生きていく。そう思うととても不安になった。

・・◆◇・・

8月のある日、春陽は部長に呼ばれた。もしやまた急に方針が変わって契約更新が危ういという話だろうか。恐る恐る面談室のドアをノックして中に入った。

「若葉、君は本当によくやってくれて助かるよ。で、今回呼んだのは営業部に中途採用で男性が一人入社が決まったという連絡だ。入社は来週の月曜日から」
「はあ。そうなんですね」
「そこで、君に彼の教育係をお願いしたいのだが」
「え? 派遣の私が・・ですか」
「まあ、お世話係に近いかな。早く部になじめるようにいろいろ教えてやってくれ」
「わかりました」

席を立とうとすると、慌てるなと部長が座るように手で促す。まだ話は続いているようだ。部長からは彼の試用期間3か月が終わるタイミングで、春陽を直接雇用に切り替えたいと告げられた。

「ということで、考えておいてくれ」

もちろん断っても、派遣の契約は更新確定だから安心してほしいと。ただ、ぜひ前向きな答えを期待していると部長からは念を押された。春陽が断るとは思っていないのだろう。もちろんありがたい話で、給料も時給換算で今よりずっと良くなるらしい。

「あ、忘れていた。彼の名前は間中だ。座席は、君の斜めうしろだから」

自分の席に戻った春陽は、斜め後ろの席を見つめた。春陽が就業開始したときにすでに空席だったが、それよりずっと前から誰も座っていなかったようだ。

引き出しを開けて、古い書類を取り出し箱へ移した。急に退職でもしたのだろうか、私物も結構残っている。机を拭き事務用品をそろえ収納していると部長が戻ってきた。春陽を見て、色々頼むよと目で合図をしてくるので、笑顔を返しておいた。

翌週入社してきた間中さんの第一印象は、不愛想でとっつきにくいという感じの男性だった。年齢は、春陽より3つ下と聞いていたが、春陽より少し上に見える。老けているというわけではなく、何かを乗り越え達観しているというか落ち着いているという感じだ。

「今日からお世話になる間中優紀(まなかゆうき)です」
「若葉春陽(わかばはるひ)です。よろしくお願いします」

ゆうき・・。もう何年も呼びかけていない息子と同じ名前。漢字はちがうとしても「ゆうき」という言葉の響きに、春陽の胸はチクりと痛んだ。

ではとりあえず・・・間中さんに声をかけようとしたら彼はさっとパソコンを開きさっそく作業を始めている。デスクに置かれた会社の資料には付箋が貼ってあるのが見える。事前に会社のことを知るために勉強済みか。とてもできる人なのかもしれない。

「あの・・」
「何でしょうか?」
「入社オリエンテーションの時間をいただきたいのですが」
「ああ。何時からでしょうか?」
「10時から、会議室Aで。所要時間は30分程度です」
「わかりました」

春陽は資料を用意して、10分前に会議室Aへ入室して間中を待った。開始時刻の3分前に間中は現れ、春陽と向かい合う形で着席をした。

「会社全体のことは人事から聞いていると思いますので、部署の説明をしますね」
「はい、よろしくお願いします」

実は、私派遣社員なのですが・・と前置きをすると、間中さんがそんなことは気にしない、先輩には変わりないのでいろいろ教えてくださいと頭を下げる様子に、不愛想な奴という第一印象はまじめで誠実な人だという人柄で上書きされた。

不愛想なのは、きっと不器用だからだろうと思った。

・・◆◇・・

間中が入社してそろそろ3か月を迎える。春陽が派遣契約を終え直接雇用となる日も近づいていた。部署内では、間中の正式雇用決定と春陽の直接雇用切り替えに伴う歓迎会を開こうという話が持ち上がっていた。

自分が一番新人だからか、毎朝誰よりも早く出社する間中のことが春陽は気になりだしていた。春陽も早めに出社するのだが、間中のほうがいつも早かった。いつの間にか、出社して一番に彼と挨拶を交わすことが楽しみに変わっていた。

毎日、会社で間中に会えることが楽しいと感じている自分に気づいた春陽は、戸惑った。私は彼に恋をしているのだろうか。いやいや、別居中とはいえ子供がいるのに年下・独身の同僚に恋なんてありえない。

「最近、若葉さんも早いですね」
「え・・うん。早く出ると電車が若干空いていて座れることが分かったから」
「僕も実はそうで。出社一番乗りはそのうち春陽さんに奪われそうですね」

恋をする資格がないからと引き止めるもう一人の自分の意思とは反して、彼への想いはゆっくりと私の心の中で大きくなっていた。もうこれ以上大きくならないように押さえつけようとしても、昨日より今日、今日より明日と、これからも少しずつ大きくなってゆくのだろう。

いつも早めに出社する彼と少しでも会話をする時間を作るため、春陽もいつもより早い電車に乗るようになった。運がよければ、駅の改札を出てすぐ前にある信号で一緒になることができるからだ。信号待ち、信号を渡り会社まで歩く約10分間は春陽にとって日々の活力になっていた。

とはいえ、春陽は時々辛くなった。彼は3歳も年下できっと独身だ。女性が年上のカップルは珍しくはないかもしれないけれど、離婚経験ありの30歳をとうに過ぎた私に興味をもつはずがない。

あまりプライベートな事を同僚に話さない人なので、同じ部署のであっても彼の事を良く知っている人はいないようだ。でも私は、さりげない心配りが出来る人だということを知っている。

今度の歓迎会で席が近くなったらいいな。そんなことを考えている自分が恥ずかしくもありかわいくも思えた。いつか、私は間中さんに告白する日が来たりするのだろうか。

それから3日後に行われた歓迎会で春陽が間中の席の隣になることはなかった。

・・◆◇・・

来週の日曜日はクリスマスだ。今年は暖冬という予報通り、厚手のコートもまだ出番が来ない。12月半ばを過ぎたのに襟元に少し厚手のスカーフを巻いておけば、ブレード生地のトレンチコートだけでも全然寒くはなかった。

春陽は派遣社員から正社員となったが、通年業務量が安定していてこれまでと変わらず残業や休日出勤は無いはずだった。だが予定外の人事異動や離職で人の補充が間に合わなかったせいもあるだろう、今年の12月はとても忙しい。

年始に仕事を持ち越すことは避けるために休日出勤や残業を避けられないかもしれない。クリスマスイブといっても何も予定はないし休日出勤の申請をしたら部長休日出勤に付き合ってくれることになった。

クリスマスイブの土曜日、休日出勤は通常より1時間遅く出勤した。会社に着くと、別部署の何人かが休日出勤していた。営業部では部長がすでに仕事を始めていた。机の数より人の数がはるかに少なくて静かな事務所内の様子は、いつもよりゆっくりと時間が流れているようで新鮮だった。

「おはようございます。今日は休日出勤にお付き合いいただきありがとうございます」
「おはよう。いいんだよ。若葉さん、いつも頑張ってくれてありがとう。とても助かっているよ。今年は異動や退職で人が減ってしまった分君に負担をかけて悪いね」
「いえ、たまには忙しさで頭に刺激を与えるのもいいものだと思っています」
「頼もしいね。年明けには新しい派遣さんを2人増員する手配が出来ているから」
「ありがとうございます」

部長との会話の後、斜め後ろの誰も座っていない席に視線を向けた。仕事熱心な間中さんが今日はなんとなく出勤しているような気がしたのだが、目論見は外れる。クリスマスイブの日にわざわざ休日出勤するわけなかと自分に言い聞かせた。きっと、恋人とデートの約束をしているのだろう。ひょっとしたらという淡い期待はすっと消え去り、現実を見つめた春陽は椅子に座り仕事を始めた。

15時になった時、他部署の人たちは仕事を終えて帰り支度をしている。部長は、外へコーヒーを買いに行くと言って事務所から出て行った。私も仕事の手を休めて一息つこうと席を立った。空になったカップを手に給湯室へ向かっている時ふと間中さんの顔が浮かんだ。今日の彼は誰とどのような一日を過ごすのだろうか。

給湯室から戻って席に着き、淹れたばかりの紅茶を口にした時、事務所の中に誰かが入ってきた。部長が戻ってきたのだろうと何気なく入り口に視線を向けると、入ってきたのは間中さんだった。

「おつかれさまです」と言いながら、彼は席に着くなり即パソコンを開き仕事を始める。すぐに部長もコーヒーを手に戻ってきた。

「あれ、間中、今日出勤する予定だったのか?」
「いえ、私物の忘れ物をしたので取りに来ました」
「そうか」
「ついでに来週使う営業資料を作っていこうかと思っています。」
「ああご苦労さま。あまり無理をするなよ。今日は休日だから残業禁止だぞ。17時までには必ず帰るように」
「はい。わかりました」

3人になった休日の事務所は、それぞれが自分の仕事に向き合い黙々と作業を始めた。書類をめくる音と、タイピングの音だけが事務所内に響く。16時が過ぎた時部長は、私たちに帰宅を促す声掛けをしてきた。夜は家族でクリスマスディナーを楽しむために人気のイタリアンレストランを予約してあるという。その前に息子さんたちと奥さんへのプレゼントを引き取りに行くので、遅くとも17時までには会社を出たいようだ。

「おーい、間中、若葉。そろそろ切り上げたほうが良くないか。私はもう帰るぞ」

「はい。僕もあと10分くらいで終わらせて変える準備を始めます」
間中さんが答えた。

「今日はありがとうございます。私もあと10分ほどで帰り支度します」
春陽も答える。

「それでは、最後確認と施錠は間中にお願いするよ。何度も言うが、今日は残業禁止だぞ」

部長が帰って、事務所内に間中さんと2人きりになったとたんに少しドキドキする。心臓の音が聞こえないように、いつもより強めにパソコンのキーボードを叩いた。

部長が帰ってから15分くらい過ぎたが、間中さんは集中して仕事をしているようで、パソコンの画面と資料を交互に見つめたりタイピングをしたりしている。私の存在も忘れている様子だ。私は、ゆっくりと帰る準備を始めた。

もうすぐ17時になるが間中さんは、帰る気配を見せない。彼の方をチラチラみながら、ゆっくりゆっくり帰り支度をしていたのだが、帰り支度は完了してしまった。

「間中さん、もうすぐ17時になりますよ。何かお手伝いすることありますか?」
「ありがとうございます。大丈夫ですよ、あと5分くらいで終わりそうです。最終確認と施錠は僕がしますので、若葉さんは先に帰ってくださいね」
「それでは、帰ります。後はよろしくお願いします。お先に失礼します」
「はい、お疲れ様です」

間中さんは私の方をちらっと見たが、すぐに仕事に戻った。

コートを腕にかけ、私は事務所を一人で出た。間中さんと一緒に事務所を出られるように時間調節をしたのに。残念。間中さんが出社して会えただけで今日は幸せいっぱいだと思っていた。一緒に仕事をしているうちに帰宅が一緒になればエレベーターで一緒になって駅まで少し話しながら帰れるかもしれないのに。そんな小さな希望の灯が消えてしまった。

大きくため息をつき、エレベーターホールへ向かった。土曜日の社屋内には人がほとんどいないはずなのに、なかなかエレベーターが来ない。もしかするとエレベーターが到着する前に間中さんが来るのではないかと、淡い期待を抱いく。その途端ランプが点灯し到着の音が鳴りエレベーターのドアが開いた。ゆっくりと乗り込んで、1階のボタンを押しドアの外側へ向き直った時、間中さんがエレベーターへ向かって走ってきた。

「ちょっと待ってください!僕も乗ります!」
「あ、はい!」

エレベーターの中で2人きりになり嬉しさと戸惑いで変な汗をかいてしまう。でも、こんなチャンスはない。今日は会社の仲間もいないし、誰も私たちの事を見ていないし、思い切って、食事に誘ってみようか。

エレベーターが1階に着くまでの1分にも満たない時間の中で、私の頭では誘う・誘わないという2つの言葉がぐるぐると飛び交っている。間中さんは前を向いて何かを考えているようだ。

そうしているうちに1階に到着したエレベーターのドアが開く。開くボタンを押し間中さんに先に出るように促す。軽く会釈した間中さんは先に出ていく。私もすぐに後に続いてエレベーターから出る。食事に誘うなら、今この瞬間しかない。よし!私は間中さんを食事に誘うことを決心した。

あの・・間中さん・・私が言葉を発したと同時に、間中さんも言葉を発する。

「若葉さん、今日はお疲れ様でした。駅まで一緒に行きましょうか」

駅まで・・という間中さんの言葉を聞いて食事に誘うという決心が少し揺らいだが、私は持っているバッグをぎゅっと握りしめて気合を入れ直して口を開いた。

「いえ、あの・・・もしこれからご予定が無いのでしたら、軽くお食事に行きませんか?」

少しの沈黙の後、すこし驚いた様子の後にはにかむ様な笑顔を見せると間中さんはボソッと言った。

「いいですね。今日は、自宅でコンビニ食材の一人クリスマスっていうのも悪くないかなって。けれど、一緒に行く人がいるなら別です。是非ご一緒させてください」

よしっ!!・・と、心の中で小さくガッツポーズをした後、春陽はお店の提案をした。

「私が普段よく行っている焼き鳥屋さんはどうでしょうか。とても美味いですよ」
「焼き鳥ですか!僕、大好物です。焼き鳥にしましょう」
「歩いて5分くらいの距離です」

その時私は気づいてしまった。今日の服装はとても地味でダサイのだということに。中年主婦が買い物に行く時にはおるような黒無地のフード付きハーフコートに濃ベージュのニットワンピースとお揃いのマフラー。靴だけは最近買ったこの冬流行しているデザインのショートブーツ。

クリスマスイブは店が暇だと店主から聞いていたので、仕事が終わったら一人でいつもの焼き鳥屋さんへ行くつもりだった。そのため匂いや汚れを気にしないでいいように敢えて地味な普段着にしたのだった。

男性と一緒に食事へ行く服装ではないよね・・・。
間中さんは休日出勤なのに、スーツ姿でネクタイもしているというのに。
はあ・・・。

でも、待って!さっき、間中さんは「自宅で一人クリスマス」と言った。もしかして間中さんは恋人がいないのかな。私にもワンチャンある?いやいや、たまたま今日は恋人とデートの約束ができなくて、明日のクリスマスにデートをする予定なのだろう。

鳥味鶏(とりみどり)は、会社から歩いて5分くらいの裏通りにある定員20名程度の小さなお店だ。30代後半、ひょっとしたら40歳超えているかもしれない店主の岡本さんとアルバイト女性の2人で、5席のカウンターと6人用のお座敷、2人掛けのテーブル4卓を切り盛りしている。テレビで取材されるような有名店ではないが、ファンが多く春陽もその一人だった。

今日は特にフレンチやイタリアンのレストランは恋人たちでにぎわっている事だろう。おしゃれをして美容室で髪を整えて、バッグや靴も少しいいものを身につけて、大切な家族や恋人と特別な夜を過ごす。

何度も言うが今日の私の服装はダサイ。恋人もいなくて、いつもの焼き鳥屋さんに行こうとしている。けれど、そんな事はもう気にしない。なぜなら、今、これから食事をするという2人共通の目的ために同じ場所を目指して歩く5分間の幸せをかみしめているのだから。程なく私たちはグラスを合わせ、食事を共にしているだろう。ワイングラスではなくてビールのジョッキだけど。

間中さんも焼き鳥が大好きだという。食の好みが合うなんて。彼と物理的な距離だけでなく心の距離もぐっと近づいたような気がして春陽は胸がきゅんきゅんした。バツイチ子持ちは恋をしてはいけないと思っていた自分はもう遠い過去だった。

鳥味鶏(とりみどり)に着いた。いつもなら食欲をそそる香ばしい薫りが店の前に漂っていて外からでも店の中の賑わいが伝わってくるのだが、今日は匂いも人気も感じない。やはり、クリスマスイブや焼き鳥屋さんに来る人は救いないのだ。

見慣れた暖簾をくぐり入り口の引き戸を開けると、今日はまったくお客さんがいない。普段は17時の開店直後から客席の半分以上が埋まっていることも多く、予約なしでは入れないこの店が、まるで私たちのためだけの貸し切り状態になっている。

「あ、若葉さん。いらっしゃい!今日はお客さんがいないのでお好きな席にどうぞ」

春陽た座り慣れた一番奥のカウンター席に間中を促し並んで座った。すぐに店主の岡本さんが温かいおしぼりを手渡してくれて「お飲み物は?」と聞いてくる。

「私は、生小で!間中さんは?」
「僕は、同じく一杯目は生ビールですかね。中ジョッキでお願いします」
「ドリンクオーダーいただきました!あ、今日はバイトさんいないんだ。すぐにお持ちしますね。先にこれを」

いつものように、鶏モツのお通しとピクルスが出てくる。店主の岡本さんは料理が得意なようで、焼き鳥以外のメニューも、出来合いのものを仕入れるのではなく極力手作りをしているという。梅酒も毎年仕込んでいて、3年熟成したものを出してくれる。個人で仕込める量には限界があるので自家製の3年熟成した梅酒は12月の限定ドリンクで、無くなってしまえば来年まで飲めないのだ。

「間中さん、この店のピクルスとても美味しいんですよ。岡本さんの手作り」
「へえ。いただきます」

うん、確かに美味しい。間中さんも大きく目を見開きうなずいた後、ビールが運ばれてきた。岡本さんは、自分のグラスも持っている。

「クリスマスイブは、いつも暇なんですよ」

特に今年はこの通りさっぱりでね。バイトさん達も今日はお休みしてもらったから、デートでもしているんじゃないかな。イブの日って大抵は家族と自宅で過ごすか、イタリアンやフレンチの小洒落たお店にカップルで行っちゃうし。串に刺さった鶏じゃない鶏をたべる日と決まっているし。

「営業しながら俺独りぼっちでクリスマス気分を楽しんでいます」
サンタさんの帽子をかぶった岡本さんが自嘲気味に笑う。

「今日は、岡本さんも一緒に乾杯しましょうよ」
「喜んで!あ、もうすでにちょっと入っちゃっているけどねぇ(笑)」

乾杯!メリークリスマス!と、独身が3人ジョッキを合わせ、各々が自分のペースで喉の奥へ流し込む。少し早いがそれぞれが心の中で今年1年の自分自身の頑張りをねぎらい、新しい年への期待を胸に抱いた。

「ところで若葉さん、男性と一緒にご来店って珍しいね。・・彼氏?」
へへへという笑みを見せながら岡本さんが私に尋ねる。
「違います!一緒に働いている同僚です。今日は休日出勤で帰りがたまたま一緒になったら誘ってみたの。たまには若い男性とデートみたいなのもいいかなって」
「はじめまして。若葉さんの同僚の間中と申します。僕は憧れの女性とのデートのつもりで来たのですけどね。」

え? 憧れの女性。少しお酒が入ったから軽い冗談にも春陽はドキドキしてしまう。

「以後、ごひいきにお願いしますね!ちょっと~若葉さん、若い彼っていうけど、間中さんと若葉さんって、同い年位でしょ?あ!若葉さん35歳でしたっけ?」
「こら!女性の年齢をしゃべっちゃダメ!・・・ええ、35才になりましたよ。20代とは違うんです!!!」 

私と店主のやり取りを、微笑みながら間中さんはみていた。

「次来るときは、2人が恋人同士になっていたりしてね」
「まさか。私は離婚しているし、これからも一人で生きていくためにもっと稼ぐ力をつけたいの。だから恋愛する余裕はないのよ」
岡本さんの言葉に少しドキッとしたが、恥ずかしさを打ち消すように反論する。

「へえ、若葉さんはたくましいね。ところで間中さんはまだ20代でしょ?」
「いえ、32歳です。」
「そうですか。若くていいね。俺はもうアラフォーだからうらやましいよ」

私たちが注文をした焼き鳥を焼く手をせわしく動かしながら、岡本さんの口もよく動く。そうしているうちに2組のお客さんが入ってきた。どちらも3人連れだ。

「あ、悪い。お客さんだ。追加オーダー、いつでも言ってね。じゃあ、ごゆっくり」

岡本さんは私たちとの会話から外れ、接客に戻った。お客様を案内し、オーダーをこなすため厨房にこもって忙しく動きだした。少しお酒が入っているとはいえ、手際よく進めているのはさすがだった。

(第七章へ続く)

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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