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『美山考』第9章〔知井A〕北・南・知見・下・中【260811】

南丹市美山町の地域史についての考察
改訂履歴

エリア地図11〔知井A〕北・南・知見・下・中

エリア地図11〔知井A〕北・南・知見・下・中


5010S1 八幡神社

5010S1 八幡神社(2026.03.04)

所在地:北
祭神:応神天皇
創建:延久3<1071>
氏子:未詳
例祭:10月10日
由緒等:
・承久3<1221>南村の上宮山に勧請
・永禄10<1567>洪水氾濫、十苗により北村久保屋敷に祀る一宮大明神(八坂神社、素戔嗚尊)の境内に遷し、諏訪明神(建御名方神)と三社を合祀し、八幡宮と称した。
・元亀元<1570>社殿新築
・寛文6<1666>再建
・明和4<1767>社殿改築
十苗は、東(大牧)、高野、中井(中沢)、中田、勝山、林、長野、急(名古)、中(中野)、津元(津本)とされる。()内は継承した氏族である。
境内の知井八幡神社の由緒書を以下に引用するとともに、本殿前に掲示されている装飾彫刻の解説パネルの一部を抜粋し紹介する。同パネルには彫刻各部位の写真と解説を載せている。
尚、大鹿退治の伝承については、佐々里の八幡神社境内に同様の伝承が掲示されており、「知井村史」では伝承の中で、佐々里八幡宮と知井八幡宮が混同されていることを指摘している。
鶴ケ岡にも大鹿退治の類似伝承があり、詳しくは「第11章 伝承と人物 4.香賀(甲賀)三郎」を参照されたい。

当神社は、中世知井之庄九ヶ村の惣(総)社で、延久三年<1071>に創建された。
永禄十年<1567>に山抜けによる大洪水で流失したため、社殿移築の協議がまとまり、元亀元年<1570>に現在地に移転・再建された。
伝承によると、和銅六年<713>妖怪が出没し、人々を恐怖におとしいれた。天皇の命を受けた占師は、丹波の奥山に棲む八つ頭の大鹿の仕業と判じた。天皇は直ちに甲賀三郎兼家に命じて大鹿退治に当たらせる。首尾よく退治に成功した兼家は神恩に感謝して、その地に建てた社が、知井八幡神社の起源とされている。
なお、大鹿退治に従った家来たちの中には、この地にとどまり村を拓き、氏子として八幡宮の守り手になっていったという。
現在の本殿は、明和四年<1767>に再建されたもので、特に、神社彫刻では丹波地方を代表する神社として広く知られている。
また、この地は小浜と京都を結ぶ若狭街道の道筋にあったため、往来の人たちでにぎわい、旅の安全を守る神社として賑わった歴史がある。

【知井八幡神社の由緒】

八幡神社本殿の造営は、明和三年<1766>の上棟で、大工棟梁は「室田利兵衛」が携わっている。
室田大工は、播州三木からの出稼ぎ大工で地元ではほとんど知られていません。しかし、南丹市北部・綾部市・福知山市方面に、江戸中期に有名な社寺彫刻師・大阪「草花氏」・「長谷川氏」や丹波柏原「中井氏」と組みその地域の中心的な社寺を沢山残している。
その社寺は、細かな細工の装飾彫刻で埋め尽くされた荘厳豪華な造りとなっています。
彫刻師については現時点、判明していませんが彫刻細工の様子から、丹波柏原住人で柏原拠点に丹波・丹後・但馬國、北播方面に沢山の彫刻を造っている「中井一統」の作品に近いと推測されています。(他省略)

【知井八幡神社本殿を飾る装飾彫刻】

また、「大正郡誌」に、北八幡宮、中蔵王権現、佐々里八幡宮の修理費用に充てるための知井山域を定めた史料を載せている。各領域の具体的な広さと木材量は確認できていないが、知井三社に対する当地の人たちの思いが分かる史料として興味深い。

一 大宮八幡宮   社所は北村
一 蔵王権現    社所は中村
一 八幡宮     社所は佐々里村
右三社之為御建立御造営之相定立申山々事
一、一ヶ所は蘆生村の奥赤崎の東谷也
   方限は出口両尾限其奥皆敷不残
一、一ヶ所は佐々里村奥東谷之内也
   方限は大ぬけ谷口上の尾通両浦向限奥皆敷
一、一ヶ所は河内谷村奥□か谷也
   方限は出口両尾限其奥皆敷
右三ヶ所之山為御宮御建立御造営之、九ヶ村寄合相定相立申候、於自今以後右三ヶ所之山立木一本にても伐取申間敷候、扨又三社之宮破損の節は右三ヶ所の山立木売買仕修造可仕候。其節少にても邪成儀申間敷候、若右の子細相背候はば可蒙神罰者也。仍九ヶ村連判之状如件
寶永七年寅七月朔日 知井庄九ヶ村氏子不残
《訳》知井庄九ヶ村が崇敬すべき神社に関する事
一、大宮八幡宮  (社所は北村)
一、蔵王権現   (社所は中村)
一、八幡宮    (社所は佐々里村)
右の三社を建立・造営するために、以下の山々を定める。
一、一ヶ所は、蘆生村の奥にある赤崎の東谷である。
  その境界は、出口の両方の尾根を境とし、その奥はすべて残らず対象とする。
一、一ヶ所は、佐々里村の奥にある東谷のうちである。
  その境界は、大ぬけ谷の登り口より上の尾根を通り、両側の斜面を境として、その奥はすべて対象とする。
一、一ヶ所は、河内谷村の奥にある□か谷である。
  その境界は、出口の両方の尾根を境とし、その奥はすべて対象とする。
これら三ヶ所の山は、神社の建立・造営のために九ヶ村が寄り合って決定したものである。今後は、これら三ヶ所の山の立木を一本たりとも伐り取ってはならない。また、三社の社殿が破損した際には、これら三ヶ所の山の立木を売却して修理費用に充てるものとする。その際、少しでも不正なことを言ってはならない。もしこの定めに背くようなことがあれば、神罰を被るものである。よって九ヶ村が連署した書状は以上の通りである。
宝永七年<1710>庚寅七月一日 知井庄九ヶ村 氏子一同

【大正郡誌 知井之庄九ヶ村可崇敬社之事】

5010S1-1 天満宮

5010S1-1 天満宮(2026.03.04)

所在地:北(八幡宮境内、左宮)
祭神:未詳
創建:未詳
氏子:未詳
例祭:未詳
由緒等:未詳


5010S1-2 八坂神社

5010S1-2 八坂神社(2026.03.04)

所在地:北(八幡宮境内、右宮)
祭神:未詳
創建:未詳
氏子:未詳
例祭:未詳
由緒等:未詳


5010S2 諏訪神社(津本社)

5010S2 諏訪神社(津本社)(2026.03.04)

所在地:北
祭神:建御名方命
創建:未詳
氏子:中野苗(北集落に津本苗が残らず中野苗が守る)
例祭:未詳
由緒等:元は諏訪社と呼ばれていた。さらに遡ると、津本氏は氏神として藍婆御前を祀っていた。藍婆とは鬼子母神と共に法華経を守護する十羅刹女の一神。藍婆御前から諏訪信仰(建御名方命)に変遷した由来は不明。


5010S3 北稲荷神社

5010S3 北稲荷神社(2026.03.04)

所在地:北
祭神:倉穂魂命
創建:未詳(文政5<1822>以前)
氏子:中野苗講
例祭:10月15日
由緒等:赤系統の色合いをもたない祠。
明治初年まで、成人になった男子を村中で祝福し、記念の木札を石垣に立てた。(佐々里の囲垣祭と類似か)
境内の栃の大木は神の依代とされている。
「知井村史」に当社の苗について解説されており、その冒頭部分を引用する。

北村の稲荷社は明治十六年<1883>京都府調「神社明細帳」では、無格社、祭神「倉穂魂命」とされ、租霊社としての記載はない。いつ頃、どんな経過のなかで租霊社として「中野苗講中」によって維持されてきたものか。北村の稲荷講の記録は文政五年<1822>のものから残されているが、租霊神の実体はかなりさかのぼるものと思われる。明治十三年<1880>の「御稲荷講人別帳」に苗世話人八郎右衛門によって記録され、講中三十二名の名が確認できる。(以下略)

【知井村史 苗と苗田】

5010S4 鎌倉神社(勝山神社)

5010S4 鎌倉神社(勝山神社)(2026.03.04)

所在地:北
祭神:勝山大神(勝山氏の先祖源末友)
創建:建長2<1250>
氏子:勝山苗講
例祭:10月15日
由緒等:昔は南集落にあり、勝山神社と呼ばれた。北集落に遷移され、社名も変わったとされる。


5010T1 普明寺

5010T1 普明寺(2026.03.04)

所在地:北
山号:異月山(北桑田三十三所霊場第十三番)
宗派:(天台宗→臨済宗→)曹洞宗(若狭妙徳寺末)
本尊:聖観世音菩薩
創建:大治5<1130>
開基:(天台僧)良忍
由緒等:
・康安年間<1361>類火により焼失
・嘉慶年間<1387~1388>普明国師により再興、臨済宗となり普明寺と称す(普明国師は勧請開山かもしれない)
・永禄11<1568>若狭妙徳寺怡山により曹洞宗となる
・昭和19<1944>類火により焼失
・昭和23<1948>再建
現地に掲示されている由緒書は次の通り。

建立の時期は不明であるが、大原良忍の開基と伝えられている。天台宗から臨済宗に変わるのは、この地一帯の荘園を、千三百年前後に、光厳天皇が天龍寺に寄進してからである。
火災の後、そのままになっていた本寺を、諸国を巡って、布教と勧進をしていた知覚普明国師の知るところとなった。
普明国師の名は、京都の名刹相国寺を中心に、生涯八千余りの弟子の修行と教化に尽くした名僧で、後円融天皇の下賜号によるものであった。
その号を普明国師勧進によって寺の再建がなり、以後、普明寺と名づけ、曹洞宗に改められることになった。
普明寺は桓武天皇の勅願で建立されたと伝えられる同じ地内の、門法(坊)寺の末寺の一つとされてきた。その門法寺は信長の命に従って、光秀が周山城の用材として、破却したと伝えられている。
本尊の「観世音菩薩」は門法寺の仏像の一つで、三度火災に遭っているが、その都度持ち出され守られてきた。製作は平安末ではとの鑑定を受けている。
普明寺の文献での初出は、門法寺の大般若経の転読の際に書き込まれた参加末寺の一つに記されたものである。(大般若経六百巻は現存、貞治五年、1336年の記である。)
その後、再度の火災の後、若狭妙徳寺の合力を中心に再建された。再建までの間は小さな草庵で、尼僧が仏の護りを勤めてきたと伝えられている。
今の住僧の系譜は、妙徳寺中心の再建以後で、昭和十九年、三度目の類焼、再建以後をふくめ、十一代目となり、歴代守護されてきた本尊は、いつの頃からか、子安観音として篤い信仰を受けるようになった。(平成二十九年<2017>記)

【異月山普明寺由緒】

5031S1 八幡宮

5031S1 八幡宮(2025.04.29)

所在地:知見
祭神:未詳
創建:未詳
氏子:未詳
例祭:未詳
由緒等:未詳
※八幡宮の逸話については、「第8章 地名 4.知見」を参照。


5031T1 本妙寺

5031T1 本妙寺(2025.04.29)

所在地:知見
山号:法王山
宗派:日蓮宗
本尊:未詳
創建:慶長年間<1596~1615>
開基:日経
由緒等:慶長宗論に敗れた日経が当地に逃れた時、市川左門と畠中喜兵衛が一宇を建立したものが本妙寺であるとする。
集落内に日蓮宗が二ヶ寺あることから、昭和35<1960>正法寺に合併し廃寺となった。
※慶長宗論:浄土宗の英長寺・廓山と法華宗の妙満寺・日経との宗論で、徳川家康が両者を江戸城で対決させた論争。日経は、慶長14<1609>に京都六条川原で耳と鼻を削がれる刑を受けている。


5031T2 正法寺 【260811】

5031T2 正法寺(2025.04.29)

所在地:知見
山号:知見山
宗派:日蓮宗
本尊:未詳
創建:貞観16<874>
開基:円乗
由緒等:
はじめは長栄山知見院(真言宗)と号し、のち長栄山知見寺とした。
永仁元<1293>日像が知坂を越え京都に向かう時、大観は日像との法論に負け弟子となり、永仁2<1294>本尊を改め法華宗、本像寺とした。
知見院時の経文等は、400m離れた山腹に埋められたとされる。
その後、京都妙顕寺都朗、日明などの隠棲地とされ一時巨刹になるも、康正2<1456>火災により焼失。
文禄3<1594>尾崎山に堂宇を再建したが、明治4<1871>火災により再び焼失、翌年草庵を建て妙顕寺より本尊を貰い受けた。
昭和35<1960>本妙寺檀家との相談により、知見集落内に日蓮宗が二ヶ寺あるのを一ヶ寺に統一、本像寺跡に正法寺を新築した。本山は許さなかったが全て正法寺の檀家となった。
※知井坂を越えた名田庄川に知見郷があったとされ、神社や寺院を含め、一つの文化圏だった時期があるのかもしれない。知見については、「第8章 地名 4.知見」を参照。

「大正郡誌」の本像寺についての解説は次の通り。

本像寺
知井村大字知見に在る法華宗の寺なり。寺傳にいふ。本寺はもと真言宗に屬し、貞觀十六年智證大師の弟圓乘の開基にして長榮山知美寺といへり。十九代の僧多寶阿閣梨大觀、永仁元年十一月五日日蓮の高足日像の此の地に巡錫せる際、之と法論を闘はして打ち敗れ、忽ち日像の弟子となりて、日蓮宗に改め、寺號をも本像と更めたりと。而して當時所藏せし經文は之を三町餘距たれる山腹に埋め了せり。爾來京都本山妙顯寺貫首歴代の隱棲地に充てられ。一時巨刹なりしも、後花園天皇の康正二年四月火災に罹りて鳥有に歸し、ついで天禄(元禄か)三年尾崎山の地を相して堂字を再建せしが、近く明治四年十二月また炎上して堂字什寶悉く焼失す。翌五年五月假に一草庵を結び以て今日に至る。本寺藏する所の大黒天木像は黝黒にして頗る古色を帶び、其の背後に左の如き銘文の刻せられたりといへば、今より五百八十餘年前の彫刻なるべき理なるも、未だ面り拜するの機會なきを遺憾とす。
蓮師自作新願
 為後代記之
  曆應三年 
   辰十月十三日 日像(華押)
《訳》本像寺は知井村の大字知見にある法華宗の寺である。寺伝によると、当寺はもと真言宗に属し、貞観十六年<八七四>に智証大師の弟子である円乗が開基し、長栄山知美寺と号したという。十九代の僧である多宝阿闍梨大観が、永仁元年<一二九三>十一月五日に日蓮の高弟である日像がこの地に巡錫した際、日像と法論を戦わせて敗れ、たちまち日像の弟子となって日蓮宗に改め、寺号も本像寺と改めたとされる。そして、当時所蔵していた経文は、ここから三町余り離れた山腹に埋納した。それ以来、京都の本山である妙顕寺の歴代貫首の隠棲地に充てられ、一時は大寺院であったが、後花園天皇の時代の康正二年<一四五六>四月に火災に遭って全焼し、続いて天禄(元禄の誤りか)三年<一六九〇>尾崎山の地を選んで堂宇を再建した。しかし、近年の明治四年十二月にまたしても火災で堂宇や寺宝のすべてが焼失し、翌年五月に仮の草庵を結んで今日に至っている。当寺が所蔵する大黒天の木像は黒みを帯びて非常に古色を帯びており、その背後には次のような銘文が刻まれているという。これによれば今から五百八十余年前の彫刻であるはずだが、まだ直接拝観する機会がないのは遺憾である。
蓮師自作新願
 為後代記之
  暦応三年<一三四〇>
   辰十月十三日 日像(華押)

大正郡誌

5040S1 八幡宮

5040S1 八幡宮(2026.03.04)

所在地:下
祭神:応神天皇
創建:未詳
氏子:未詳
例祭:未詳
由緒等:未詳


5040T1 心蓮寺

5040T1 心蓮寺(2026.03.04)

所在地:下
山号:具足山
宗派:日蓮宗
本尊:不明
創建:永仁元<1293>
開基:日像
由緒等:野々村郷時代は、ふれ頭の寺格をもち、本山宝物を応永20<1414>頃から天文法難<1536>まで預かっていたとする。
昭和40<1965>庫裡、位牌堂、番神堂覆屋の新造、本堂の改造、諸堂の整備が行われた。
※天文法難:天文5<1536>、京都において日蓮宗が浸透し強い勢力をもつなか、延暦寺の僧、華王房が、日蓮宗の一般宗徒(法華衆)、松本久吉に論破されたことに端を発し、延暦寺と法華衆(日蓮宗)の間で大きな争いになり京都の大部分を焼失、法華衆は壊滅した。


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