恋愛小説【第5話】あの日、何も持ってなかったけど(夕暮れに揺れる、追いつけない背中)
【第2章】少し踏み込んだ景色
距離が縮まるたび、見えてくるものがある。
知らなかった笑顔も、触れられなかった心も──。
sdか修学旅行を終え、ふたたび日常が始まった。
周りには夢や目標を語る同級生。けれど、自分には何もない──
その空白を埋めるように、陽翔の視線はいつしか菜桜を追っていた。
何気ない会話で、少しずつ近づく距離。
その中で交わされた言葉が、迷い続ける陽翔の胸の奥に静かに残っていく。
📖前回のお話(第4話)
修学旅行の夜、肝試しの途中でひとり取り残された菜桜は、暗い山の中で過去の記憶に飲み込まれてしまう。
怖くて、冷たくて、どうしようもなく孤独な記憶──そんな彼女に、手を差し伸べたのは陽翔だった。
震える手をそっと握り返してくれた、確かな温もり。
山はずっと冷たい記憶の場所。けれど、昨夜だけは違っていた。
それは、彼女の心の奥にそっと光が差した瞬間だった。
🧑🤝🧑登場人物紹介
🧁 長谷川 菜桜(なお):パティシエ志望の高校2年生。お菓子作りが得意。夢はフランスに行くこと。
🏐 西岡 陽翔(ひろと):バレー部。恋に不器用で、ちょっと奥手。友達は多く社交的。
🎭 佐々木 一生(ささき いっせい):陽翔の親友。ふざけてるけど、いいヤツ。
👵 千代子(ちよこ)
陽翔の祖母。菜桜のバイト先のケーキ屋さんの常連客で、菜桜と仲良くなった。
第5話:夕暮れに揺れる、追いつけない背中
🌫️ 進路希望に滲む、答えのない迷い
修学旅行がおわると、日常に戻った。
授業ではどの教科の先生も、定期テストの範囲をそれとなくほのめかし、楽しかった余韻はあっという間に現実に引き戻された。
おまけに、【進路希望調査票】なんてものが配られた。
特に夢もやりたいこともない。ただ、なんとなく進学だと思っていた。
大抵のやつは進学するし、親もそれを希望している。
(長谷川……何て書くんだろ。お菓子の専門学校とか、そういうのかな。俺とは全然違う道だよな)
前から回ってきたプリントを後ろに座る菜桜へ渡しながら、そんなことが頭をよぎった。けれど、それを本人に聞く勇気はなかった。
自宅に帰り、母親に推薦制度などが書かれたプリントを渡す。
「陽翔は、行きたい学校とかあるの?」
「いや…今のところ、特に無いけど」
両親は共働きで、それなりにキャリアもあり、仕事が好きだ。
『いい大学に入って、いい会社に就職する。それが幸せになれる道だ』──そう信じている。
別にそれを否定するわけじゃない。けれど、陽翔にはそれが幸せだとは思えなかった。
目的がないまま進学して、有名企業に就職する未来を想像しても、胸は何ひとつ躍らなかった。
「特に希望がないなら、お兄ちゃんと一緒の大学はどう?就活に強いみたいだし、将来のためにもなるんじゃない?」
母は良かれと思って勧めるが、その言葉は陽翔のぼんやりとした迷いを少し重くするだけだった。
「ん、考えとくけど…俺、兄ちゃんみたいに頭良くないよ。散歩、行ってくる」
笑い混じりに自虐して、話を打ち切った。
🍃夕暮れの風、心の隙間を抜けて
犬の散歩は、陽翔の日課だ。
外に出ると、夏の匂いを含んだ湿った風が、頬をなでていった。
西の空はまだ明るく、薄いオレンジと水色が混ざり合っている。
遠くからは、部活帰りの笑い声やボールを打つ音が聞こえてきて、胸の奥に小さな空洞が広がった。
リードをつけながら、思わず独り言を漏らす。
「長谷川みたいに、夢があったらよかったのにな」
散歩に行きたくて仕方がない犬は、尻尾をブンブンふりながらくるくる回って陽翔の膝に前足を乗せて急かした。
「わーってるよ、動くなって。リードつけらんねぇだろ。……よし!できた。ほら行くぞ。」
いつもの散歩コースを歩く。
だが今日は、ふと気が向いて、菜桜のバイト先のケーキ屋がある通りへ足を向けた。
反対側の歩道から店内を覗くが、距離があり、菜桜がいるかはわからない。
プリンを買って祖母の千代子に持っていこうかと考えたが、店に入る勇気が出ず、結局くるりと回って来た道を戻り、祖母・千代子の家に向かった。
🐾 そっと撫でる手に宿るやさしさ
祖母の家に着くと、門から制服姿の菜桜が出てきた。
「……長谷川?……ばぁちゃんに用事?」
心臓が一瞬、跳ねた。
「西岡くん。うん、お店のプリン、持ってきたの。わんちゃんのお散歩?…触ってもいい?」
陽翔の許可を得ると、制服のスカートの後ろをきれいに撫でながらしゃがみこみ、犬の顎下をくすぐるように撫でる。
「可愛い。いいな、うちはマンションで飼えないから」
犬とじゃれる顔は、いつもより少し幼く見えた。

「名前、何ていうの?」
両手で顔の横を撫でながら、顔をあげて陽翔をみた。
「コタロー」
下から見上げられる菜桜の視線に、陽翔はドキリとしつつも平静を装って、ポツリと言った。
「渋い名前ね。でも可愛い」
「もともと、ばあちゃんの犬なんだ。入院してから、うちで預かってる」
「あぁ、それで。お婆ちゃん想いで優しいんだね。意外」
陽翔はリードを引き、犬を落ち着かせながら口を開く。
「これ、あんまり他のやつには言わないでくれる?特に、一生には」
「どうして?悪いことじゃないのに」
菜桜が小首を傾げて聞いた。その仕草が可愛くて、陽翔はドキリとした。
「なんか、かっこ悪りぃじゃん。……だから」
「そうかなぁ?好感度上がりそうだけど?…でも、西岡くんがそういうなら言わないよ」
菜桜は制服についた砂を軽く払うと、「じゃあ、私そろそろ行くね。コタローくんまた今度モフモフさせてね」
最後にコタローの頭を撫でると、菜桜は帰っていった。
陽翔は、ほんのり色づき始めた夕空の下、その背中が見えなくなるまで目で追っていた。
🌇 夕焼けに染まる、言えなかった言葉
結局、菜桜に進路のことは聞けないまま、進路希望調査票の提出期限がきた。
陽翔は気が乗らないまま、親の勧める大学名を書き込んだ。
だが、その選択に少しも胸は高鳴らなかった。
むしろ、帰り道に見たあの笑顔が、頭から離れなかった。

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