『美山考』第5章 中世【260811】
南丹市美山町の地域史についての考察
改訂履歴
律令体制の終焉とともに土地の荘園化が進み、美山地域には、野々村庄、棚野庄、知井庄が存在したとされる。
野々村庄には、庄内の三十三ヶ村を六番に分け番頭制で自治していたとする 2つの伝承「木梨軽皇子伝説」と「慶能法師伝説」(「第11章 伝承と人物」参照)がある。
両者は背景の異なる伝承であるが、六番三十三ヶ村の自治については共通する内容であり、この地域の土地開発についての由来を示すものとされる。
・平屋番:大内、上久保、荒谷、安掛、長尾、野添、深見、上平屋、下平屋
・丸岡番:原、板橋、宮脇、又林、下吉田、
・和泉番:島、棚田、上司、和泉
・高野番:市場、中、今宮、栃原、砂木、棚
・大野番:萱野、大野、川谷、小笹尾、岩江戸
・樫原番:樫原、向山、肱谷、音海
上記の内、高野番については棚野庄と称したことが、諏訪神社(川合)の棟札に書き残されているとのこと。棚野庄には、野々村庄の伝承が残らず、知井庄と共通する伝承(香賀三郎の大鹿退治)が残ることから、野々村庄とは別の由来に基づく土地開発が行われたことが示唆される。
知井庄は、知井中、下、南、北、河内谷、江和、田歌、知見、中、芦生、佐々里、白石がその庄域とされる。
「信長公記」巻八 天正3(1575)年9月2日条によれば、細川昭元が丹波国守護となり、桑田郡を治めたとしているが、美山町域の中世史については、丹波地域内だけではなく、若狭地域も含めた勢力関係、或いは、三好氏、細川氏といった中央政権の勢力争いが背景にあることを視野に持ちつつ見る必要がありそうである。
1560年前後に桑田郡の今宮城を拠点とし、桑田郡北部、船岡郡の一部、若狭国の一部を治めた川勝光照については、「第11章 伝承と人物」9. 川勝光照 を参照されたい。
これより以下では、「美山町誌」「知井村史」「大野区誌」「ふるさと鶴ケ岡」「長谷区誌」等の郷土誌で紹介されている史料をもとにして、平安後期から室町期にかけての美山町域の様子を見ていくことにする。
・794年~ 平安期
・1185年~ 鎌倉期
・1333年~ 南北朝・室町期
・1574年~ 戦国期
表5-1 は、宮内庁が公開している「天皇系図」から、後白河天皇~後奈良天皇を抽出し、政権・情勢と本章で扱う史料の対応を表したものである。
当時の美山町域には皇室や寺院の所領地が広範囲に置かれていた。各期における美山町域の土地支配に関係すると思われる主な人物の動向を概観しておき、各史料の背景を知る手がかりにしたい。
後白河天皇(法皇)
(平安後期)寿永二年<1183>に持仏堂である長講堂を建立した。建久二年<1191>、四十二ヶ国八十九ヶ所の自己の荘園を長講堂に寄進し、娘の覲子内親王に長講堂ごと譲渡したが、その翌年に法皇は崩御した。これらの所領群は「長講堂領」と呼ばれ、内親王の没後、紆余曲折の末に後深草天皇およびその子孫である持明院統が継承し、内容的には大きな変質を伴いながら室町末期まで皇室の所領群として伝領された。この時期の弓削庄は長講堂領に属していた。
後鳥羽天皇(上皇)
(鎌倉期)建保七年<1219>一月二十七日、鎌倉の鶴岡八幡宮で源頼朝の子三代将軍実朝が二代将軍頼家の子公暁に暗殺され源氏正統が断絶すると、朝廷より四代将軍として九条(藤原)頼経を迎え入れたが、幕府執権北条義時が実権を握るようになり後鳥羽上皇との関係が悪化、上皇は、承久三年<1221>五月十四日、北条義時追討の宣旨を発した(承久の乱)。近畿・中部・四国の守護・地頭は上皇方についたが、関東・東海・北陸の御家人(幕府方)が京都を占拠。後鳥羽上皇は敗れ、隠岐に流罪、土御門・順徳上皇はそれぞれ土佐・佐渡に流罪となった。
御堀河天皇が即位し、加担者の所領三千余ヶ所を没収、御鳥羽院領の庄園二百十数ヶ所の進止権は幕府が留保し、守貞親王(後高倉院)に寄進された。それ以降、関東の御家人がそれらの土地に配置されることになり、上皇方についた丹波国も一斉に関東の支配が浸透し、庄園の在り方が大きく変化した。野々村庄が野々村郷に変わったのはこの時期と思われ、関東から配置された人物が美山町域各地の土地支配に関わり始めたと思われる。
後醍醐天皇
(南北朝期)元弘三年<1333>後醍醐天皇(大覚寺統)の鎌倉倒幕に呼応し、足利高氏(尊氏)は丹波国篠村八幡宮で挙兵、赤松則村・千種忠顕らと京都を攻め六波羅探題を滅ぼした。関東では新田義貞が鎌倉を攻め、北条宗家を滅ぼした。後醍醐天皇は、光厳天皇(持明院統)を廃位し、建武に改元<1334>、建武の新政を開始した。
建武二年<1335>足利尊氏が中先代の乱(北条時行が鎌倉幕府再興のため挙兵・反乱)を鎮圧し、鎌倉で独自に恩賞を与えたため、後醍醐天皇は、新田義貞、楠木正成、北畠顕家らに尊氏追討命じた。尊氏は敗れ一旦九州に逃れたが、態勢を立て直し新田・楠木を破り入京した。
延元元年<1336>後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝政権を樹立、足利尊氏は光明天皇(持明院統)を立て室町幕府・北朝政権を樹立した。
暦応二年<1339>後醍醐天皇の崩御に伴い、足利尊氏・直義は後醍醐帝鎮魂のため暦応寺(天竜寺、臨済宗)を創建した。
暦応四年<1341>光厳上皇は長講堂弓削庄(後醍醐天皇により高雄神護寺宛に祈祷料所として寄進されていた)の地頭職を暦応寺(天竜寺)開山夢窓国師に寄進、これにより、弓削庄は天竜寺領になった。

平安期
●史料5-1 天徳五年<961> 知井公文分土帳事
※原文のほとんどの部分はひらがなで書かれているが、文意を分かりやすくするため可能な範囲で漢字表記した。
知井公文分土帳事
一 知井山九万八千に相定め候事公文の家より定也
右の地頭は公文の家なり。但し、九万八千内七つ谷は公文直きの進退なり。 山の所は、五波谷・しょうぶ谷山ひだ・赤崎・一の谷・河内谷の奥・奥手柳・津の本谷、これ七つの内なり。
一 若狭染ケ谷より毎年正月二十日、山の霊木三人づつ公文所へ参り候なり。同じく礼銭五百文、同じく紙三束づつ持ち来たり候なり。
一 弓削より立会いの境、河内谷奥、岩滝おりつきの谷なり。釜ヶ原ちしゃの木の石を境しかれども、弓削知谷の田地を知井より進退いたさすの時は弓削ちゃうし津ともに返しおくなり。
田地の榜示は、南は赤まだら岩を限り東は樋を限り、北は赤石を限り、西は山の裾を限り、田地の積もり七反半なり。
同草木縄手に七反半あるなり。
以上合一町五段なり。
この田地さえつかまつらざる時は
山のことは面々の水流れを進退仕るべきものなり。
右の書き物表竹割りに仕り候て、知井庄内へ渡し、経堂に納め置くなり。
弓削の
稲波 右衛門尉
知井公文 六郎左衛門
田貫公文 みつはし
江和の 大まい
中村 坊
北村 大家
天徳五年<961>三月十六日
知井惣中
表5-1 には表記していないが、天徳五年<961>は、村上天皇62 御代であり、美山町域の古文書で最も古い年号のものである。十世紀中頃は、律令制の公地公民が崩壊し、地方には公領と私領が入り乱れ庄園の形成が進んでいく時期にあるなかで、文末に「庄内」と記されていることから、知井は既に荘園体制下にあること、「弓削の」以下に連名で記されていることから、知井と弓削の地域は一体であったこと、知井を治める「公文」職がおかれていたこと、庄園の現地管理人である「地頭」と「公文」が同意に扱われていることが分かる。
知井と鶴ケ岡北部の大半(棚野)は弓削庄に含まれていたとされるが、この文書に棚野の名が見えないことから、この当時、棚野は弓削庄から独立した関係にあったのかもしれない。
弓削庄内の弓削と知井の境界についてかなり細かく記述されている。権蔵坂を越えた名田庄側に染ヶ谷がある。延宝六年<1678>知井山地の谷ごとの名前と深さ(奥行き)を調査した記録「知井山相絵図覚帳」には、知井の谷々(名前のある谷:377、それぞれの谷の中にある小谷:708、迫:1186)が記されているが、芦生の櫃倉谷は入口しか書かれていないこと、岩江戸村権左衛門の野々村・知井を一枚に描いた絵図では、櫃倉谷にあたる位置が「若州分」として空白にされていることなどから、芦生の櫃倉谷は若狭の人(木地師か)の土地で当初は貸借的な関係にあり、若狭が知井に賃料を納めていたと思われる。
現在の詳しい場所は分からないが、河内谷奥岩滝おりつきの谷~佐々里釜ヶ原ちしゃの木の石を境界としている。これは、明治十一年<1878>八丁山を弓削に譲った境界よりも狭いらしい。
釜ヶ原の丸い地形の中央に小高い丘があり、全周を水田が囲んだ中に住居跡があった。水田の山側には石塁がめぐらされ、水田部分は水堀になっていて、中世土豪の居館、知井公文六郎左衛門の屋敷だったのかもしれない。(但し、後の時代、公文は中村にいたらしい)
知谷は八丁山の八丁廃村辺り(知谷とちゃうし津の間にソトバ峠あり)にあり、知井と弓削共有地だったのかもしれない。「知井村史」では、この地を開墾した、もしくはこの地に住んでいた人々がのちに知井と弓削に分かれたとしている。
明治期に、八丁山の境域を弓削村と争った際に、論拠となる最古の文書として「知井公文分土帳事」を書き写したものが提出されており、巻物にされた巻末に「右書物佐々里中務家に預け置くなり。文明七年<1475>八月七日 知井惣中」とある。中務は公文のことであり、佐々里中務家は知井公文 六郎左衛門を継ぐ家で、木地師(六郎=ロクロ)として、上記釜ヶ原の屋敷に住んでいたのかもしれない。
鎌倉期
●史料5-2 文治二年<1186> 吾妻鏡
吾妻鏡 文治二年二月
廿一日己巳。弓削庄兵糧米事。可二停止一之由。為二帥中納言奉一。被レ仰二下北條殿一。召二問沙汰者一。可レ令二言上一之由。今日被レ進二請文一。而無二左右一不レ成二免判一。頗以稱レ可レ有二御不審一。黄門加二斟酌一。蹔不レ奏二御返事一之由云々。
《訳》文治二年二月二十一日己巳。弓削庄の兵糧米の件について、これを停止するようにとの帥中納言の仰せが、北条殿(北条時政)のもとへ伝えられた。沙汰(審理)の担当者を呼び出して尋問し、その結果を報告するようにとの命を受けて、本日、請文が提出された。しかし、何の裁定も下されず、免判も出ない状態である。これでは御不審が生じることが懸念される。そのため、黄門(中納言)は配慮を加え、しばらくは御返事の奏上を差し控えることとしたとのことである。
吾妻鏡 文治二年四月
十三日庚申。北條殿自二京都一參着。京畿沙汰間事。條々有二御問一。亦被レ申二子細一。就レ中。注二謀反葷知行所々一。可レ撿二知其地一之由雖二言上一。不レ被レ聽レ之。次前攝政殿被レ仰家領等難レ被レ付二渡當執柄方一由事。加二澗色詞一被二計申一。次播磨國守護人妨二國領一由事。在廳注景時代官状雖レ被レ下之。未レ申二切是非一。次今南。石負兩庄并弓削杣兵事。度々被レ下二院宣一之間。早可二停止一之由。捧二請文一下向畢。几條々。去月廿四日蒙二傳奏一之由。毎事不レ違二二品御命一云々。
《訳》文治二年四月十三日庚申。北条殿(北条時政)が京都から帰着した。京畿での沙汰の経過について、二品(源頼朝)から種々の問いがあり、また北条殿は詳細を報告した。その中で、謀反人の知行地については、現地を検分すべきであると上申したものの、聞き入れられなかった。次に、前摂政殿(近衛基通)の家領などが現在の執柄方へ引き渡されることが困難であるという件については、言葉を尽くして申し入れた。次に、播磨国の守護人が国領を妨げているという件については、在庁の注進状や代官の状が下されたものの、いまだ是非を決定するまでには至っていない。次に、今南庄・石負両庄ならびに弓削杣の兵事の件については、度々院宣が下されているため、速やかに停止するようにと請文を差し出して向かわせた。以上の諸条については、去る三月二十四日に伝奏を通じて伝えられた通りであり、何事も二品(源頼朝)の御命令に違えることはないとのことであった。
文治二年<1186>条に、「弓削庄」と「弓削杣」の二つの名が見える。
文治元年<1185>、摂津国今南庄と丹波国石負庄に兵粮米が賦課されたが、後白河上皇の要求によって文治二年に停止された。二月条では、弓削庄から徴収していた兵粮米の停止、四月条では、弓削杣の兵事停止が記され、弓削庄ではなく弓削杣とされていることから、材木などが賦課されていたのかもしれない。
●史料5-3 建久二年<1191> 長講堂領目録
長講堂目録
御庄々一年中課役事
弓削庄
元三雑事
御簾六間 御座六枚 大文一 小文五
殿上料京筵畳二枚 侍所垂布一段
節器物
尺支六支 砂五両
三月御八講砂三両
彼岸御布施布四反 二月料
月宛続松千百把 十一月料千把 閏月料百把
廻御菜一日 毎月十二日
御牛三頭用途七石二斗 八月料
門兵士 楊梅面 五月下旬五ヶ日 油小路面 同月下旬五ヶ日
御更衣紫畳二枚 四月料
同料弾碁囲碁局各一具 同月料
移花二十枚
長講堂は後白河法皇が寿永二年<1183>に建立した持仏堂であり、法皇は、建久二年<1191>、四十二ヶ国八十九ヶ所の自己の荘園を長講堂に寄進し、娘の覲子内親王に長講堂ごと譲渡した(法皇は翌年崩御)。これらの所領群は「長講堂領」と呼ばれ、内親王の没後、紆余曲折の末に後深草天皇およびその子孫である持明院統が継承し、内容的には大きな変質を伴いながら室町末期まで皇室の所領群として伝領された。
弓削庄は、建久二年<1191>時点で、長講堂領の庄園であった。
「御庄々一年中課役事」 年貢は含まず別途徴収された。
「元三雑事」 正月元旦~三日間の新年行事に課せられたもの。
「尺支六支 砂五両」 砂は砂金のことであり、金四・五匁を一両(京目)とした。
「月宛続松千百把 十一月料千把 閏月料百把」 続松は松明のこと。
●史料5-4 承久二年<1220> 譲与 處分帳并遺言状事
譲与 處分帳并遺言状事
合
嫡男末時分(略)
次郎僧覚真之分(略)
三郎男友成之分
御稲田吉書名内壱段 左馬寮國末名内内壱段
梅津殿御領田上御庄一名、田数一丁一反内、一段御佃也、
五間二面屋壱宇 庄屋敷半、但大酒寺々敷地也 限西堂東ノ□□□
野々村御庄御問
四郎小童字法師丸之分(略)
嫡女字地蔵前之分(略)
次女字土用前之分(略)
三女字閇前之分(略)
右件田畠并問識者、草部末友先祖相傳也、而重病之間、子息等仁所譲之敢不可有他人之妨、仍為無向後之狼藉、立處分帳書譲置也、但如是雖譲与、三个年之内支配、若子息等中於違背此旨之輩者、敢不可与處分物等之状如件、
承久二年(1220)十一月十三日 草部末友(花押)
(裏書)(略)
大酒寺(大酒神社か)の荘園管理をしていた草部未友が、七人の子供に対して宛てた財産譲与の遺言書であり、三男友成に、「野々村御庄御問」を譲与するとしている。「問」は、荘園領主の依託を受けた問屋、年貢の受け入れ・配送・販売などを行う現在の問屋のようなものであり、「御庄御問」と表記していることから、野々村庄は皇室関連の庄園であったと思われる(後鳥羽院領か)。
野々村庄は、平屋・宮島・大野・鶴ケ岡南部の地域であり、御問はそのどこにあったか分からないが、明治初頭まで静原地区は、「市場」「野々中」と称した二村から成っていたことや、年代は大きく異なるが「大正郡誌」に次の記述があることから、古くから市場周辺が野々村庄の中心地であり、御問もその辺りにあったのかもしれない(全くの空想^^)。
静原の棚野川西の地をもと市場と呼べり。これ往時若狹國高濱方面より輪入せる魚類を此の地にて取引きしたるに由る。その市場趾に高さ三尺五寸圍六尺三寸の巨石ありて夷岩ご稱し、之に注連繩を繞らす。當時は御松が手卽今の巡査部長派出所以北の地に百餘戸の人家市街状をなして櫛比せりといふ。
また、木材の運搬について「大正郡誌」に次の記述がある。こちらも年代は大きく異なるが、明治初期に於ける地形や主要交通路(旧街道と峠越え)、交通手段(筏と人馬中心)ともに劇的な変化はないと思われることから、美山地域から京へはこれと同じような運搬ルートをとっていたのかもしれない(こちらはそこそこ当たりかも^^)。
..(略)明治二十年以前にありては、知井より平屋に至る間のみ木材の筏路僅に開け、隨て知井より流下せる筏は平屋地内の安掛又は長尾にて之を解き、以下は専ら人肩によりて深見峠を越え、弓削に搬出し又は平屋宮島両村の出だす木材ご共に之を宮島地内宮脇小字大丸にて解筏し、海老坂を經て船井郡五ヶ庄村田原小字吉野邊に搬出し、ここより再び筏に組みて大井川を下し、以て上嵯峨に出でしなり。當時は板筏を組むの技も幼椎にして水の浸蝕岩石との衝突とによりて甚だしく損傷し、その品質を低下すること大なりしを以て、之を避けんには勢専ら人肩馬背によりて運送するの困難を忍ばざる可らす。隨て運貸多額に上り地方林業の發達を阻害すること頗る著大なるものありき。(略)
●史料5-5 宝治二年<1248> 葉黄記
三日、晴、早旦又向一乘院、猶仰子細 只同前也、次謁大乗院僧正、騒動事、可有制止之由、傳仰御定之趣、次帰洛、即参御所、奏僧正申状、此次教剋有勒語、法相之碩学一所相伝之地、惣飛行之條、中心無聊、仍予申い女房己給此所了。又難被召返歎、然者定嗣知行之丹波国野々村郷本為庄号、二品知行之時被国領了、以彼所充給女房、以山田庄可返姶良盛之由、申之了。
《訳》三日、晴れ。早朝に再び一乗院へ向かい、なお詳細を仰ぎたいと願い出たが、対応はこれまでと全く同じであった。次いで大乗院僧正に謁見し、騒動について制止すべき旨、御定(朝廷の意向)の趣旨を伝えた。続いて洛中へ帰り、即座に御所へ参上して、僧正からの申状を奏上した。この際、教剋(きょうこく)より厳しい言葉があった。「法相宗の碩学の地であり、一所相伝の土地である。それを惣領が飛行(強引に奪うこと)する条、心中無聊(やるせない思い)である」と。そのため、私が「女房にこの地を与えられた」と申し出たところ、また召し返されることは難しいと嘆かれた。それではということで、定嗣が知行していた丹波国野々村郷が本領の荘園であること、二品の知行であった時に国領となったことについて、彼所(野々村郷)を女房に充てがうこと、そして山田庄を良盛に返還させるべきである旨を申し入れた。
葉室定嗣(後嵯峨上皇の院司別当)の日記である。宝治二年<1248>閏十二月一日に、奈良の両部宗徒(興福寺の僧徒と春日神社の神人)の騒動があり、定嗣が事態収拾のため奈良に遣わされた。
後嵯峨天皇の皇后、西園寺(藤原)姞子が、興福寺の良盛法印が知行していた山田庄(山城国?もしくは河内国?)を取り上げ、一方的に女官の知行にしたことに不満を持ち、興福寺別当の実信が辞任した。定嗣は、三日に自身の知行する「丹波国野々村郷」を女官にあてがい、山田庄を良盛に返すことを提案した。それに対し前の太政大臣 藤原実氏は反対した(その後の状況は不明)。
「もと庄と号す。二品知行の時、国に領され了ぬ。」この部分にある「二品」は、「美山町誌」では源頼朝、「大野区誌」では後鳥羽天皇の子、道助法親王とし、解釈に違いが見られる。
「大野区誌」によれば、「郷」は七世紀末から施行された国郡里制が改められたもので、平安中期頃から国衙の中にさらに「郷」ができ、「庄」が国に預けられると「郷」と称するとしている。ここでの「国」が幕府、皇室いずれを指すのかよく分からないが、上記承久の乱後の状況からすると、「二品」は源頼朝で、「国」は幕府領を指すのかもしれない。いずれにしても1200年代初頭は、皇室(もしくは神社)、寺院、幕府が三つ巴になって土地争いをしていたことは間違いなさそうである。
●史料5-6 徳治二年<1307> 公文僧覚円下知状
弓削庄下村百姓等が申している臨時採用材木は三方等分に配分せらるべきと申すこと、述べていることは細部にわたるが、下村百姓の言う通りなら臨時課役を三方等分にすることは先例もあることだし、度々の下知状でも明らかなことである。智伊村百姓等が申すには臨時課役三方等分の条はもちろんである。そうであるなら智伊村は六分の一が相当となるのでそうすべきである、と。
ここに三方等分の条はお互い納得できた。ただし、採用材木は杣山の在所によるか。従って下村は工人数三六人、智伊村は二〇人、棚野村は杣山がないので工人がないのは当然である。他の公事もこれに准じるべきだと智伊村が申すのは理屈があわない。今後は臨時材木を採用の時は、下村と智伊村は工人の数に従い決めるべきである。次に杣山に切り畑をしていているとの件、智伊村百姓等がそういう事実はないと申しているから、それ以上言うこともないと仰せ下されたようであると下知するように。よってこのように伝える。
徳治二年十月七日 僧覚円
下村政所
僧覚円(長講堂庄園の管理者か)が、弓削庄下村政所に宛てた臨時材木採用の上納割当てについての書状である。内容的には意味不明な部分が多いが、この当時の弓削庄内には、弓削下村、智伊村、棚野村の三村があったこと、棚野村には杣山がなかったこと、弓削庄の政所は弓削下村に置かれていたことが分かる。
上納割当ては三村で三等分するとしながらも、智伊村は六分の一が相当すること(領家と地頭で下地中分のため、三等分した内のさらに半分?)、工人の数は弓削下村三六人、智伊村二〇人で、棚野村には杣山がないため工人がなく、弓削下村と智伊村の割当ては工人の数で決めること等、どう解釈すればよいか困る内容になっている。
「美山町誌」によると、この当時の三村には、弓削は朝日寺、智伊は聞法寺、棚野は極楽寺があり、極楽寺の山号は狩倉山で領主の狩猟場であるため杣山ではなかったことが考えられるとしている。
「美山仏教誌」では、高野(砂木)の地蔵堂屋敷にあった狩倉山極楽寺(真言宗)は、川勝豊前守光照が今宮津向山に築城する際に寺の建物を用材にしたため一小堂宇となり、のちに慶了が狩倉山唯念寺(真宗)を創建したとしている。
南北朝・室町期 【260811】
● 史料5-7 暦応四年<1341> 蔭凉軒日録 【260811】
國師書云。
長講堂領丹波國弓削庄。領家方御年貢事。暦應寺知事妙了等請文進覽之候。申請之間。向後更不可有依違候之由。可令申入給候。恐惶敬白。七月一日 踈石状
坊城殿
《訳》国師の書にこう書かれている。
長講堂領である丹波国弓削庄の、領家方における年貢のことである。暦応寺(天竜寺)の知事である妙了らが差し出した請文を拝見した。申請があったので、今後は一切異議申し立てがあってはならない旨を申し入れていただきたい。恐惶敬白。 七月一日 疎石状 坊城殿へ
暦應寺知事状云。
丹波國弓削庄事。於地頭職者。依武家吹舉。被付暦應寺候上者。不及子細候。至領家職者。依爲長講堂御領。可被折中下地之由。雖下被仰下候上。兩方所務次第。土民等申子細之上。山木採用已下依有其煩。當寺造營之間。為一圓知行所請申也。造畢以後返進之時者。宜令中分當庄候也。其間者不論旱水損否。不依收納之遲速。毎年御年貢參萬匹。
三月中。万匹。
九月中。万匹。
十二月中。万匹。
爲寺家沙汰。無懈怠可令進濟候。若有對捍之義者。子細同前候。縱云住持云知事雖遷替事候。爲本寺開山。被申請之上者。向後更不可有相違之義候。仍請状如件。
暦應四年七月一日
周寂 判
妙了 判
《訳》暦応寺(天竜寺)知事状にこう書かれている。
丹波国弓削庄のことである。地頭職については、武家の推挙によって暦応寺に付けられた上は、異議には及ばない。領家職については、長講堂の御領であるため、中下地(直営地)を取り混ぜるようにと仰せ下されてはいるものの、両方の所務の次第について、土民らが事情を申し立てた上、山木採用以下のいざこざがあるので、当寺の造営の間、一円の知行所として請け申し上げるものである。造営が完了した後に返還する時には、当庄の二分(半分)を分け与えるようにするべきである。その間は、旱魃や水害による損害の有無を問題にせず、また収納の遅速にもよらず、毎年御年貢として三万匹を納める。
三月中。万匹。
九月中。万匹。
十二月中。万匹。
寺家の沙汰として、怠ることなく納入させなければならない。もし対立して逆らう者がいるならば、事情は前と同様である。たとえ住持や知事が交代することがあったとしても、本寺の開山のために申請された以上は、今後は決して相違する事があってはならない。よって請文は件の如し。
暦応四年七月一日
周寂 判
妙了 判
蔭凉軒日録は、室町中期の京都・相国寺鹿苑院内に設置された蔭涼軒で、歴代の軒主が記した公用日記であり、文明十八年<1486>七月十九日条に、暦応四年<1341>七月一日付天竜寺知事請文として記載されている。
弓削庄地頭職が天竜寺に寄進されたときの契約内容は、領家職は長講堂が持ち続け、地頭職分は二分の一ずつとしたが、住民から土地が二分されると伐り出しが煩わしくなるとの訴えあり、天竜寺完成までは弓削庄の全域を地頭側(天竜寺)が全域を支配し、完成後に、天竜寺は半分を返し庄園を中分する、としたもの。
京北の常照皇寺 山國陵に葬られている光厳上皇御代の頃、弓削庄内(知井・棚野)の寺院の僧や名主は、天竜寺方の人物に差し替えられたかもしれない。
● 史料5-8 康永三年<1344> 大秦忠継庵所并山寄進状 【260811】
大秦忠継庵所并山寄進状
(端裏書)「下司殿寄進状正文」
寄進 弓削庄棚野村下司名内孤峯庵々所并山事
合庵所壱所并山壱所者
在所弥源二家上、南堺弥源二家上岸ヲ東西エスクニトラシテ也、
東堺政所地定、
西ノ山ハ弥源二家ノ北ノスミヨリ大松二本ヲ堺テ峯ノ尾定也、
北ハカイク□ノ西ノ□□ノ小迫堺
右庵所者、割分当村下司忠継分領内、妙義監寺御方ェ、為庵所寄進申処也、但彼本意者、且二親為後生菩提、且忠継為現当安穏、永代所奉寄附也、更不可有異変之儀、若万一至子孫中仁、違乱之輩有出来事者、於不孝之仁、不可為忠継子孫、仍永代寄附之上者、師壇(檀)共ニ可有水魚之思、壇(檀)那者以師資之礼致慇懃之忠節、庵主又成少師之儀、可被励祈祷之精誠、相互不可見放申、但為無後代之煩、嫡子秦五男所加判形也、又庵ノ於修理等事者、可加壇(檀)那合力、至于末代、於為忠継子孫仁者、深可存此旨者也、然以此趣、寺家安堵可有御申候、仍寄附之状如件、
大秦忠継(花押)
嫡子秦五清継(花押)
康永三年六月廿日
《訳》弓削庄棚野村の下司名内にある孤峯庵の庵所および山林の寄進に関する事。
合わせると、庵所一箇所ならびに山林一箇所である。
その所在地は、弥源二の家の上手であり、南の境界は弥源二の家の上の崖を東西に区切って定めたものである。
東の境界は政所の地定であり、
西の山は弥源二の家の北の隅より大松二本を境界として峰の尾に定めたものである。
北は「カイク□」の西の「□□」の小迫(山間の狭い土地)を境界とする。
右の庵所については、分割した当村の下司・忠継の領内であり、これを妙義監寺の御方へ、庵所として寄進申す次第である。
ただし、その本意は、一方では両親の後生菩提(死後の極楽往生)のためであり、一方では忠継自身の現世と来世の安穏のためであって、永代にわたって寄進し奉るものである。
さらに異変(違背や変更)の儀があってはならない。
もし万一、子孫の中に命令に背き混乱させる者が現れた場合、そのような不孝者は忠継の子孫と認めてはならない。
よって永代寄附とした上は、師と檀徒は共に水魚の交わりのような親密な間柄であるべきであり、檀徒は師を敬う礼をもって慇懃な忠節を尽くし、庵主は師としての儀礼をわきまえて祈祷の精誠に励み、相互に見放すようなことがあってはならない。
ただし、後代の煩いを無くすため、嫡子の秦五男(五清継)が署名(加判)したものである。
また、庵の修理などの事については、檀徒の協力を加え、末代に至るまで忠継の子孫であるならば、深くこの趣旨を心得るべきである。
しかるべきにより、この旨を寺家へ安堵の申し入れをされるべきである。
よって寄附の状、件のごとし。
大秦忠継(花押)
嫡子秦五清継(花押)
康永三年〈一三四四〉六月二十日
下司とは、武家における庄園管理者の役名。弓削庄棚野村下司大秦忠継(棚野村内の最高管理責任者、知井公文と同様の地位の人か、尊氏によって配置された関東御家人か)は、自分の領内にある妙義監寺の僧に、孤峯庵と裏山を寄進した。
場所は、忠継が取り仕切る政所の西隣辺り、南側は弥源二の家、東は庵の上から西は弥源二の屋敷の西端、二本の大松を境に、まっすぐ北へ山の峯までを孤峯庵付属の山としている。
棚野村は今の鶴ケ岡地区(今宮・鶴ケ岡・盛郷・豊郷・福居)辺り。「究極の田舎 京都美山 鶴ケ岡 第2部 暮らしのてびき編(令和二年 鶴ケ岡振興会編)」によれば、今宮、田土に大秦姓が多いとのこと。「孤峯庵(孤峯寺)」や忠継が勤めた「政所」は、その辺りにあったのかもしれない。
● 史料5-9 文和元年<1352>十一月六日 葛坂合戦 【260811】
中津河小次郎秀家申軍忠事
右、自最初於瀧肩御陣、致警固畢、仍今月四日馳向野々村葛坂、同六日致散々合戦、追払御敵之刻、被疵(弓手肩)訖、此等子細一宮左衛門三郎朝宗存知之上者、賜御証判、為備向後弓箭亀鏡、言上如件、
文和元年十一月廿日
承了、(荻野)朝忠(花押)
《訳》中津河小次郎秀家が軍忠を申し立てたことについて、以下の通りである。
右の件は、初めより滝肩の御陣において警固をつとめ終わり、そして今月四日に野々村・葛坂へ馳せ向かい、同六日に散々に合戦に及び、御敵を追い払った時、手傷(左の肩)を負った次第である。これらの子細については、一宮左衛門三郎朝宗が承知しているところであるので、御証判を賜り、将来の弓矢の鑑(かがみ)とするため、言上するものである。
文和元年<1352>十一月二十日
承了、(荻野)朝忠(花押)
文中の◆番号は関連する同書史料
(今のところ)美山町域で行われた合戦の最古の記録と思われる。「野々村葛坂」は、美山町原の神楽坂峠辺りであり、そこで合戦のあったことが分かる。「瀧肩」の所在地は不明だが、「平成17年3月25日京都市条例第32号」に京北中地町の小字に瀧ノ肩が見える。根拠はないが地理的には野々村に馳せ向かうことができそうな位置関係のため、その辺りに瀧肩の(荻野朝忠の?)御陣があったのかもしれない。
中津河氏は土岐氏の支流で、美濃国中津川出身といわれ、中津河小次郎秀家は、桑田郡勝林寺島(亀岡市河原林町勝林島)を拠点とした。
本書は、荻野朝忠(北朝方、丹波国守護代)配下の中津河小次郎秀家が発した軍忠状(合戦での軍功、部下の負傷、戦死などを上申する文書)であり、観応三年<1352>閏二月に南朝方の千種顕経が丹波に攻め入っている(◆①)ことから、その延長線上にある合戦かもしれない。短い文章だが、この背景には、中央政権と丹波地域の動乱が見えそうである。
観応の擾乱<1350~1352>で足利尊氏と直義兄弟が対立すると、北朝方の各地武士に大きな動揺を与え、丹波の武士たちも巻き込まれることになった。中津河小次郎秀家は、貞和四年<1348>と観応元年<1350>に、足利直義から軍勢催促状(◆②、③)を受けているが、文和二年<1353>荻野朝忠の注申により、足利義詮から感状(◆④)を与えられていることから、どこかの時点で尊氏方についていたものと思われる。
荻野朝忠配下にあった中津河小次郎秀家は、文和元年<1352>五月に保津城攻め、須知城(船井郡)攻め、和久島松崎(天田郡)合戦に参加し、六月は庵我城(天田郡)、南朝方の高山寺攻め、七月には再び保津状攻めを行っている。更に、文和二年<1353>六月、雀部城(天田郡)の警護、七月、多紀郡宮田に在陣、三戸山(船井郡)に布陣するなど、丹波各地で奮闘していたようである。(◆⑤)
美山町域の「野々村葛坂」であったとする合戦の具体的な相手方は、南朝勢かどうかも含めて分からないが、戦いの火種はくすぶり続けていたようである。
ひょっとしたら…同地を治めていた土豪で、史料には登場してこない「下田氏(のちの川勝氏)」が合戦相手だったかも?
時期は四十年ほど下るが、応永五年<1398>棚野の下田将氏が孤峰寺に土地を売り渡した地券がある。十四世紀中頃には既に土地の有力者だったのかもしれない(空想)。「第十一章 伝承と人物 九.川勝光照 史料11-14」参照。
◆関連史料5-9-① 園太暦 観応三年閏二月十五日・十七日・二十日条 【260811】
園太暦は、南北朝期の公卿・洞院公賢の日記である。
観応三年<1352>閏二月十五日、千種顕経によって丹波国守護代荻野朝忠が追い落とされ、同月十七日に住吉より武家方の軍勢が丹波口・江州へ向かい、同月二十日には丹波から千種顕経が入京する。
464【園太暦】観応三年閏二月十五日・十七日・二十日条
宰相中将鬱陶事
十五日、天晴、西斜地震、抑武家宰相中将、鬱陶、是丹波国守護(代)荻野被追落、事々増色、毎事不可従綸旨、起軍之旨風聞、住吉殿又明後日幸八幡、即可被発向軍兵於京都之旨風聞、彼是迷惑、天下騷乱歎而有余事候(歟カ)、但実否不審之事也、及晚彼是云、武家進住吉之使者帰京、和睦之道治定云々、有実者尤神妙之者也、如風聞者、新補地頭職等可為公家御沙汰、本補武家可沙汰之由云々、可尋虚実、
武家勢著到事
十七日、天晴、今朝聞、昨日武家軍勢著到之由有其聞、而今朝道誉下向江州、是称勢多橋可渡之由云々(為進発幸八幡事)、其勢二百騎許歟、此外多勢、在京人無之云々、(後村上天皇)主上已渡御八幡之由有説、無実歟、或云、(一)昨日幸天王寺、明日可幸云々、今乾峯(土曇)和尚被送使者、先日進使者於住吉、大将対面、快然体也、━ 其次京都以外物念、且在京人内降参召了、綸旨所望者有之云々、如然事、予自昔不候事也、彼御 ━ 知音歟、仰其趣了、丹波口・江州等自住吉被向其勢之旨謳歌歟、魔縁 ━ 歟、(可イ)為謹可惶、々々々々、
義詮朝臣出立、其勢充満内野事
廿日、天晴、今朝自早旦世上忿々、義詮朝臣出立、辰刻許先赴東寺辺歟、然間方々討手已襲来之由有其聞、千種(顕経)少納言少将某、日来在丹波、已入京内野充満、楠木勢・和田勢次第攻入之処、宰相中将不 ━ 東寺、於七条大宮辺合戦、細川奧州頭氏一戦之処、舎(従)弟(頼春)被討、即引返指北西(面イ)没落(宰相中将没落東国事)、宰相中将又指東国没落之由有其聞、午刻許有火、是義詮朝臣三条坊門館、御所方軍士放火云々、其辺又一両所有火、其外無殊事、上辺没落軍士横行、多川原上賀茂辺過之、懸長坂路沒落、是奧州手也、其外道誉・土岐等勢、伴宰相中将赴東国、四宮河原(脱アルカ)
《訳》宰相中将の鬱陶しい出来事について
十五日。天気は晴れ。西日の頃に地震があった。そもそも武家の宰相中将(足利義詮)が鬱々としているのは、丹波国守護代である荻野が追い落とされたことによる。状況はますます不穏になり、何事についても朝廷の命令(綸旨)に従うことができず、軍を起こす旨の噂が風聞されている。住吉殿(足利尊氏)がまた明後日、石清水八幡宮へおもむき、京都へ向けて軍兵を発向させる旨が風聞されている。あれこれと迷わされ、天下の騒乱を嘆いて余りあることであるよ(あるいは「あるか」)。ただし、真偽のほどは不審なことである。しかし夕方になって、あれこれと次のように噂された。武家が住吉へ派遣した使者が京へ帰り、和睦の道が治定したということである。もし真実であるならば、もっとも神妙なことである。噂によれば、新補地頭職などは公家の御沙汰とし、本補は武家が沙汰することの由という。その虚実を尋ねるべきである。
武家勢の到着について
十七日。天気は晴れ。今朝聞いたところでは、昨日、武家の軍勢が到着したというその噂がある。そして今朝、佐々木道誉が近江国(江州)へ下向した。これは勢多橋を渡るためであるという噂である(石清水八幡宮へ進発するために関わることである)。その勢いは二百騎ほどであろうか。このほかに大勢がおり、在京している人はいないということである。主上(後村上天皇)すでに八幡へ渡御されたという説があるが、事実ではないのだろうか。あるいは、「(一)昨日天王寺へおもむき、明日おもむくという」ともいう。今、乾峯和尚が使者を遣わされた。先日、住吉に使者を派遣し、大将(尊氏)と対面した様子は快然たるものであった。その次に京都の外は物騒であり、しかも在京している人のうちで降参した者を召し捕った。綸旨の所望がある者がいるということである。もしそのようなことであるなら、自分が昔から見聞きしないことである。あの御方(尊氏)と親しい者なのだろうか。その趣旨をおおせつけられた。丹波口や近江国等へ住吉からその勢が向かったという噂は、まるで歌のように広まっている。魔縁(不吉な縁)なのだろうか。慎んで恐れ慎むべきことである。
義詮の出陣と京中の戦闘
二十日。天気は晴れ。今朝は早朝から世上の人々の心が昂り怒っている。足利義詮朝臣が出立し、辰の刻(午前八時頃)ばかりにまずは東寺のあたりへ赴いたのだろうか。そうこうするうちに、方々から討手がすでに襲来したというその噂があり、千種少納言少将某(顕経)が日頃丹波にいたが、すでに京へ入り内野(洛中)に充満し、楠木勢や和田勢が次第に攻め入ったところ、宰相中将(義詮)は東寺におられず、七条大宮のあたりで合戦となり、細川奥州頭(清氏)が一戦したところ、舎弟(細川頼春)が討たれ、即座に引き返して北西方へ没落した(宰相中将が東国へ没落したこと)。宰相中将がまた東国へ没落したというその噂がある。午の刻(正午)ばかりに火事があった。これは足利義詮朝臣の三条坊門館であり、御所方の軍士が放火したということである。そのあたりにまた一、二ヶ所火事があった。そのほかには格別な事はない。上京のあたりへ没落する軍士が横行し、多くは河原や上賀茂のあたりを通り過ぎ、長坂の路を懸けて没落していった。これは細川奥州の勢いである。そのほか、道誉や土岐等の勢いが、宰相中将に付き添って東国へ赴いた、四宮河原(の文字が脱落しているのだろうか)
◆関連史料5-9-② 足利直義軍勢催促状 【260811】
貞和四年<1348>九月十一日、足利直義、紀伊国凶徒退治のため中津河小次郎秀家へ軍勢催促を行う。紀伊国凶徒は、湯浅党など南朝方勢力を指すものと思われる。
1504【足利直義軍勢催促状】
(貼紙)「紀伊国凶徒タイチノタメニ右兵衛佐殿御大将として御向候時二、秀家蒙仰候間、則罷向了、則此御教書を下預了、是ハ三条殿御教書也」
紀伊国凶徒退治事、就院宣所差遣(足利直冬)左兵衛佐也、早可発向之状如件、
貞和四年九月十一日
(足利直義)(花押)
中津河小次郎殿
(貼紙)紀伊国の凶徒討伐のために、右兵衛佐殿が御大将として出陣なさる際、秀家が(出陣の)おほせを蒙ったので、すぐに参陣し、その際この御教書を下し置かれたものである。これは三条殿の御教書である。
紀伊国の凶徒退治の件について、院宣によって(足利直冬の)左兵衛佐を派遣するものである。速やかに発向すべきものとする。
貞和四年九月十一日
(足利直義)(花押)
中津河小次郎殿
◆関連史料5-9-③ 足利直義軍勢催促状 【260811】
観応元年<1350>十二月三日、足利直義、高師直・師泰誅罰のため中津河小次郎秀家へ軍勢催促を行う。
1505【足利直義軍勢催促状】
師直師泰誅伐事、早可致軍忠状如件、
観応元年十二月三日
(足利直義)(花押)
中津河小次郎殿
◆関連史料5-9-④ 足利義詮感状 【260811】
文和二年<1353>九月五日、足利義詮、中津河小次郎秀家に、丹州での忠節を賞する。
1511【足利義詮感状】
於丹州、致忠節之由、荻野尾張守朝忠所注申也、尤神妙、弥可抽戦功之状如件、
文和二年九月五日
(足利義詮)(花押)
中津河小次郎殿
《訳》丹波国において忠義の働きをしたということについて、荻野尾張守朝忠が書面で報告してきた。実に感心なことであり、今後ますます戦功に励むべきである。以上のような次第である。
◆関連史料5-9-⑤ 中津河小次郎秀家軍忠状 【260811】
観応三年<1352>八月、中津河小次郎秀家、軍功を上申する。同年五月には保津城や須智城を攻め落とし、七月には八田でも戦った。
1507【中津河小次郎秀家軍忠状】
中津河小次郎秀家申丹波国所々致軍忠事
一奉属当御手、今年五月十四日押寄保津御敵城、致合戦、責落彼城畢、
一同月十五日、又属御手、押寄須智之城之刻、彼城則令没落畢、
一同月廿四日、和久嶋松崎御陣之時、同令供奉、六月六日、取上庵我御敵城上真弓岳被構要害之時、同致警固者也、
一同六月廿日、取上高山寺麓犬山之処、御敵自城中打出、責犬山之間、致散々合戦、則追籠高山寺畢、
一同七月十四日、八田御出之時、令供奉之処、御敵又楯籠保津之間、自八田御発向之刻、為後攻於社本西田左近将監之城、八木廣瀬之一族相共数日致警固畢、
一同八月八日、保津城御発向之時、同属御手、焼払彼城、令静謐当所了、
右、条々、於御方軍忠抜群之次第、御存知之上者、早下賜御証判、為備向後亀鏡、言上如件、
観応三年八月 日
承了、(荻野朝忠)(花押)
《訳》中津河小次郎秀家が丹波国各地で軍忠を尽くした件について
一、貴殿(足利尊氏あるいはその軍勢)の軍勢に属し、本年五月十四日に敵の保津城へ押し寄せた際、合戦に及んで同城を攻め落としたこと。
一、同月十五日、また貴殿の軍勢に属して須智城へ押し寄せた際、同城を直ちに陥落させたこと。
一、同月二十四日、和久嶋松崎での陣触れの際、同様に従軍したこと。六月六日、敵の庵我城を攻略し、真弓岳に要害を構えた際、同様に警固(守備)を尽くしたこと。
一、同月二十日、高山寺の麓である犬山を攻略した際、敵が城中から打って出て犬山を攻めてきたので、散々に合戦し、すぐに高山寺へ追い籠めたこと。
一、同月七月十四日、八田へ出陣した際、随行したところ、敵が再び保津城に立て籠もったため、八田から討って出た際、後方支援として社本の西田左近将監の城に対し、八木広瀬の一族と共に数日間、警固を尽くしたこと。
一、同月八月八日、保津城へ向かった際、同様に軍勢に属して同城を焼き払い、当所を静謐(平定)したこと。
右の条々について、貴殿の軍勢における軍忠は抜群であり、そのことは御承知のことと存じます。つきましては、早急に御証判(感状)を下賜くださいますようお願い申し上げます。将来の鑑とするため、以上の通り申し上げます。
観応三年八月 日
承った。(荻野朝忠)〔花押〕
※中世史料については引き続き考察中。考察の済んだものから順次追記、公開する。
今後の考察課題
丹波国とその周辺国に関する古文書の時系列化による動向把握
主な戦乱と美山町域の関係
美山町域における荘園支配の動向
知井地区 公文の役割と事績
大野地区 松平氏の系譜と事績
※今後の考察課題を実践するにあたり、史料の読み解きが長期間に渡りそうなため、考察を終えたものから順次ここに追記、改訂していくこととする。PDF版 『美山考』 第5章 中世 については、ある程度考察が進んだ時点でまとめて追記、改訂する。
