見出し画像

『美山考』第9章〔宮島A〕萱野・上司・長谷・和泉・静原・島・下吉田【260401】

南丹市美山町の地域史についての考察
改訂履歴

エリア地図08〔宮島A〕萱野・上司・長谷・和泉・静原・島・下吉田

エリア地図08〔宮島A〕萱野・上司・長谷・和泉・静原・島・下吉田


3020S1 聖真院権現

3020S1 聖真院権現(2025.10.24)

所在地:長谷
祭神:聖真権現
創建:未詳
氏子:竹内株
例祭:8月24日(火送り)、11月9日(竹内株講)
由緒等:字見橋付近の杉の大木下にあった祠を、大野ダムによる水没地となるため昭和32<1957>に現在地に遷宮した。


3020S2 武田神社

3020S2 武田神社(2026.03.06)

所在地:長谷
祭神:未詳
創建:昭和62<1987>
氏子:武田株
例祭:11月27日(株講)
由緒等:武田株の株講であり、山梨県甲府市武田神社の土を貰ってきて創建したとする。


3020S3 道寛稲荷神社

3020S3 道寛稲荷神社(2026.03.06)

所在地:長谷
祭神:宇迦之御魂大神
創建:明治36<1903>
氏子:長谷
例祭:10月
由緒等:長谷区管理の神社として住民の寄付を募り、明治36<1903>7月12日京都伏見稲荷から、釼、弓矢などを御神体として拝受し創建した。


3020X1 小堂(七体石地蔵)

3020X1 小堂(七体石地蔵)(2026.03.06)

所在地:長谷
創建:未詳(明治初年か)
祭礼:8月23日
由緒等:子供の出産や病気、怪我等の子供の安全にご利益があり、願い事がある度に新しい前掛けを供えてお参りする人が多い。
住民の寄進などにより過去3回補修したとする。
杉の木の下に和泉のお地蔵さん一体あり。


3020X2 小堂(地蔵)

3020X2 小堂(地蔵)(2026.03.06)

所在地:長谷
創建:未詳
祭礼:未詳
由緒等:2026年3月6日訪問時、付近(写真手前右側)になにか云われのありそうな石が祀られていた。


3021S1 愛宕神社

3021S1 愛宕神社(2026.03.06)

所在地:長谷
祭神:火防守護神
創建:明暦3<1657>
氏子:未詳
例祭:4月・8月・12月23日、8月24日は松明が焚かれ火の神を祀る。
由緒等:泉龍寺開山者、菅生吉左衛門(道基)が泉龍寺別院として鐘楼を建て、のち神社を創建したとされる。
大正3<1914>に鐘楼が大改修された時の経緯について、長谷区史は次の記録を載せており、当時の苦労が読み取れる。

改築事由
元大野堀嘉之助祖先ヨリ鐘田地寄付アルモ之ハ新鐘ノ節鐘搗初メトリ岡ノ本田地寄付ス決ヲ鐘楼堂作坦中モ田地アル旨申出候モ時住職不承諾坦中ト彼是ノ末住職一ニテモ改築ノ精神坦中ニ服従無十方有志ニ願ヒ金九十円以上募金ス世話方中日宗ノ武田二名竹内一人計三名ハ客分トシテ坦中分ニハ菅生勘次郎ノ子亀吉能ク世話ス
大工藤田利吉氏ハ本村寄留者ニテ園部在ヨリ来ル堂宮ノ大工ニシテ当時ノ住職ヲ補佐スルモノ十二名其ノ実負担ナシ多少ノ縁アル故寺ノ益ヨリ坦中ノ益ノ方ヘ前田治平八十人並菅生喜之助ハ物心モ余リ旧式一方堅ク通用成リ難シ 焼失後始テノ住職故庫裡増築ノ他ノ増築ニハ住職トシテ随分苦心致シ候後住者心以テ能ク当時ノ意中推察アリタシ
大正三年九月三十日 午前十時
佐藤遊海 書之
《訳》改築の経緯
もともと大野の堀嘉之助の先祖より鐘田の寄付があったが、これは新しい鐘を鋳造した際に、岡ノ本にある田地を寄付することに決まったものである。鐘楼堂の建設にあたって、檀中側からも田地がある旨の申し出があった。しかし、当時の住職がそれを承諾せず、檀中との間で押し問答があった末、住職は独力でも改築するとの精神で檀中に屈しなかった。そして広く一般の有志に願い出て、90円以上の募金を集めたのである。世話方のうち、日蓮宗の武田ら2名と竹内1名の計3名は客分として加わり、檀中側からは菅生勘次郎の子、亀吉がよく尽力した。
大工の藤田利吉氏は本村の寄留者で、園部から来た社寺大工である。当時、住職を補佐した者は12名いたが、彼らに実質的な金銭負担はなかった。多少の縁があったため、寺の利益よりも檀中の利益を優先したのである。前田治平や菅生喜之助といった人々は、考え方が非常に古風で固執しており、融通が利きにくい面があった。
火災による焼失後、初めて入寺した住職であったため、庫裏の増築やその他の建築には住職として相当な苦心を重ねた。後任の住職は、どうかこの当時の心情を深く推察してほしい。
大正3<1920>年9月30日 午前10時
佐藤遊海 これを記す

【長谷区史 大正3年の鐘楼改築時の記録】

鐘は先の大戦末期、昭和17<1942>に金属回収のため供出、昭和55<1980>泉龍寺開山三百年を機に再鋳造され、新鐘の銘に次の記録があるとする。(古鐘の銘は泉龍寺参照)

住菅生道基居士橘谷山泉龍寺開基ノ砌江戸海禅寺初代雲山和尚ヲシ開山トシ次デ明暦三年此ノ山上ニ奉献サレタ開創当初ノ梵鐘ハ太平洋戦争末期ニ徴セラレルニ至ツタ
爾来日霜空シク鐘楼ノミ其ノ面影ヲ留メテイタガ時恰両相ノ三百年遠諱ニ際シ全信協力一致創祖ノ顕彰ト報恩感謝ノ誓願ニヨリ遂ニ再新鋳ノ功成就スル希フ所ハ鯨音ノ功徳斉シク幽明ヲ済シテ国土安泰ナランコトヲ
昭和五十五年十一月吉日
当代泉龍寺和尚(氏名省略)
総代(氏名省略)
《訳》菅生道基居士が橘谷山泉龍寺を開基した際、江戸海禅寺の初代・雲山和尚を勧請して開山とした。次いで明暦3年<1657>、この山上に奉納された開創当初の梵鐘は、太平洋戦争末期の金属類回収令によって供出されるに至った。
それ以来、月日が虚しく流れるばかりで、鐘楼だけがかつての面影を留めていたが、折しも両祖(開基と開山)の三百年遠忌に際し、信徒全員が心を一つにして協力した。創始者の顕彰と報恩感謝の誓願により、ついに再鋳の事業が成就したのである。願わくば、この鐘の音がもたらす功徳が、等しく現世と来世(幽明)の人々を救済し、国土が安泰であることを希求するものである。
昭和55<1980>年11月吉日(以下省略)

【長谷区史 鐘の銘(一部省略)】

3021S2 恵比寿神社

3021S2 恵比寿神社(2025.10.24)

所在地:長谷
祭神:恵比寿
創建:未詳
氏子:泉龍寺檀家
例祭:10月
由緒等:手洗い鉢に安政6<1859>の年号がある。
昭和10<1935>頃まで青年連中が土俵場で相撲を奉納していたとする。


3021T1 泉龍寺

3021T1 泉龍寺(2025.10.24)

所在地:長谷
山号:橘谷山
宗派:臨済宗(京都妙心寺末)
本尊:阿弥陀如来
創建:未詳(明暦3<1657>以前に創建)
開基:延宝7<1680>雲山(東京浅草海禅寺)開山
由緒等:園部藩主小出信濃守の位牌所とされる。
文政年間<1818~1830>、安政年間<1854~1860>、明治24<1891>に火災があり現在地に移築した。
西南100mの所に古寺の堀等の屋敷跡あり。

「長谷区史」では、慶安元<1648>、川谷村の菅生道基(吉左衛門)と一族18軒が棚田村に移住し、棚田村から沢田村が分割発足したこと、その村民は泉龍寺の檀徒で構成されたことを紹介している。
今もその名残りがあり、泉龍寺の檀家は菅生氏、蓮乗寺の檀家は川勝氏、武田氏とのことである。

夫當山者光巖院大上法皇勅願之旧顕也 其後靈元皇之御宇川谷村菅生吉左右衛門冨貴繁昌ス 其頃棚田村洪水饑饉困窮シ疲病家多ク亡ビシ 地頭ヨリ忠勤之賞トシテ村名加賞セラレテ録得拾八軒譜代引率置 其身ハ澤田村始祖祥雲道起権現ト号シヌ 元妙之書
《訳》そもそも当山は、光厳院太上法皇の勅願によって道が切り開かれたものである。その後、霊元天皇の御代に、川谷村の菅生吉左右衛門という者が富み栄えた。その頃、棚田村が洪水や飢饉に見舞われて困窮し、病が流行して多くの家が絶えてしまった。地頭から忠勤の褒美として村名を与えられ、土地を譲り受けた。そして、十八軒の一族を引き連れてこの地を治めることとなった。彼は澤田村の始祖である「祥雲道起権現」と号した。 元妙記す

【長谷区史 點鬼簿(泉龍寺過去帳)】

また「長谷区史」が載せる「長谷村地誌」によれば、梵鐘の銘に 明暦3<1657>があることから、それ以前の創建と推測できる。

丹波桑田郡野々村之庄沢田村之居住菅生吉左衛門正次公者川谷長生邑仍俊創開萱野被建修精舎莅茲作禅林道場果然號吉谷山泉龍禅寺然雖為恁磨催飯粥六時行道華鯨依無之得度仏子金山溲扣十方細索家門撰取吉月良辰鋳作供以奉掛楼上因呈野偈充其銘乎
金鐘纔撃響徹三千驚破塵邊國下安泰
皇風永扇應鐘時日大願施主正次敬白
明暦三丁酉年
前永平當寺開山金山秋子謹銘之
《訳》丹波国桑田郡野々村の庄、沢田村に居住する菅生吉左衛門正次公は、川や谷が長く続くこの豊かな地において、優れた才をもって萱野を切り開き、寺院を建立・修繕した。ここに禅林の道場をひらき、「吉谷山 泉龍禅寺」と号するに至った。しかしながら、修行の作法に従い、粥飯の時間を知らせ、一日に六度の勤行を華やかに行おうとするも、それを告げるための鐘がなかった。そこで仏弟子として、広く浄財を募り、家門をあげて吉月良日を選び、この鐘を鋳造して供養し、楼上に掛け奉ることとした。ここに野の詩を捧げ、その銘とするものである。
この素晴らしい鐘をわずかに一打すれば、その響きは三千大千世界(全世界)の隅々にまで届き、煩悩にまみれた俗世の迷いを驚き打ち破って、国を安らかに治めるものである。
天皇の徳(皇風)が扇で仰ぐように永く行き渡り、鐘の音はまさに太平の時に呼応している。この大きな願いを込めた施主である正次が、謹んでこれを申し上げる。
明暦三年(丁酉の年)<1657>
前永平寺貫首であり、当寺の開山である金山秋子が、謹んでこの文章を記したものである。

【長谷区史 長谷村地誌 梵鐘銘】

3022S1 妙見宮

3022S1 妙見宮(2025.10.24)

所在地:長谷
祭神:妙見大菩薩
創建:未詳(明治以前)
氏子:蓮華寺壇中による妙見講が管理
例祭:未詳(毎年行われて出店が並び、社殿横の土俵場では昭和15<1940>頃まで奉納相撲が行われていた。)
由緒等:大正末期から昭和初期に現在地に移転、もと街道沿いにあったとするが、その場所は確認できていない。


3022T1 蓮華寺

3022T1 蓮華寺(2025.10.24)

所在地:長谷
山号:妙法山
宗派:日蓮宗(京都妙顕寺末)
本尊:大曼荼羅
創建:文禄3<1594>
開基:日堯
由緒等:
・元禄16<1703>本堂、庫裡再建
・宝暦3<1753>本堂再建
・文化11<1814>火災にあった本堂を現在地に新築
・明治22<1889>鐘櫓建立
・明治36<1903>番神堂を営繕し、八王子権現を境内に遷祀
・昭和33<1958>先の大戦で供出された梵鐘を壇中により寄進


3041S1 菅原神社

3041S1 菅原神社(2014.10.06)

所在地:静原
祭神:菅原道真、慶能法師(野々村頼房)
創建:天徳3<959>
氏子:静原・和泉・島 (長谷は準氏神とする)
例祭:10月10日
由緒等:
・安永8<1779>修築
・天保9<1838>再建
光照寺が別当寺。
「長谷区史」は「菅原神社由緒書」を引き、菅原道真の子菅秀才が叔父の慶能法師と野々村庄に落ちのび、その子孫が建立したとする。


3041T1 光照寺

3041T1 光照寺(2024.10.06)

所在地:静原
山号:温泉山
宗派:臨済宗
本尊:阿弥陀如来
創建:元亀元<1570>
開基:周鉄
由緒等:川勝豊前守光照(今宮城に居住か)が仏門に帰依し(戒名:光照院殿川勝入道道伯居士)、京都相国寺より周鉄を迎え開山した。
堂内に川勝光照の座像を安置する。
元文年間<1736~1741>に本堂を再建した。


3042S1 八幡神社

3042S1 八幡神社(2024.10.06)

所在地:静原
祭神:応神天皇
創建:未詳
氏子:静原(野々中)
例祭:10月(「野々村誌」では9月15日とするが、2024年10月9日に開催された美山サイクルグリーンツアー時に写真の幟が立っていた。)
由緒等:菅原道真の息女、知愛姫を合祀し、知愛権現ともいわれる。
「野々村誌」では「丹州桑田郡野々村之庄平屋番略記」を引き、軽野三社の三の宮(一の宮:道相神社、二の宮:静原の菅原神社)とし、上久保村前田にあったものを中村に遷座したとする。


3042T1 歓楽寺

3042T1 歓楽寺(2025.10.23)

所在地:静原
山号:小倉山(北桑田三十三所霊場第一番)
宗派:真言宗
本尊:不動明王
創建:未詳(延暦年間<782~806>)
開基:未詳(桓武天皇の勅願による)
由緒等:
・貞治4<1365>、応永2<1395>、延宝7<1679>、火災により堂宇焼失
・天和2<1682>大夢和尚、再建
・明治7<1874>桓武天皇の位牌を本山泉涌寺へ移納
・明治18<1885>火災
・明治19<1886>現在地に堂宇建立、仁王門移設
・昭和12<1937>円海法師、現本堂を新築
昔、楽泉寺(本尊:聖如意輪観音菩薩)といったが、桓武天皇の勅願により歓楽寺の号を賜わり、小倉山中腹に七堂伽藍を構えたとする。

901年菅原道真が大宰府に左遷された後、弟の慶能法師、妹の和愛子姫が当寺に隠れ住んだとされることから、明治初年まで静原の菅原神社と八幡神社の別当を勤めた。

京都府統合型地図情報システム遺跡マップによると、歓楽寺跡として下記図中で赤い旗印のある領域に中世社寺跡のあることが示されている。
ちなみに歓楽寺跡の下の赤い領域は中村城跡で、中世城館跡とされている。

京都府統合型地図情報システム遺跡マップ 歓楽寺跡

山門の金剛力士立像については「美山町誌 上巻」に詳しく解説されているが、参考までに現地に掲示されている「歓楽寺山門金剛力士像由緒」の一部を紹介する。

当山門及び金剛力士像は旧歓楽寺跡(空山)より明治年間に移されたものです
山門は草葺単層の六脚門です
記録は現存していませんが 金剛力士像は鎌倉時代の謾蓮法師(慶派)の作と伝えられています
御身丈は右が2.14m 左が1.96mで 作風は誠に精巧を極め美術的にも優れております
当歓楽寺(延暦年間桓武天皇の勅願による建立)の幾多変遷を伝える大切な金剛力士像です
昭和四十五年 京都国立博物館の調査で重要文化財級の金剛力士像として評価されています(以下略)

【歓楽寺山門金剛力士像由緒】

3050S1 稲荷神社

3050S1 稲荷神社(2025.10.23)

所在地:島(上小栗栖)
祭神:倉稲魂命
創建:未詳
氏子:未詳
例祭:未詳
由緒等:「大正郡誌」で島紫雲寺(未詳)の旧跡にあるとする稲荷神社が当社と思われ、下記のように紹介している。
2025年10月23日に現地を訪問した際には、電柵があり参道に行くことができなかったため、境内の様子は確認できていない。

島紫雲寺の旧址にあり。境内の老松は雲を凌ぎて高く、周圍二丈に餘る。境内に湧出する清泉は冷冽膚を徹し三伏の候も涸るゝことなし。參道両側松樹は森嚴の感を深からしむ。傳へて倉内權平の栽うる所なりといふ。

【大正郡誌】

3050S2 稲荷神社

3050S2 稲荷神社(2025.10.23)

所在地:島(朴ノ木)
祭神:倉稲魂命
創建:未詳
氏子:未詳
例祭:未詳
由緒等:2025年10月23日に現地訪問した際、参道に草が生い茂り人の手があまり入っていない様子だった。


3050T1 岩栖寺

3050T1 岩栖寺(2025.10.23)

所在地:島
山号:竜漂山
宗派:臨済宗(南禅寺末)
本尊:十一面観世音菩薩
創建:応永3<1396> ※「大正郡誌」は応永2<1395>とする
開基:管領丹波守細川満元<1378~1426>開基、希世霊彦<1403~1488>開山
由緒等:
・元禄元<1688>焼失、再建
・安政6<1859>再々建
もと大同元<806>天台宗尺伝昌開基、観喜寺であったが、臨済宗に改められ岩栖寺になったとする。
応仁の乱で南禅寺焼失後、応仁元~文明10<1467~1478>に、希世霊彦は細川満元から賜った当地に岩栖院を移したとする。
寺の過去帳に、「岩栖院殿院道観公大禅定門開基、応永三十四年十月十六日歿」とあり、細川満元の没日と一致することから、同氏との関連が推測される。
寺に伝わる古制札により、文亀年間<1501~1504>、上由良川棚野川の落合より上流、静原の瀧田井根までの間が南禅寺塔頭聴松院の領地であったことが分かる。


3050T2 正願寺

3050T2 正願寺(2025.10.23)

所在地:島
山号:坊谷山
宗派:真宗大谷
本尊:阿弥陀如来
創建:未詳
開基:菅原啓仲(道真の六男)
由緒等:
・正保2<1645>浄土真宗に改宗
・天保年間<1830~1844>現堂宇再建


3060S1 八幡神社

3060S1 八幡神社(2025.10.23)

所在地:下吉田
祭神:応神天皇
創建:未詳
氏子:未詳
例祭:9月15日(秋の放生会)
由緒等:未詳


3060T1 頓乗寺

3060T1 頓乗寺(2024.10.06)

所在地:下吉田
山号:円融山
宗派:真宗大谷
本尊:阿弥陀如来
創建:天正4<1576>
開基:了巴(山内秀次)
由緒等:明治28<1985>水害により流出するも同年に再建した。
了巴は島城主の三男であり、教如の助力により当地に本寺を創建したとする。
島城主については川勝継氏、川勝政行など諸説あり、山内秀次の系譜については不明である。(「第12章 遺跡」「9. 島城」参照)


〔08 宮島B〕に進む

第9章 神社と寺院】に戻る

『美山考』マガジン を表示

いいなと思ったら応援しよう!