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『美山考』第6章 近世【260503】

南丹市美山町の地域史についての考察
改訂履歴



表6-1 は、「日本歴史地名大系」をベースにして、明治初期(廃藩置県前)における領主と所領する村の関係、及び各村の石高を表わしたものである。
各村と領主の関係がいつ成立したか正確な年は分からず、次の2点に疑問はあるものの「日本歴史地名大系」が記す成立年を領主欄に記載した。
・幕府の成立は慶長8(1603)年であり、慶長7(1602)年に全村を幕府領としている根拠が不詳
・知見中以下5村が、天保6(1835)年に園部藩領になったとする根拠が不詳

江戸期を通じて領主と領地の関係には変動があったようであり、領主欄に ※A~F を補足した。

また、図6-1 は美山町域を農業集落境界データ(「第7章 境界」参照)をもとに各村域に分け、園部藩領は赤色、篠山藩領は青色、武田兵庫領は黒色で示したものである。

表6-1. 明治初期(廃藩置県前)時点における領主と所領の石高

領主欄の補足:慶長7(1602)年時点では全村幕府領
※A:「寛文印集帳」寛文4(1664)年4月付文書では園部藩とされている
※B:「寛文印集帳」寛文4(1664)年4月付文書に村名が記載されていない
※C:享和2(1802)~天保6(1835)年間は 幕府直轄領 京都所司代小堀氏支配「美山町誌」
※D:享和2(1802)年より山林は禁裏御料京都代官支配とする「日本歴史地名大系」
※E:天明3(1783)年「領内天明の高附帳」で篠山藩洞組に記載なし(園部藩領か?)
※F:元禄8(1695)年 田土村・上吉田村・林村・殿村の村領域争いで園部藩が裁決している(田土村は園部藩領か?)

図6-1. 藩領図(赤:園部藩領 青:篠山藩領 黒:武田兵庫領)

例えば、元禄8(1669)年12月、柴や萱などの採草地をめぐって起こった、田土村・殿村・上吉田村・林村の村領境界の争いは、園部藩が裁決していることから、この時点の田土村は、篠山藩領ではなく園部藩領だったのかもしれいない。
享和2(1802)年には、篠山藩領(藩主青山忠裕)の大野・洞・知井各組村が、突如幕府直轄領とされ京都所司代小堀氏の支配になった。その後、肱谷村民らの願いが叶い、天保6(1835)年には篠山藩領に戻っている。

石高は元禄13(1700)年と明治初期(1868)年のものであり、各村間に石高差の大小を読み取ることができる。両年間の石高伸率を見ると、園部藩領1.53倍、篠山藩領は園部藩より若干低く1.24倍に増加、旗本武田兵庫守領については0.94倍に減少している。「美山町誌」では当時の水帳や山帳などから、その背景にある各村の耕作地・戸数・人口・生業等について分析している。

地理的には、園部藩領が美山町域全体に広く分布する中に、鶴ケ岡・大野・知井地区内の一部の村が篠山藩領と旗本武田兵庫領として配置されており、必ずしも連続した所領域になっていないこと(どちらかと言えば飛び々々の状態)に興味が惹かれる。

2025年11月9日に、南丹市立文化博物館で開催された特別展「園部藩主小出家」を見学した際、学芸員に上記の分断した所領の割り当てになっている理由を尋ねると、園部藩の藩政に関する史料が残っておらず分からないとのこと。令和元年に行われたシンポジウムでもそのことが話題になり、園部藩立藩の前に小出家が元々出石で領有していた石高に合わせるためにちょうどよい村の石高を足し算して選んだ、徳川家とつがなりのある園部藩が幕府から信任を得て街道筋の主要な村を治めた、逆に元々外様である小出家を抑制するために篠山藩領を園部藩領に割り込むような形で配置した..など諸説あったらしい。

関ヶ原の戦い後、当地周辺は徳川政権が西国を治めるための要衝地として、亀山藩(亀岡藩)、園部藩、篠山藩、福知山藩、綾部藩など、周辺各藩を包括して、新藩の創立、藩主の転封、廃藩等が行われた。

そうした背景のなかで、園部藩は元和5(1619)年に小出吉親が初代藩主として立藩され当地の領主となった。

篠山藩は慶長14(1609)年、松井松平康重が八上城に入り、元和5(1619)年に藤井松平家が藩主になったときから当地の領主となった。慶安2(1649)年からは形原松平家が藩主を務めたが、五代信岑の失政により、亀山藩主だった青山忠朝が入れ替わりで篠山藩主になっている。

園部藩は天保6(1835)年八代藩主小出英発のとき、篠山藩は寛文4(1664)年(初代形原)藩主松平康信のとき、当地内に所領の追加がされたようだが、その背景については未詳である。

ここでは、近世における美山町域の主な領主であった園部藩と篠山藩の成り立ちについて概観しておく。


1. 園部藩

園部藩は、元和5(1619)年に立藩され、明治4(1871)年の廃藩置県まで小出家が領主を務めた。初代吉親の祖父、秀政は豊臣秀吉の母の妹を夫人とし、四代英貞は、徳川家康の曾孫、松平頼純の娘を正室にするなど、豊臣・徳川両家とのつながりが、関ヶ原の戦いを挟んだ数百年に渡る小出家存続の背景にある。

小出家は秀政以降、三つの系譜、但馬出石藩(吉政)、丹波国園部藩(吉親)、和泉国陶器藩(秀家)に分かれるが、吉政の長男吉英が出石藩主となったことから、次男吉親は出石から園部に移封になり園部藩を立藩、初代藩主になった。出石藩は九代英及、陶器藩は四代重興のときに無嗣断絶となっている。

吉親は丹波国船井郡宍戸の小畠氏のもとで仮住まいした後、元和7(1621)年、園部陣屋を築造(櫓の築造は幕府の許可を得られず「城」ではなく「陣屋」の扱い)、移住し町場を整備した。
慶安元(1648)年には藩領内の検地を実施し、複数村で「村切り」を行い村毎の地詰帳を作成するなど、藩政の基盤を整えた。

「園部町史 史料編 第2巻」に収録されている「略史前録草案」に、「慶安二(1649)年御検知之節□分レ候村々覚 此書付則武兵右衛門所持」として、棚田村・沢田村、今宮村・市場村、上久保村・大内村、知見村・同中村、芦生村・白石村・佐々里村がそれぞれ「分ル」と記載されている。
これまでひとつの村だったものが、独立した村として分離されたことを示すものか、或いは、もともと独立している村をひとつにまとめた石高として扱っていたものが、村単位の石高に改められたことを示すものか分からないが、いずれにしても当時行われた検地により、これらの村々で上記「村切り」に関連する変化があったようである。

初代吉親以降幕末まで、二代英知・三代英利・四代英貞・五代英持・六代英常・七代英筠・八代英発・九代英教・十代英尚と続き、園部藩最後の藩主英尚は、慶応4(1868)年、日本の歴史上最後の城となる念願の「三層の園部城」を築城した。
美山町域に関係すると思われる藩主事績の一部を下記する。

  • 初代 吉親
    元和年間(1615~1624):佐々里を訪れ最勝寺に二日逗留(元治元(1864)年「最勝寺由緒略記」(佐々里区文書))

  • 三代 英利 
    元禄10(1697):国絵図と郷帳を福知山藩朽木氏、柏原藩織田氏とともに作成
    元禄11(1698):上野国甘楽郡の四ヶ村が丹波国内の村々と替地になり飛地領が解消(両国の村名は不詳)

  • 五代 英持
    寛延3(1750):寺社関連の事績多数あり(美山町域の社寺については不詳)
    宝暦2(1752):煙草の専売制を開始、船井郡・桑田郡の 91村を煙草の生産に従事させた

  • 七代 英筠
    文化元(1804)10月:桑田郡上久保村、知見村、知見中村、島村、砂木村などを巡視


2. 篠山藩

慶長13(1608)年、丹波八上城に入った松井松平家の康重が、徳川家康から築城の命を受け 慶長14(1609)年に天下普請として篠山城を起工・完成させた。
その後、篠山藩は藤井松平家の信吉・忠国の二代を経て、形原松平家の康信・典信・信利・信庸・信岑と続いたが、五代信岑は失政により亀山藩へ移封、亀山藩の青山忠朝が入れ替わりで篠山藩主になり、以降青山家が忠麻・忠高・忠講・忠裕・忠良・忠敏と続き、明治2(1869)年6月17日の版籍奉還まで領主となった。

寛政12(1800)年、忠裕が大阪城代になったことから、享和2(1802)年以降、桑田郡内六組(周山・弓削・矢代・知井・大野・洞)と河内国茨田郡等が取り替えになり幕府直轄京都代官所(小堀氏)の所領となったが、天保6(1835)年、忠良就任により篠山藩領に戻っている。

天明3(1783)年「領内天明の高附帳」に、大野組・知井組・洞組に属する村名・家数・男女人数・石高等を載せているが、田土村・庄田村は洞組内に記載されていない。上述の元禄8(1669)年12月に起こった田土村・殿村・上吉田村・林村の村領境界争いは、篠山藩(田土村)と園部藩(殿村・上吉田村・林村)の構図だったのか、或いは、田土村・庄田村がいつ篠山領になったのか定かではない。


今後の考察課題 【260503】

  • 美山町域における園部藩と篠山藩の統治手法とその差異

  • 園部藩領と篠山藩領の時系列図化とそこから読み取る水源との関係


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