天使の約束(5)
第五章 人生をリセット 決意の一人旅へ
・・◆◇・・
「おめでとうございます。もうすぐ6週目に入りますよ」
え・・。
「気分が悪いとき、食べたくないときは無理をせずに。水分不足には気をつけるのよ」
エコー画像を見せながら説明してくれるドクターの言葉を、春陽はほとんど上の空で聞いていた。
私が、お母さんになる?
まさか・・本当に?
思い当たることがないわけではなかったが、そんなに簡単に妊娠するものだとは思わなかった。
説明を終えた後、次回の検診は一ヶ月後でそのときは赤ちゃんのパパと一緒に来院するようにと言われた。ドクターは、初めてで不安だろうから何でも相談してね、お大事にという言葉で診察を終えた。
複雑な気分でクリニックを後にする。赤ちゃん・・か。これから向き合わなければいけないであろう様々なことを考えると、心から喜べない自分がいる。
智に伝えなきゃ・・・。赤ちゃんができたこと。
スマホを見ると、智からの着信履歴が残っていた。メッセージも届いていたので、電話はかけずに返信のメッセージを打ち込んだ。
「診察終わったよ。今からそっちへ行ってもいいかな」
「OK 今、ご飯作っていたところ。気をつけて」
「ありがとう」
智には貧血みたいだから内科で見てもらうとだけ伝えてあった。実際は、妊娠の可能性があるかもしれないと思った春陽はレディスクリニックへ行って検査をしてもらったのだ。小さな命が私の中で確かに生きている。このタイミングで父親になることを智はどう思うのだろう。喜んでくれるのだろうか。
智が住むマンションに着いてから、超音波検査で撮影した胎内画像のプリント取り出した。まだ人間の形をしていない小さな赤ちゃんが写っている写真。しばらく見つめた後バッグにしまい、インターフォンを押しドアを開けた。温かい匂いが鼻をくすぐる。
「気分はどう? お医者さんはどうだった?」
「うん。大丈夫。貧血ではなかった」
「あれ・・おなか、痛いの? 顔色も少し悪くない?」
バッグを持っていない方の手を無意識に自分のおなかに当てて靴を脱いでいる春陽をみて、智が心配そうな表情をして春陽の顔をのぞき込む。
「あ・・別に。お腹すいているからかな。手、洗ってくるね』
母親になることはとても嬉しいけど、このタイミングで妊娠したことに戸惑っている。
仕事を中途半端に放り出すことも気にかかる、もっともっと仕事がしたい。
正直、関西を離れて、横浜へ行く決断なんて今はできない。
この気持ちをどう伝えたらいいのだろう。
洗面所の鏡を見ながら、春陽は智に伝える言葉を探していた。
・・◇◆・・
産まないことを選択していた人生だったら、智との未来はどんな形になっていたのだろう。
春陽は、眠ってしまった息子の勇希をそっとベッドに寝かせてから、妊娠を告げた日から今日までのことを思い返していた。
あの日、智はびっくりした様子でしばらく黙り込んだ。だがすぐに満面の笑みを浮かべ、春陽の手に自分の手を重ねて優しくお腹をさすりながら興奮気味に話し始めた。
「僕、父親になるんだね!」
正社員の話を断り、契約社員の期間を満了後に退職すると会社に伝えることにしよう。
子供が生まれるのなら僕はすぐにでも結婚したい。
すぐに入籍して横浜へ一緒に帰る準備をして欲しい。
結婚式は子供が生まれて落ち着いてからになるけど、ちゃんと挙げようね。
すぐに、両親に伝えなきゃ。あ、春陽のお父さんにも挨拶にいかないと・・・。
「ごめん、一人で興奮してしまって。春は戸惑っているだろうに・・」
「喜んでくれてありがとう。まだ混乱しているけど・・」
あんなに智が喜ぶなんて意外だった。仕事を続け、産後休暇や育児休暇を利用して、出来れば転居や同居は先送りにしたいというのが自分の本音だったように思う。だが、智をパパにしてあげたいという気持ちと新しい命を守りたいという母性がその本音にしっかりと蓋をして、ママになることを選択した。
妊娠を智に告げた翌週、横浜に住む智の両親が春陽と春陽の父に挨拶に来てくれた。
安定期になったら、二人で横浜へいらっしゃい。新居の準備もできているから。近くに評判のいい産婦人科もあるのよ。安心して出産できるでしょうから。結婚も心から祝福するし、何より一緒に暮らせることも孫の誕生も待ち遠しいと。この言葉を聞いたとき、なんて私は恵まれているのだろうと感じた。
フォトウエディングをした日、父と兄夫婦を招いての食事会の後に婚姻届を出した。
出産前の義両親は、春陽をとても気遣ってくれたし、二世帯住宅という環境でいい感じの距離感で過ごすことが出来た。気晴らしになるからと、義父の会社で事務作業を時々手伝うことを申し出るととても喜んでくれた。
ところが、子供が生まれてから、義母は何かと理由をつけ春陽たちのスペースにやってきて、家事や育児にダメ出しをするようになった。
2人目も続けて生んだほうが楽なのよ・・と、無神経なことを言ってくる。嫁は跡継ぎを産んでさえくれればいいという古い考えの持ち主だったようで、私に自由な子育てを許してくれなかった。
「将来の社長夫人なのだから、しっかりしてもらわないと。勇希の事はうちのに任せて、君はもっと会社のためになることに時間を使ってくれると助かるのだが」
私ではなく、義母が入力作業や伝票の整理やら雑用やらを手伝うのが本来ではないだろうか。何をしっかりしろというのだろう?家事や子育ては初めてでなかなか完璧には出来ないけれど、今はしっかりと勇希との時間を大切にしたいのに。
妊娠がわかった日から、今日までの日々が過ぎ去るスピードに、心がどこかに置いていかれているような感覚があった。退職、転居、同居、出産、子育て・・。慣れない環境で、こんなにも頑張ってきたけれど・・。最初は私に寄り添ってくれていた智も、父親の会社で二代目として働くプレッシャーで徐々に心の余裕をなくしていった。
夫婦二人きりだったら、心が離れそうになっても十分な話し合いを重ねて乗り越え、絆を深めることが出来たかもしれない。恋人同士の時と同じ強さの絆では夫婦や親子の問題を乗り越えるには頼りないものだった。
私たちは未熟な状態で親になってしまい、自分たちで取捨選択して家族が歩む道を決めてこなかったせいで、いま途方に暮れている。
やはり、私は家を出よう。息子は一人で育てる。父もわかってくれると思う。智と離婚して大阪に戻ろう。お互いの心がこれ以上壊れてしまわないように、リセットしたい。
眠っていた勇希が少しぐずり始めた。お腹に軽く手を当てさすった後小さな手を包み込むように優しく握ってあげると、また小さな寝息を立て静かになった。
今晩、智が帰ってきたら、自分の気持ちを伝えよう。私は、勇希を連れてこの家を出たいと。
・・◇◆・・
智は、春陽の決意を聞いてしばらく黙っていた。
両親との関係がうまくいかないのなら結婚生活を続けるのは難しいかもしれない。自分も苦しいけれど、春陽はもっと苦しいのだろうな。お互いのために離婚が最良とは思いたくないけど、僕たちは一度距離を置いた方がいいのかもしれない。
愛情がなくなったわけではない。でも、一緒にいると辛い。いろいろな気持ちが浮かんでは消え、自分の本当の気持ちはどこにあるのかわからないまま、智は離婚を受け入れることにした。離婚のことは少し時間をおいてから両親に伝えることにした。春陽は有希を連れて行くというが、両親が孫を手放すことを受け入れるだろうか。
「わかった。両親には僕から話す。でも、勇希のことは・・」
「ちゃんと育てるから。智は実家を離れる気はないんでしょ」
「・・それは・・」
「ごめん。すぐ就活して仕事を探すから。決まったら実家に戻る」
春陽は早速、就職活動のため応募書類を準備し、転職サイトの求人に応募をはじめた。
一度社会を離れてしまうと、大したスキルも経験もなく、何より「これがやりたい」という志のなかった春陽にとって再就職の壁は厚かった。とにかく、どこでもいいから事務職で復帰できればいい。そんな気持ちを採用担当者に見透かされているようだった。
ことごとく書類選考で落とされ、面接にすら読んでもらえないことが情けなかった。5年間の会社員生活での経験を評価されない悔しさに唇をかむ。私を必要としてくれる職場なんて本当にあるのだろうか・・・。
職探しを始めて3ヶ月目に入った。これから一人で息子を育てながら生きていかなくてはならないのに、仕事が決まらない。焦る春陽だった。
次の応募に備えて準備をしている時、義姉の恵梨からLINEのメッセージが届いた。
「良ければ久しぶりに店に来ない?」
「結婚してそっちに行ってからは、顔を見られなくて寂しいよ」
「勇希ちゃんも連れて気分転換にどう? こっち帰っておいで」
「一人でも、全然OK」
恵梨は兄の奥さんだ。恵梨はいつも明るく頼りになる存在で実の妹のように春陽の事を考えてくれる。
智と付き合う前はよく兄の店に顔を出し、恵梨と話すことが楽しみだった。観てきた映画の事、仕事の事、結婚の事、迷いや悩み事。兄には話しにくいことでも、女性同士だからこそ話せることもあり救われてきたことも多かった。
ただ、兄夫婦には子供がいないので育児の相談をするわけにもいかず、離れてしまったことをきっかけに連絡もあまりとらなくなっていた。正直、恵梨からの誘いは嬉しかった。一瞬でも、この家から逃げ出して少しでも遠くへ行きたかったから。けれど、今更甘えるのも気が引けた。
「ごめん、それどころじゃないの」
一言だけ返信するとすぐに恵梨から電話がかかってきた。
「春陽ちゃん、こんにちは。もう!!!返信のメッセージがそっけないなあ。彰人から聞いているで。離婚や就活のこと。仕事、なかなか決まらへんとか・・?」
「うん・・・すぐ決まると思ったのに苦戦していて。できるだけ早く家を出たいのに」
「そんな時こそ、気分を変えて環境も変える方がええと思うけどな。新しいメニューも食べてもらいたしな」
「食欲、ないわ・・」
「明日土曜日やし。平日のランチタイムみたいに忙しくないから。急な誘いやけどお昼ご飯食べに来てよ。心の中は大変かもやけど、ちょっとした日帰り旅行だと思って」
「うん・・・」
「な! おいでよ。そうそう、泊まってくれていいよ~。何日でも(笑)」
恵梨と直接話していると、たまらなく帰りたくなった。泊ることはできないいし、有希も連れていけない。けれど自分一人で日帰りで行くと伝えたら、夫婦で楽しみに待っているからと言ってくれた。
義両親には、急な外出なであるうえ勇希を置いて出かけると聞き少し嫌な顔をされたが、智が土曜日なら僕がちゃんと見ることができるから安心してと言ってくれた。
・・◇◆・・.
翌日、土曜日の朝になった。
春陽は、いつもより1時間早い朝5時に起きて台所へ行くと1杯の水を飲み、小さなロールパンと豆乳だけの朝ご飯を食べた。智も勇希もまだ寝ている。出来るだけ物音を立てずに身支度をする。
勇希が産まれてから外出時のメイクも手抜きだったけど、今日はちゃんとしよう。丁寧に下地を塗り、アイメイクもして最後に口紅を差す。鏡を見ながら自分に微笑みかけてみる。
「うん。まだまだ、イケてるよね、私」
家を出る前に義両親に声を掛けようかと思うが、やめた。しっかりメイクをしている顔を見られたくないし、勇希のことは昨日ちゃんと夫に頼んでおいたし大丈夫だろう。私がいないところで小言を言うかもしれないけど、気にしても仕方がない。
小さな声で「行ってきます」といって、静かに玄関から出てドアを閉めた。
家を出て駅までゆっくり歩き出すと、犬の散歩をしている人やジョギングをしている人がいる。家の前を掃除している人もいる。スーツを着て速足で駅に向かう男性や女性もいる。みんながみんな、土曜日に休んでいるわけではないし、ゆっくり寝ているわけではないのだ。
駅に着き、快速に乗った。3つ先の駅で降り、新幹線の乗り換え口へ行き乗車券を買う。
「新大阪まで大人一人」
「指定券はどうなさいますか?」
「あ、2人掛けの窓際が空いているならお願いします。」
「かしこまりました。・・・発車まで5分程なのでお急ぎくださいね。気を付けていってらっしゃいませ。ありがとうございます。」
「ありがとう」
受け取った乗車券で座席を確認してすぐにホームへかけ上がると、まもなく新大阪行きが到着するとのアナウンスが聞えた。
ゆっくりドアが開き先頭の人から順番に乗り込んでいく。春陽も前の人に続いて新幹線に乗り込んだ。座席は、真ん中あたりで、隣の座席は空席だった。次の駅で乗ってくるのかもしれないけれど、それまではゆったりと座っていられる。上着を脱ぎ、バッグを置いて座った途端に新幹線はゆっくりと発車した。
思い起こせば、勇希が産まれてから一人で新幹線に乗って出かけることは初めてのことだ。子供が生まれる前と生まれた後で、これまでの当り前がそうではなくなってしまったことに気づいた。
外出ができる今日は神様からのご褒美と考えることにしよう。これからの新しい人生とって、何か意味のある一日になるのかもしれないから大切に過ごそう。小さな息子を置いての外出が後ろめたいという気持ちも捨てよう。車窓から外を見ながら、ぼんやりとそう思う。
「今日はいいお天気だな。富士山がきれいに見えるといいけど・・・」
少し眠くなってきたが、富士山が見える駅を過ぎるまでは頑張って起きていたいと春陽は思った。
しばらくすると車内販売でコーヒーを売りに来た。
「ホット下さい。」
「はい。お砂糖とミルクはいかがなさいますか?」
「ブラックで大丈夫です。」
「ありがとうございます。熱いのでお気を付けください。」
「あの・・バニラのアイスも一つ」
子供の頃、私の実家はあまり裕福でなかった。車内販売で飲食物を買ってもらうことはなかった。近くの席の子供が、アイスクリームを買ってもらい食べている姿がとてもうらやましかった。その子が食べていたアイスは、お店で買うのとは違う特別なアイスのように思えた。
今は、こうして一人の時間を楽しみながら車内販売のコーヒーをためらいもなく注文して飲めることが嬉しい。残念なのは、もうすぐ車内販売が終了するということだ。次に新大阪行きの新幹線に乗るときは、車内販売でコーヒーやアイスを買うことは叶わないのだろう。
新大阪に着いたのはまだ10時を過ぎたところだった。
兄と恵梨がいる店へ行くには早い。改札口へ向かう人の群れには追随せず、ホームのベンチに座り案内表示を見つめていたらおなかが鳴った。朝はパンを一口しか食べていなかったからお腹が空いて当然だ。少し何か口にしたほうがいいか、いや、兄の店でランチを食べるのだから飲み物だけで我慢しよう。セルフサービスのコーヒーショップへ向かい、店の奥の席を確保してから温かい紅茶を頼んだ。
・・◇◆・・
コーヒーショップで一時間ほど過ごした後、兄の店へ向かうために店を後にした。土曜日でランチタイムも落ち着いているとはいえ、営業時間内のお店に顔を出して良いものだろうか。
「こんにちは」
「春陽ちゃん! 久しぶり。ん~ちょっと元気あらへんやんか。女はな、笑顔、笑顔やで」
「お~! 久しぶりやな。春陽、元気にしとったんか?」
「元気ないわ~。嘘、2人の顔見て元気出た。」
「ほんならよかったわ。来週からの新メニュー、これから作るから待っとってな。」
「ありがとう。楽しみ。お兄ちゃんが作るものは何でもおいしいからね~」
「あったりまえや。これで飯食ってるんやからな。」
春陽がカウンターに座ると、恵梨がお冷とおしぼりを出してくれた。そしてお通しやでと言いながら手作りの小さな焼きプリンもそっと置いてくれた。居酒屋じゃあるまいし、お通しって・・と思いながらも恵梨の気遣いが嬉しかった。春陽が店に入ったときにいた2組のお客さんは、ちょうど食べ終わったみたいで帰り支度を始めている。
恵梨はさりげなく入口のドアをお客さんが会計を済ませる前に入口のプレートを準備中の札に掛け替えた。ランチのラストオーダーの時間がちょうど来たからというが、まだ一時を過ぎたばかりだ。春陽が来たらすぐにでも営業終了と決めていたようだ。
「で、いろいろ、大丈夫なん?」
「うん。まあ、何とかなると思うけど」
春陽は、応募書類がことごとく返されること、離婚してまもなく家を出ること、離婚の条件として勇希とはもうすぐ会えなくなることなどを話した。2人は、仕事の手を休めることなく動き回りながらも、優しく春陽の話を聞いてくれた。
「なあ、春陽ちゃん。仕事の事やけど、正社員に拘る理由は何なん?」
「安定した仕事じゃないと・・と思ってたから・・」
「まず収入を得ることが大切なんやろ。そやったら派遣社員という選択もあるんとちゃうの?」
恵梨に言われるまで全く選択肢にもなかった派遣社員。
「パートとかアルバイトより、時給がええらしいで。最近は交通費も出るようになったらしいし。で、会社によったら、そのまま社員にしてくれるところもあるみたいやで。どう?派遣社員。登録だけでもしたらええのに。」
「そうやな。まず、働いて自分を食べさせることが大事やんな」
「オンラインで登録できるところもあるから、今、仮登録だけでもしとく? 奥にあるパソコン使っていいから」
恵梨は、事前に派遣会社のことを調べてくれていた。仮登録の後は、オンラインでの面談やスキルチェックが可能な派遣会社も多いという。仕事の検索は全国どこでもできるとのことだった。春陽は、さっそく仮登録をしてみた。
「なあ、ほんまに離婚してええんか? 勇希はまだ赤ちゃんやろ。子供と別居して働いてみて・・やっぱり戻りたいと思っても、もう戻られへんねんで。自分の息子にもう会えないなんて、大丈夫なんか春陽は・・」
兄の彰人は、春陽の仕事が決まらないという事より、勇希と別れて一人になったときに春陽がもっと落ち込んでしまうことを心配していた。確かに、日々成長する息子のそばで母親として見守ることはもうできないと考えると、辛かった。
「大丈夫。仕事が決まったら、余計な事考えんでええように残業もしっかりして働くつもりやし。休みの日は大好きだった映画にでも行って、ちゃんとリフレッシュするし。お店にもまたちょくちょく顔出すようにするわ。」
関西を離れてから、言葉が標準語になりつつあったが、二人が話す関西弁につられて自分も関西弁になる。
「まあ、数時間の滞在やけど昼ごはん食べたら職探しや離婚のことなんかは忘れてゆっくりしていきや。」
「うん」
「はい、出来たで~。来週から始めるレディスランチ。バージョン3」
「うわあ。おいしそう。前のレディスランチよりも盛り付けがおしゃれになったね。」
「そう、なんや今はようわからんけど写真を撮ってSNSに載せる人が多いらしいから。写真映えすることも考えみた」
兄や、義姉の恵梨と話していると、もう、家に戻りたくない気分になる。
まだ1歳半の勇希を置いて出かけてきたのに、心配な気持ちだとか寂しい気持ちよりも一人になってほっとしている自分には、母親としての素質が無いのかもしれないと思った。
「ごちそうさま」
今日はもう店を閉めるから、一緒に映画でも行かへん? それとも、どっか行きたいとこある?
「そうやな・・、じゃあ、スイーツを食べに行きたい。ちょっとだけ付き合って」
せっかく戻ってきたので父にも会っておきたいと思った。しばらくは実家でまた二人の生活を始めることになるから。夕方、顔を出すからと父へメッセージを送った。
父からは一言、分かったとだけ返信があった。
・・◇◆・・
義姉の「派遣社員という選択もある」というひと言で仮登録していた派遣会社のオンライン面談を受けた。
一週間後、本登録の予約を派遣会社に入れたとき、関西の企業で紹介できる案件が二つあると言われた。時給も仕事の内容もほぼ同じだった。返答に困っていると、担当者が言った。
「いまは、二社まで同時にエントリーが可能ですよ。ただし、ほかの方も二社エントリーするケースが多いし、企業様側でも複数の候補者に会ってから決めたいというお声をいただいています。先着順ではないので可能性を広げるためにも、二社ともエントリーしてはいかがでしょうか」
これまでの就職活動では、面談すらしてもらえなかった。もしだめでも、人事担当者と話せることは一歩前進だ。担当者のアドバイス通り、両方の企業へエントリーした。まだ横浜に住んでいるので、企業訪問の日程を同日にしてほしいと伝えると、企業様の都合を聞いてからということだった。
その日のうちに、企業訪問日程の連絡がきた。明後日の午前と午後、少し間が空くけど同日に訪問することに決まった。
明後日に面接で大阪へ行き一泊することを伝えると、義両親はどうでもよいという表情をした。まもなく家を出る嫁に興味はないという感じだった。一泊でも二泊でも、何なら、そのままもう家を出て行ってくれていいのよと、義母はつぶやくようにいう。
離婚を義両親に伝えたとき、貴田家として跡取りの有希を手放すことはおろか、面会も許さないと告げられていた。智は、面会は親の権利だからと掛け合ってくれたが、義両親は頑として認めてくれなかった。
息子に会えないのなら、横浜を離れる選択は正しいと思う。大丈夫だ。働く場所はきっと近いうちに決まる。仕事に打ち込んで、まずは自分の人生を立て直そう。派遣でもフルタイムの仕事が決まったら・・。でも、だめだ。ずっと契約が続く保証はない。正社員で働けるよう就職活動は続けよう。
明後日、どうかどちらかの仕事が決まりますように。春陽は、有希を抱っこしながら祈った。
・・◇◆・・
企業訪問の翌日、横浜へ戻る支度をしていると春陽の携帯が鳴った。最初に訪問した企業からの返答は別の人に決めたから今回はご縁がなかったことでと、担当者が申し訳なさそうに言う。もう一つのほうは、夕方までには連絡をするから待ってほしいとのことだった。
ほんの少しの期待を裏切られ、気落ちしている春陽に父が言った。
「もう一社、返事待ちだろ? そっちはきっと良い返事が来るよ」
「そうだといいけど」
もし両方ダメだったら、また振り出しだ。大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせるが、どちらかといえば今断られた企業担当者との面談のほうがいい感じで進み、会社の雰囲気も良く、ここで働けるといいなと思っていたのに断られた。ということは、もう一つのほうの可能性は低いと思えた。会社の雰囲気はよかったが、担当者が春陽の採用に乗り気ではないようだったからだ。
「なあ、春陽。何かおいしいものでも食べに行かないか?」
「ありがとう。帰りの新幹線はまだ取ってないからいいよ」
「よし、じゃあまだゆっくりできるな。少し贅沢するか。前祝だ」
「え? 気が早いよ。きっと、駄目だから」
父は、駅から少し離れた、魚がおいしいという一軒家の和食のお店に連れて行ってくれた。パソコン教室の生徒さんが営んでいるお店だという。和モダンな雰囲気だが、ほっこりとしたやさしさと温かみを感じる。和食屋さん独特のだし汁と檜が混じったような香りがした。ランチタイムがない代わりに、昼過ぎから営業をしている。
「魚だけではなく、自家製の漬物がうまいんだ」
「へえ。楽しみ」
「一杯、やるか?」
「やめとく。あ、梅酒ならいいかな。ソーダ割で」
「なんや、飲むんかい」
「ははは。父さんも飲むんでしょ?」
「ああ、一杯だけな。生ビールで」
程なくして飲み物とお通しが運ばれてきた。佃煮と漬物の盛り合わせだった。乾杯しようとしたところで、春陽の携帯に着信があった。
「ぜひ、若葉さんに来ていただきたいと企業様から返事がありました。就業は2週間後からお願いしたいと」
「え?ありがとうございます。大丈夫です。2週間後で。むしろ助かります。よろしくお願いします」
笑顔で電話を切った春陽を見て、父は微笑んだ。
「ほら、前祝いの効果あっただろう?」
(第六章へ続く)
