『美山考』第11章 伝承と人物【260131】
南丹市美山町の地域史についての考察
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第11章 伝承と人物
南丹市美山町は大きく分けて、宮島・平屋・知井・鶴ケ岡・大野 の5つの地区から成るが、複数の地区で類似の伝承が残されているなど、いくつかの特徴が見られる。
地域間で水利を争う伝承には今のところ見当たっておらず、美山地域の地形と風土を特徴付けるひとつなのかもしれない。
「京都府北桑田郡誌(以下郡誌)」と「美山町誌(以下町誌)」に掲載されている伝承から、主なものを以下に紹介する。文字権左衛門については、南丹市立文化博物館が令和6年度冬季企画展を開催した際の図録「文字権左衛門と丹波志」(以下図録)を合わせて参考にした。
表11-1 には「美山伝承の旅」の伝承を地区ごとに分類し、郡誌・町誌で紹介されている伝承や行事のうち関連すると思われるものを関連事項欄に記載する。伝承に関連する人物のいくつかについては、下記 1~9項 で紹介する。合わせて参照願いたい。
表11-1 「美山伝承の旅」と関連事項

1. 丹波道主命
崇神天皇が四道将軍の一人として丹波に派遣したのが丹波道主命である。
丹波平定後は野々村に居住し、没後は奈良井山(大野)に宮を建てて祀られ、野々村郷の総氏神にされたとする。
五社明神社(大野 樫原)に丹波道主命が祀られるが起源沿革は不明。道相神社(宮脇)の由緒に結びつける説話も残るが確証はない。
奈良井山については所有主が転々として度々係争し、明治30年、北桑田郡宮島村大字和泉上司小字奈良井山の山林について、大野、和泉、上司で調停したとされる。
「日本書紀」垂仁天皇 5年条によると、丹波道主命は、開化天皇の孫(彦坐王の子?)とされ、同15年条では、道主の娘 5人の内、日葉酢媛命(ひばす)が垂仁天皇の皇后に、渟葉田瓊入媛(ぬはたにいり)、眞砥野媛(まとの)、薊瓊入媛(あざみにいり)が妃になり、竹野媛は本国に帰した(途中自死)とする。更に日葉酢媛命の生んだ 5人の子の長子が次代景行天皇になったとしている。
尚、「古事記」では、丹波比古多多須美知能宇斯王(丹波道主命)の娘は 、比婆須比賣命、弟比賣命、歌凝比賣命(うたごり)、圓野比賣命(まとの)の 4人とし、歌凝比賣命と圓野比賣命(途中自死)は本国に帰したとするなど、記紀で内容が異なっている。
2. 木梨軽皇子
允恭天皇の皇太子とされる。允恭天皇は仁徳天皇の子で、倭の五王の済にあたり、没年は 453年とされる。
軽皇子は、「日本書紀」では穴穂皇子(後の安康天皇)に追われ自殺、「古事記」では伊予に流されたとしている。
当地伝承では、都から逃れた軽皇子は、知井の河内谷(御所ヶ谷)で10余年潜居した後、平屋の大内に住み(紫磨城)、土地を開墾(軽野)、野々村郷三十三ヶ村を六番(「第4章 沿革」参照)に分けて治め、軽野神社を創建、その後、板橋に永住し、神楽坂、海老坂を開いたとする。
軽皇子没後、郷民は軽野神社を道相神社(宮脇)として合祀したとされている。
3. 慶能法師
菅原道真の弟、頼房とされるが、同家系図に頼房と慶能の名はなく実在が疑われる。
慶能は、菅原道真が大宰府に左遷(900年)された翌年、比叡山を追われ大野村に滞在、還俗して野々村頼房と称した。
6人の子を儲け、野々村、公文、下司(げす)、大沢、菅生、武内の姓を与え、三十三ヶ村を六番(「第4章 沿革」参照)に分け治めさせたとする。
また、行福時(川谷)の前身、長福寺には、928年に慶能の法要のために建立されたとする伝承があり、大野には 949年に没したとする 慶能塚 がある。

三埜の菅原神社には、慶能が当地小庵に住んだという伝承をもつ。
川谷の菅生家は慶能の子孫と称し、上庵は、大野野々村家の宅内に天満天神を祀り、毎年八朔の日に神事、下庵は、もと尼寺で大野野々村別家に秘伝録を保存したとする。
上記とは別に、木梨軽皇子の五世孫とする野々村左近の娘を娶り 6子を得て分領させた伝承や、菅原道真の怨霊を恐れた天皇が慶能に野々村三十三ヶ村を与え、彼の死後、同村を六番に分け 5つを 5子に、残り1つ(丸岡番)を後室に配分したとする伝承もある。
どの伝承も野々村三十三ヶ村を六番に分けたとする内容は共通している。
4. 香賀三郎(甲賀三郎)
郡誌によれば、鶴ケ岡と知井に類似の伝承①②が各々残るとしている。
「知井村史」では、佐々里にも類似伝承③があり、元文5(1740)年3月、園部藩の要請に応じて戸田半兵衛源長義が提出した報告書の写しを佐々里区文書としてを紹介し、佐々里で休んだ甲賀三郎が諏訪大明神の生まれ変わりであり、佐々里八幡宮に合祀したとしている。ただ、佐々里八幡宮の境内には、「大鹿退治伝説の里」と題した知井伝承②とほぼ同内容の案内板が掲示されており、同宮の縁起については未詳である。
いずれにしても、各伝承内容には若干の差異が見られるものの、鶴ケ岡と知井の土地開発が同背景をもつことを示唆しているのかもしれない。
1)鶴ケ岡
文武天皇の御代(700年頃)大和国に香野太郎、次郎、三郎の兄弟がいた。鹿を追い丹波の深山に入ったが互いに見失ってしまい、三郎は棚野村(砂木)、太郎は弓削村、次郎は知井村に出て住んだ。
三郎は佐々木高綱の娘を娶り、氏を満野に改め、後裔は8家に分かれ、次郎の子孫と合わせて、満野十八姓 となった。
朝廷は萬野三郎に丹波の八岐頭巨鹿を退治するよう命じた。大弓を削り(弓削村)坂道を進むと16本角の大鹿が飛びかかってきた。矢を射て大鎌で斬り殺すと血が流れ溜まった(知井村)。砂木に定住し狩猟を生業として狩具庫を設けた(狩蔵山の地蔵堂)。
2)知井
※佐々里八幡宮の境内には、これとほぼ同内容の案内板が掲げられている。
元明天皇の御代(和銅6年、713年)天皇は、禁裏に妖怪が出没し近国の農民も大きな被害を受けるようになったため、香賀三郎兼家に丹波国北部の深山にいる八頭一身の巨鹿を退治するよう命じた。
兼家が矢を作り弓を削り(弓削村矢谷)、山に入り迷っていると二人の童子が現れ八丁山に導いた。狩衣を脱ぎ甲冑を着け(衣懸山)、佐々里川の上流朽柳谷に入ると、八頭の大鹿が岩窟内より躍り出た。矢を射ると流血が岩を染め(赤石ヶ谷)、岩の上で斬り殺した(俎岩)。岩は後に洪水で流され芦生の空戸にある(俎板淵)。甲冑を脱ぎ狩衣に着替え(鎧岩)、佐々里に八幡大明神を祀った。
郡誌では、これを現在の知井八幡神社としているが、「知井村史」では、もとは南村の上宮山にあったとし、前身が佐々里にあったかどうかは未詳のようである。
八頭巨鹿退治のあと、従兵が当地に留まって永住して 知井村十苗 となり、十苗(林、勝山、高野、大牧、中田、東、長野、名古、中野、津本)が、十社(10ヶ所の氏神社)を祀り、知井地域のとりまとめを行ったとする。
3)佐々里(佐々里区文書の要約)
当八幡宮がいつから始まったのか分からないが、天皇の后の不快が良くならないので占ったところ、北丹波山にいる八股角の鹿の生肝を食べれば本復するとのことで、甲賀三郎兼家が狩人を連れて山国から小塩、広河原に入り、狩衣を枝に掛けて休んだ峠が衣掛峠、栃柳谷で矢を放って血に染まった石の谷を赤岩谷、追い下った谷をおわ谷、川端で矢をためた石をため石、熊原で大鹿が大石の上を通った跡が雪をあおったようになったのであおり石、射止めた時の馬が転んだところの石をころび石、鹿を料理した石をまな板石と言ったが、先頃の洪水で出合の下まで流れてしまったのでまな板の淵、鹿の肉を煎った淵を釜原と言い、そこから下り佐々里村の当社の前で休んだとのこと。甲賀兼家は信州諏訪大明神の生まれ変わりとのことなので諏訪大明神を八幡宮、牛頭天皇と共に勧請したと伝えられているが、いつのことか記録がない。
5. 蓮如上人
「瀧見山光瑞寺誌」に、本願寺八世蓮如上人が記した「丹波つたひの御文」(新潟市 真宗寺の宝物とされる)等が紹介されており、上人が 1475年に、越前吉崎御坊より小浜を経て那田之庄小倉畑に逗留後、八ヶ峰知坂を越え知井庄に出て、南村に寄宿した当時の様子をうかがい知ることができる。
下記 4つの寺に、上人に関わる伝承が残るとする。
・光瑞寺(内久保)
蓮如が前身の草庵に滞在した。庵主の原田重兵衛が帰依し剃髪、了照と名乗り、草庵を光瑞寺と改めた。毎年串柿を本願寺に贈るのが慣例となっていた。
・福正寺(南)
蓮如が当地を訪れた時、真言宗から真宗に改宗した。境内に蓮如手植えの柿の木があり、毎年吊るし柿300個を本願寺に贈るのが慣例となっていた。
・最勝寺(佐々里)
蓮如が当地に来た時、南村の村民が祐善と改名して再興し、真言宗から真宗に改めた。
・最尊寺(棚)
棚の中江六右衛門が、大内 光瑞寺に寄留中の蓮如に帰依し、法名教順をもらい随行した。1506年に帰村し、相白山に寺を建立したのが始まりで、1642年に現在地に移建、1759年に再建したという。
6. 大久保権太郎
秀吉の太閤検地のとき、田の地積をめぐって代官市田千十郎と騒動があり、村人四名と共に投獄された。妙林禅尼が石川伊賀守に哀訴し、4人は放免された。その時の田が 喧嘩田 として大野地区に残る。
7. 濱源吾
松平石見守兵部(禄高8500石)は、応永31(1424)年法皇殿炎上の際の功績により、近江国高島郡の内5000石を加増された。永享2(1430)年、岩江戸の風呂ヶ谷に松山城を築城、文明2(1470)年病死した。
長子土佐守が城主となり、天文10(1541)年、斉藤道光に仕え新たに美濃国の地を拝領、天正3(1575)年、甲斐武田氏と織田信忠の軍と信州桔梗ヶ原で戦った際、土佐守は重傷を負い、家臣瀧田新八が松山城の留守居役 濱源吾 に注進した。
天正5(1577)年 、村民等が 松山城 を攻め、留守居役の濱源吾は鎮定できず幼君と自刃し落城、松平家は離散。源吾等の屍は、岩江戸に葬られ、それが 源吾塚 と伝えられる。
岩江戸妙見山の西側、小山元に 経堂 を建て、大般若経600巻(松平家の領地高島郡の領民が米の代わりに納めたもの)を納めた。これが岩江戸の行事「大般若経の虫干し」に通じるものと思われる。
8. 文字権左衛門
文字氏の由来について、郡誌では文字可三氏所蔵の家系三巻の序を参照し、
長享元(1487)年丁未九月入道道金が記した序文の概要によれば、天兒屋根命(あめのこやね)の孫、天種古 命(あめのたねこ)の末裔、黒逸(くろはや、中臣?)は、崇神天皇が四道将軍を遣わした時、丹波道主命の部 下に属し、大野村地方に来て、この地の支配を命ぜられ役所をおいた。黒逸から25世孫、孫四郎左衛門尉定 世まで氏を文司と呼んだが、庄主の意により文字とした。定世20世の孫四郎兵衛定儀は、阿部彌六長定(清和 天皇の後裔源遠光七世の孫)の娘を娶り定種を生み、定種は文字家と阿部家を継ぎ源を氏とした
としているが、「文字権左衛門と丹波志」(以下 図録)では、文字権左衛門家の由来書で、
第七代孝霊天皇の頃、中国から儒教の経典をもたらした人物の従者として来日し、そのまま日本に残り文字姓を 称したのが初代
としており、文字氏の発祥について差異が見られる。
「大野区誌」によると、文司黒逸(くろはや)一族の居住地とされる地名が、大野地区に 文字畾地 として残るとする。(2025年3月13日現地を訪れると、由良川に文字畾地橋が架かっていた。)

この項でとりあげる文字権左衛門は、町誌で、
岩江戸村権左衛門、文字氏、幼名宗七、元禄8(1695)年に大野村から岩江戸村に「入り百姓」した兄弟、四郎 兵衛と権左衛門のうち、弟の権左衛門の息子で、岩江戸村権左衛門家の二代目
とし、図録で表記している文字権左衛門もこの人物であると思われる。
丹波国の地誌「丹波志」の編纂が、篠山藩 永戸貞著と福知山藩 古川茂正を発起人にして始められたが、文字権左衛門もその編纂に関わり、明和7(1770)~安永7(1778)年にかけて桑田・船井・何鹿郡の地域を踏査し、詳細な調査状況を記した書状を永戸貞著とやりとりしている。
永戸貞著と古川茂正の死去により編纂は頓挫したが、寛政6(1794)年、古川の子である正路が遺稿を編集し、天田・氷上・多紀郡の地誌を「丹波志」としてまとめた。ただ、桑田・船井・何鹿郡についての詳述はなく、文字権左衛門の調査結果は反映されていない。
文字権左衛門は「丹波国六郡分記」を残している。何鹿・桑田・船井郡北部は多く記述されているが、それ以外の記述は少なく、自身が詳しく調査した地域が関係するとされている。
また、文字権左衛門が開いたとされる七妙山妙見宮が美山町三埜に残る。上項の大般若経を納めていた経堂は同宮にあたる。建物の老朽化により、文字権左衛門が奉納した鰐口や一紙一字京などは蓮乗寺で保存されているとのこと。
文字権左衛門は、天明8(1778)年7月29日死去、72歳だった。
参考までに、二代目権左衛門家が代々引き継いできた古文書や絵図は南丹市に寄贈され、南丹市立文化博物館の令和6年度冬季企画展「文字権左衛門と丹波志」では、その多数が展示されていた。
文字権左衛門が永戸貞著から受け取った書状の展示もあり、詳細な解読と活字化はまだされていないとのことだったが、「町誌下巻 第2編 美山の近世 第5章 権左衛門の丹波志」に書状の内容や、文字権左衛門の調査行動の様子が紹介されている。
図録から美山町に関連する古文書と絵図のいくつかを抜粋し次に列記する。
・民右衛門書状:1774年(江和村庄屋右衛門書、権左衛門宛)
・覚:1772~1781年(小渕村庄屋伊右衛門他書、権左衛門宛)
・高野番名所覚:1774年(砂木村の治左衛門書)
・丹波国絵図:1777年(丹波国全体の絵図、1702年元禄国絵図丹波国を見ていた?)
・野々村・棚野・知井全図:1772~1789年(美山町全域)
・野々村・中村・中山近在土地図:1772~1789年(九鬼ヶ坂付近に「はたのひてはる屋敷」)
・宮脇・又林・板橋・原村図:1772~1789年(宮脇~神楽坂トンネル辺り)
・栢野村・棚田村山論図:1772~1789年(萱野、長谷の山論)
・知井北村高倉御所跡:1772~1789年(高倉宮(以仁王)の居住地跡?1180年落人伝説?)
9. 川勝光照【260131改訂】
1560年前後に桑田郡の今宮城を拠点とし、桑田郡北部、船岡郡の一部、若狭国の一部を治めた国人(土豪)である。同氏族は、足利氏に仕えた後、明智光秀、織田信長、豊臣秀吉に従属、関ヶ原の戦い以降は徳川家康に仕え、一族は旗本として江戸に移ったとされる。
川勝氏の系譜に関係する資料として、旧家(川勝家、文字家、壁瀬家)に伝わる古文書や、江戸幕府が編纂した「寛永諸家系図伝」、「(改選)諸家系譜」、「寛政重脩諸家譜寛政重修」などがあり、さらに川勝氏の祖とされる秦氏の系譜については「新撰姓氏録」や「広隆寺縁起」などに見られる。
「別表C 秦・川勝氏系図」は、それらの資料を参考にして一連の系図として表わしたものである。各資料に記載されている系譜の真偽と相互の関係を個々に検証し、全てをマージしてひとつの系図で表現することは困難なため、一部を除き読み取った内容をほぼそのままの形で表記した。
別表C を俯瞰すると、秦始皇を川勝氏の祖とする秦氏系譜、それに続く秦・川勝氏系譜、丹波国桑田郡棚野村の下田氏を祖とする下田・川勝氏系譜の三つに大別できそうである。それらの系譜が美山町域の川勝氏とどこまで関係する(しない)か分からないが、この三つの系譜について概観する。
1)秦氏系譜
別表C の秦氏系譜部分は、「(改選)諸家系譜」「広隆寺由来記」「新撰姓氏録」から読み取った系図である。同一人物と思われるものがいくつか含まれるが、重複部分をマージしてひとつの系図として表現することは難しいため併記した。
江戸幕府が寛政年間(1789~1801年)に編纂した大名や旗本の家系集である「寛政重修諸家譜」には、秦氏川勝を解説する冒頭部分に 史料11-1 の記述があり要点は次の通り。秦氏と川勝氏の系図のつながりに不明瞭な部分があるため、「美作守某」から系図を起こすとしている。
・「寛永系図」によれば、秦の始皇の後裔である功満王が、仲哀天皇8年に日本に来た。
・その子、融通王は「秦の弓月」と呼ばれ、応神天皇14年に民を率いて帰化し、金銀や玉などを献上した。
・仁徳天皇代に「秦氏」の氏を賜り、秦公と号した。(或いは、波多氏を賜った。)
・雄略天皇御代に、秦公酒が禹都萬佐(うづまさ)の名を授けられた。
・川勝の冠位は小徳および大花上であり、秦造と称した。これにより子孫は「秦」を名乗り、「河勝」を家号とした。
・「寛永系図」には「河勝は秦始皇から15代目の広隆の後裔である」とあり、「広隆から美作守某までの間は系譜が中絶」と記されている。
・幕府に提出された系図では、「広隆は河勝の別名であり、勅命によって広隆と称した」とあり、河勝は始皇から23代目に当たるとしている。
寬永系図に、秦始皇の後胤功満王(①姓氏録に秦始皇三世孝武王の後なりといふ)仲哀天皇八年に初めて本朝にわたる。其子融通王を秦の弓月といふ。應神天皇十四年に百姓を率て歸化し、金銀玉品等をたてまつる。仁德天皇の御宇に秦氏をたまはりて秦公と號す。(①姓氏録に秦氏富を喰ひ、絹を織てこれを貢す。天皇詔して秦王献ずるとするところの絲絹、朕服用するに、柔軟にして肌膚を温煖にすとて、波多氏を賜ふといふ)雄略天皇の御宇に禹都萬佐(うづまさ)となつけたまふ。(①姓氏録に、秦公酒がとき絲絹帛を委積して岳のごとし。天皇これをよろこび、禹都萬佐となづけ給ふといふ。)そののち川勝がとき小德位大花上に至りて秦の造と稱す。よりて子孫秦を稱し、また河勝を家號とす。按ずるに寬永系圖、②秦始皇より十五代廣隆が後胤なり、②廣隆より美作守某まで其間中絶すといふ。今の呈譜を按ずるに、②廣隆は川勝が別名にて、勅諚により廣隆と稱すといひ、その系圖も川勝は始皇より二十三代に當る。いまだいづれか是なることをしらず。またこれより以下美作守廣氏まで三十二代系図連綿すといへども、寬永譜已に中絶すといふときはうたがひなきにあらず。はた後世得るところあるもしるべからずといへども、一證を得ざるがゆへにふろきにしたがひ、美作守某より系をおこす。
史料11-1 の ①部分に該当する「新撰姓氏録」の一部を抽出し 史料11-2 に示す。秦氏が仲哀天皇代と応神天皇代に民を率いて来朝したこと、仁徳天皇代に絹を献納し「波多(はた)」の姓を得たこと、雄略天皇代に秦公酒が「禹都万佐(うづまさ)」の称号を得たとすることが記されている。
太秦公宿祢。秦始皇帝の三世孫、孝武王より出づ、男、功満王、帯仲彦天皇(諡は仲哀)の八年に来朝く。男、融通王(一は弓王と伝ふ)、誉田天皇(諡は応神)十四年に、廿七県の百姓を来け率いて帰化り、金、銀、玉、帛等の物を献りき。大鷦鷯天皇(諡は仁徳)の御世に、百廿七県の秦氏を以って、諸郡に分ち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢ら使めたまひき。天皇、詔して曰はく、姓を波多と賜ひき。次に登呂志公。秦公酒、大泊瀬幼武天皇(諡は雄略)の御世に、糸、綿、絹帛を委積みて岳如せり。天皇、嘉でたまひ、号を賜ひて禹都万佐と曰ふ。
参考までに、史料11-2 に関連する史料をいくつか紹介しておく。
「日本三代実録」では、功満王は秦始皇の十一世(三世孫、孝武王の後胤ではなく)とし、仲哀天皇四年(八年ではなく)に帰化したこと、珍しい宝や蚕を献上したとしたことを記している。
左京人從五位下行采女正賜朝臣姓。春風自言。先祖出自秦始皇十一世孫功満王也。帯仲彦天皇四年、帰化入朝、奉献珍宝蚕種等。
「日本書紀」応神天皇十四年条では、弓月君(融通王)が百済から渡来し帰化したこと、雄略天皇十五年条には、秦酒公が絹織物などを献上し、「禹豆麻佐(うづまさ)」の姓を賜ったことが記述されている。「うづまさ」の語源については諸説あるようだが、族長を意味する語らしい。
尚、「新撰姓氏録」で仁徳天皇が「波多」の姓を与えたとする部分については、「日本書紀」仁徳天皇代に同様の記述はなく、「波多」が「秦」と同じものを指すのか確認できていない。
百濟王貢縫衣工女、曰眞毛津、是今來目衣縫之始祖也。是歲、弓月君自百濟來歸、因以奏之曰「臣、領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒、皆留加羅國。」爰遣葛城襲津彥而召弓月之人夫於加羅。然、經三年而襲津彥不來焉。
【訳】百済王が衣を縫工女を貢上した。名を真毛津という。これが今の来目衣縫の始祖である。この年、弓月君が百済から来て帰化し、天皇に次のように奏上した。「私は自分の国の百二十県の人民を引き連れて帰化しようとした。しかし、新羅人が拒み妨害したため、人民はみな加羅国に留まっている。」そこで、葛城襲津彦を派遣し、加羅に留まっている弓月君の人民を召し出すこととした。しかし、それから三年経っても、襲津彦は帰って来なかった。
秦民、分散臣連等、各隨欲駈使、勿委秦造。由是秦造酒、甚以爲憂而仕於天皇。天皇愛寵之、詔聚秦民、賜於秦酒公。公、仍領率百八十種勝、奉獻庸調絹縑、充積朝庭、因賜姓曰禹豆麻佐。一云「禹豆母利麻佐」皆盈積之貌也。
【訳】秦の民が諸々の臣や連たちに分散し、それぞれの豪族たちが思うままに駆使しており、秦造には任されていなかった。このため、秦造酒(秦酒公)は、この状況をひどく憂いて天皇に仕えた。天皇は酒公を深く寵愛し、各地に分散していた秦の民を呼び集めて、すべて秦酒公に賜った。酒公は、これによって百八十種もの「勝(すぐり:職能集団)」を率いることとなり、庸や調として絹や縑(かため:上質な絹織物)を奉献した。それらは朝廷にうず高く積み上げられた。これにより、天皇から「禹豆麻佐(うづまさ)」という姓を賜った。一説には「禹豆母利麻佐(うづもりまさ)」ともいう。これらは皆、品物が積み上がり、溢れんばかりに満ちている様子を表した言葉である。
史料11-1 の ②部分に関連すると思われる「広隆寺来由起」では、秦河勝が広隆寺の建立に携わった説話と川勝氏の系譜が述べられている。その中から次の三点(史料11-3~11-5)を紹介する。
史料11-3 では、広隆寺の名称の由来と秦始皇帝から十五代川勝秦公に至るまでの系譜、応神・仁徳天皇代に秦氏が蚕を飼い絹の生産に携わったことが記されている。後者は桑田郡の地名由来にも結びつきそうである。
廣隆寺。廣隆者。秦川勝實名也。川勝奉命創建當寺。有功動故以實名為寺號。
秦氏系圖 秦始皇帝 - 故(胡カ)亥皇帝 - 孝武皇帝 - 竺區宋孫王 - 法成王 - 功滿王(始来朝)- 融通王 - 普洞王 - 酒秦公 - 意美秦公 - 忍秦公 - 丹照秦公 - 河秦公 - 國滕秦公 - 川勝秦公
自秦始皇帝至小德位太花上秦造川勝廣隆卿已上十五代也。仲哀天皇四年乙亥(丁後漢南帝與平二年)。秦始皇帝第六世功滿王。初來日域儲置融通王然後歸漢土也。時融通王分置秦孫於諸國始令養蠶織絹也。應神天皇十四年癸卯扶桑始有絹綿事業。仁德詔日。秦王(普洞王)所献綿絹綾之類。始觸朕膚柔軟溫煖。自今以後。呼卿姓曰波多(秦者膚也)今秦字訓波陀。
【訳】広隆寺。 広隆とは秦川勝の実名である。川勝は(聖徳太子の)命を奉じてこの寺を創建した。その功績により彼の名を寺号とした。
秦氏系図:秦始皇帝 - 故(胡)亥皇帝 - 孝武皇帝 - 竺区宋孫王 - 法成王 - 功満王(初めて来朝す)- 融通王 - 普洞王 - 酒秦公 - 意美秦公 - 忍秦公 - 丹照秦公 - 河秦公 - 国滕秦公 - 川勝秦公
秦の始皇帝より、小徳大花上の位にあった秦造川勝広隆卿に至るまでの十五代である。仲哀天皇四年(乙亥)、始皇帝の六世の孫である功満王が初めて日本に来た。融通王を日本に留め置き、その後、自身は漢の地へ帰った。この時、融通王は秦氏の子孫を諸国に分散して配置し初めて養蚕をさせ絹を織らせた。
応神天皇十四年(癸卯)、絹綿の事業が始まった。仁徳天皇は次の詔をした。「秦王(普洞王)が献上した綿、絹、綾の類は、初めて私の肌に触れたが、大変柔らかく温かいものである。今後は、卿の姓を「ハタ(波多)」と呼ぶことにせよ(「秦」とは「肌」のことである)」。 現在「秦」という字を「ハタ(波陀)」と訓ずるのは、このためである。
史料11-4 では、「日本書紀」推古天皇十一年条をもとにして、603年に秦造河勝が推古天皇より仏像を受け取り蜂岡寺(後の広隆寺)を造営、その後 605年には、聖徳太子のために広隆寺を建立したとしている。
謹撿日本書紀云。推古天皇十一年冬十一月己亥朔。皇太子上宮王謂諸大夫曰。我有尊佛像。誰得此像。將以恭敬。時秦造河勝進曰。臣拜之。便受佛像。因以造峯岡寺者。謹撿案内。十一年冬。受佛像。小墾田宮(宮下恐脱治字)天下御宇。推古天皇卽位壬午(十三年)之歲。奉為聖德太子。大花上秦造河勝。所建立廣隆寺者。但本舊寺家地。〔以下省略〕
【訳】謹んで『日本書紀』を調べたところ、次のように記されている。 推古天皇十一年(603年)冬十一月一日のことである。皇太子である上宮王(聖徳太子)が諸大夫たちに向かって、「私は尊い仏像を持っている。誰かこの像を譲り受け、恭しく敬い祀る者はいないか」と言った。その時、秦造河勝が進み出て、「私が拝受いたします」と答え仏像を授かった。こうして造営されたのが、蜂岡寺(後の広隆寺)である。また、案内の記録を謹んで調べると、 (推古天皇)十一年冬に仏像を拝受し、小墾田宮にて天下を治められた推古天皇の即位から十三年目にあたる壬午の年、聖徳太子のために大花上の位にあった秦造河勝が建立したのが、この広隆寺である。
史料11-5 では、「日本書紀」推古天皇十一年条、同二十四年条をもとにして、広隆寺の仏像をめぐる推古天皇・聖徳太子と秦川勝の説話を載せている。
推古天皇十一年癸亥自百濟國獻之聖德太子。太子於小墾田宮賜之秦川滕。此像靈驗不可思議。恭敬尊崇人無不成願也。日本紀曰。推古天皇十一年癸亥皇太子謂諸大夫。我有尊佛像。誰得是像以恭拜。時秦造川滕進曰。臣拜之。便受佛像。因以造蜂岡寺。金銅救世觀音像。坐像高二尺二寸。辟如意輸也。
推古天皇二十四年丙子秋七月。自新羅國王遣使奉獻。此像放光。時々有怪。太子命秦川滕造曰。佛有靈輙不可垢宜安置清淨堂。不得恣拜。俗之癡人。若有觸犯。彼必被禍。護法之神。毘娑門王。不應為善。詳千聖德太子傳曆。川勝奉命。安置蜂岡寺。垂錦帳致尊崇。自爾以後爲敬佛之良範。垂錦繡帳。蓋始此矣。
【訳】推古天皇十一年(癸亥)百済国より聖徳太子へ(仏像が)献上された。太子は小墾田宮において、これを秦川勝に授けた。この像の霊験は筆舌に尽くしがたく、恭しく敬い尊ぶ人で、願いが叶わぬ者はなかった。『日本書紀』には次のように記されている。推古天皇十一年(癸亥)、皇太子(聖徳太子)が諸大夫たちに語った。「私は尊い仏像を持っている。誰かこの像を譲り受けて、恭しく拝む者はいないか」と。その時、秦造川勝が進み出て「私が拝受いたしましょう」と言い、仏像を授かった。これによって蜂岡寺を造営した。 金銅救世観音像であり、高さ二尺二寸の坐像である。如意輪観音の姿に似ている。
推古天皇二十四年(丙子)秋七月、新羅の国王より使者が遣わされ、(仏像が)奉献された。この像は光を放ち、時折不思議な現象が起こった。太子は秦川勝に命じて次のように言った。「仏に霊験があるときは、決して汚してはならず、清浄な堂に安置すべきである。勝手気ままに拝んではならない。世の愚かな者が、もし(不敬に)触れ犯すようなことがあれば、その者は必ず災いを被るであろう。護法の神である毘沙門天王も、それを良しとはしないはずだ」 (この詳細は『聖徳太子伝暦』に詳しく記されている。) 川勝は命を奉じ、蜂岡寺に(仏像を)安置した。錦の帳(とばり)を垂らして尊崇の誠を尽くした。これ以降、仏を敬う際の良い手本となった。錦の刺繍を施した帳を垂らす習慣は、蓋しここから始まったのである。
ちなみに、秦氏系譜中に、日本各地に渡来伝承が残る「徐福」の名も見え、「(改選)諸家家系譜」の筆者は、史料11-6 で徐福を融通王(弓月王)の系譜に結びつけることを疑問視している一方で、普皆洞王の注記(史料11-7)では、徐福の子孫が秦氏を称したとしている。徐福と秦氏の関係については未詳である。
日本紀応神十四年癸卯弓月王自百済来自帰徐福之渡海至弓月王十二代年及五百年云予考新撰姓氏録㓛満玉者秦始皇三世孝武之子云云疑徐福之後書者誤歟
【訳】日本紀応神十四年癸卯、弓月王百済自り来りて帰す。徐福の海を渡りてより弓月王に至るまで十二代、年は五百年に及ぶと云ふ。 予、新撰姓氏録を考ふるに、功満王は秦の始皇三世孝武の子なりと云々、 疑ふらくは徐福の後と書くは誤か。
仁徳天皇御世賜姓曰波陀今秦字訓秦徐福来其子孫皆称秦氏
【訳】仁徳天皇の御世、姓を賜いて波陀と曰ふ。今、秦の字、秦を訓ず。徐福来たり、その子孫皆秦氏と称す。
「(改選)諸家家系譜」と「広隆寺由来記」を軸に、秦始皇帝から始まる系譜に関連する史料をいくつか見てきたが、前者は広隆、後者は川勝秦公を川勝氏の始りとしているようである。更にそれとは別に、3)下田・川勝氏系譜 に記すように、桑田郡棚野村に居住していた下田氏が、足利将軍から「川勝」の姓を賜ったとする史料も見られる。
2)秦・川勝氏系譜
「(改選)諸家系譜」には、宗隆から、「寛政重修諸家譜」が川勝氏系図の起点にしている「美作守」(広親)に至るまでの川勝氏二十代が記されており、秦氏から川勝氏へのつながりを示す系図になっている。重躬に「北面侍」、広恒に「豊後守、正慶二(1333)年山城国の庄園において尊氏公に属し武官」の注記があるのみで、本系図を補完する別称や事績については、今のところこれ以外に見当たらない。
3)下田・川勝氏系譜
「寛政重修諸家譜」をメインにして、「寛永諸家系図伝」と「(改選)諸家系譜」の系図からの相違点を追記した。
主な相違点として次の三つがあり、どれが正しいか(正しくないか)判断できないため、それぞれの系図を併記した。
広明:「寛政重修諸家譜」見えず、「(改選)諸家系譜」広綱の子、「寛永諸家系図伝」広尚の子
知氏:「寛政重修諸家譜」光照の子、「(改選)諸家系譜」継氏の子(或いは光照の子某a)、「寛永諸家系図伝」光照の子
重氏:「寛政重修諸家譜」継氏の子、知氏の子(広知)、「寛永諸家系図伝」知氏の子
別称・事績等については、「寛政重修諸家譜」「(改選)諸家系譜」「寛永諸家系図伝」「丹波第10号 丹波川勝氏関連資料」「丹波第11号 丹波川勝氏の中世城郭」を参考にした。
本系譜の先頭に記されている広親、光照父子は、元々は下田姓を名乗っていたようである。
史料11-8~11-12 は、1796年に 6歳で家督相続した川勝広業が、江戸幕府の記録御用所に提出したとされる光照宛の書状である。
史料11-8 の 1534年時点で彦治郎(光照)は下田姓。細川晴元政権の中枢を担っていた茨木長隆から、丹波国船井郡胡麻の宇野が知行していた下司職、野々口など御料所の代官職を任じる書状が発給されている。
1546年には、史料11-9 で、茨木長隆から下田左京亮(光照)に、桑田郡山国庄(禁裏御料所)の代官職を任じられ、史料11-10 では、新たな領地として船井郡佐々江周辺が宛がわれている。史料11-11 は上野為清(人物未詳)から、宇津氏の旧領地の支配を任されている。史料11-12 では、宛名が川勝左京亮(光照)となっており、室町幕府の恩賞奉行を勤めた飯尾元連から弓削庄など多くの領地を与えられている。
これらの書状から、光照は、桑田郡・船井郡周辺を領地としていたこと、1534~1547年は下田姓であったこと、1552年時点で川勝姓であったことが読み取れる。
史料11-13 は、「丹波第10号 丹波川勝氏関連資料」が亀岡市旭町内川勝家蔵として紹介しているもので、年次は不明であるが、軍功により足利将軍から川勝姓を賜ったとしている。史料11-12 で多くの領地支配が認められたことを踏まえると、史料11-13 が言うように、1547~1552年間になんらかの軍功があり、それを契機に「下田」から「川勝」に改姓したのかもしれない。もしそうなら、川勝氏の系譜が、秦始皇を祖とする系譜とどうつながる(つながらない)のか再検証が必要なように思われる。
川勝豊前守光照、初下田氏を称す、拝受、同新蔵広業書上、将軍義晴公下司氏房之職、為書出、茨木伊賀守長隆判物
丹波国船井郡胡磨、宇野知行下司職、同野々口分等、被補御料所代官職事、被仰付上者、早全領知、至御公用者、每年参拾貫文宛、可被致進納、若有無沙汰八任證文旨、可有御改易之由候也、仍執達如件、
天文三 四月廿七日 長隆判
下田彦治郎殿
【訳】川勝豊前守光照は、初め下田氏を名乗った。拝受。同じく新蔵広業の書上によれば、将軍義晴公が下司氏房の職を(下田氏に)書き出したもので、茨木伊賀守長隆の判物である
丹波国船井郡胡麻の、宇野が知行していた下司職、および野々口の分など、御料所の代官職に補任すること。このように仰せ付けられた上は、速やかにその地をすべて領知せよ。幕府へ納めるべき御公用については、毎年三十貫文ずつ進納すること。もし滞納などがあった場合は、証文の旨に従って代官職を改易する。以上通達する。
天文3(1534)年4月27日 (茨木)長隆(花押)
下田彦治郎殿
荏木長隆判物
禁裏御料所、丹州桑田郡山国庄御代官職事、被仰付候上者、全領地、於御公用者、如先々厳重可被致運上由也、仍執達、如件、
天文十五 十月丗日 長隆判
下田左京亮殿
【訳】禁裏御料所である丹波国桑田郡山国庄の代官職を申し付ける。 ついては当該領地を掌握し、公事の納入については、前々からの慣例通り厳重に執り行うこと。以上通達する。
天文15(1546)年10月30日 (茨木)長隆(花押)
下田左京亮 殿
荏木長隆判物
丹州船井郡佐々江政所之散在、自分親類・被官・寺庵・山林・預所等事、為新御恩之地、被宛行訖、早可被全領知由也、仍執達、如件、
天文十五 十月丗日 長隆判
下田左京亮殿
【訳】丹波国船井郡佐々江の政所が管理する散在的な土地、自身の親族、被官、寺社・庵室、山林、預所などについては、新たな恩賞の地として宛て行う。 速やかに全ての領地を支配すること。以上通達する。
天文15(1546)年10月30日 (茨木)長隆(花押)
下田左京亮 殿
上野為清判物
丹州宇津備後守跡職、自分同名親類・被官・寺庵・山林等事、被仰付候上者、早可被全領知之由也、仍執達、如件、
天文十六 六月十五日 為清判
下田左京亮殿
【訳】丹波国宇津備後守の旧領、および自分と同氏の親族、被官、寺社・庵室、山林などについては申し付けた。 速やかに全ての領地を支配すること。以上通達する。
天文16(1547)年6月15日 (上野)為清(花押)
下田左京亮 殿
飯尾元連判物
丹波国船井郡内和知上下、同粟野、同佐々江跡職所々散在、同大谷村(付大谷村当年一円自来年公用出)、同国桑田郡弓削庄上下、(付、弓削庄、当年半分、従来年国完戸時一円)、被仰付訖、早可被全領地候者也、仍執達、如件、
天文廿一 十一月四日 元連判
川勝左京亮殿
【訳】丹波国船井郡内の和知上下、ならびに粟野、佐々江の旧領および各地に点在する所領、さらに大谷村(ただし大谷村については、本年は一円支配を認め、来年からは公事を納入すること)、同国桑田郡の弓削庄上下(ただし弓削庄については、本年は半分の支配とし、来年の収穫時からは一円支配とすること)を貴殿に申し付けた。 速やかにそれら全ての領地を支配すべきである。 よって、以上の通り通達する。
天文21(1552)年11月4日 (飯尾)元連(花押)
川勝左京亮 殿
上田・中田・下田兄弟三人。
豊前守、依軍功、足利将軍ヨリ川勝姓幷釘貫ノ紋賜之。感状弐通有リ。
参考までに、下田氏に関する最も古いと思われる史料として 史料11-14 がある。別表C の系図には見えない人物である「棚野の下田将氏」が、孤峰寺に土地を売り渡した際の地券とされる。 「二宮前の四月田」や「川原」がどこなのかは分からないが、史料11-15 によれば、孤峰寺は弓削庄棚野村にあったと思われる。これらのことから、下田氏は、14世紀中頃に棚野村(今の美山町鶴ケ岡周辺)に居住していた人物であることが推測される。更にこの二つの史料からは、当時の土地の境界線の取り決め方、寺と檀家の関係など当地に暮らす人たちの心情なども読み取れて興味深いものになっている。
たなの 下田殿四月田永代文書中起□
売渡申 永代土田事
合廿五代者在所二宮御前四月田 但此内二宮分五斗代□宮へ所当の二斗五升下田分又廿五代分川原有在所ハ同所
右件田ハ、依有要用直銭弐貫三百文ニ孤峰寺方丈御方へ所売渡実也、有限宮地方御年貢以下於公事者、任先例可於有其沙汰候、彼下地違乱煩を申ましく候、仍為後日状如件、
(下田)将氏(花押)
応永五年寅戊二月廿五日
下田殿文書也、ウリケン
【訳】(棚野)下田殿の四月田の永代売券文書の写し
永代売渡し申す、田地の事
合計二十五代の土地。場所は二宮御前にある四月田である。但しこのうち二宮分として五斗を納める土地について、二宮へ納める年貢は二斗五升であり、下田分、また二十五代分の川原にある土地も同じ場所にある。
右の土地は、急な入り用があったため、代金二貫三百文にて孤峰寺の住職へ間違いなく売り渡したものである。定められた宮地の年貢をはじめとする公事については、先例に任せて執り行うべきである。この土地に対して異議を唱えたり紛争を起こしたりすることはない。よって後日の証拠としてこの通り書状を記すものである。
(下田)将氏(花押)
応永5(1398)年2月25日
これは下田殿の文書である。売券。
下司殿寄進状正文
寄進 弓削庄棚野村下司名内孤峯庵々所并山事
合庵所壱所并山壱所者在所弥源二家上、南堺弥源二家上岸ヲ東西エスクニトラシテ也、東堺政所地定、西ノ山ハ弥源二家ノ北ノスミヨリ大松二本ヲ堺テ峯ノ尾定也、北ハカイク□ノ西ノ□□ノ小迫堺
右庵所者、割分当村下司忠継分領内、妙義監寺御方ェ、為庵所寄進申処也、但彼本意者、且二親為後生菩提、且忠継為現当安穏、永代所奉寄附也、更不可有異変之儀、若万一至子孫中仁、違乱之輩有出来事者、於不孝之仁、不可為忠継子孫、仍永代寄附之上者、師壇(檀)共ニ可有水魚之思、壇(檀)那者以師資之礼致慇懃之忠節、庵主又成少師之儀、可被励祈祷之精誠、相互不可見放申、但為無後代之煩、嫡子秦五男所加判形也、又庵ノ於修理等事者、可加壇(檀)那合力、至于末代、於為忠継子孫仁者、深可存此旨者也、然以此趣、寺家安堵可有御申候、仍寄附之状如件、
大秦忠継(花押)
嫡子秦五清継(花押)
康永三年六月廿日
【訳】下司殿寄進状正文
寄進 弓削庄棚野村の下司名のうち、孤峯庵の庵所および山の事。
合計、庵所一箇所と山一箇所の事。 場所は弥源二(やげんじ)の家の上、南の境界は弥源二の家の上の岸を東西に真っ直ぐ引いた線である。東の境界は政所領との境と定める。西の山は、弥源二の家の北の隅から二本の大松を境として、山の尾根を境界と定める。北は(欠字あり)..西の……の小迫を境界とする。
右の庵所は、当村の割分である下司・忠継の領地内にあるが、妙義監寺殿へ、庵所として寄進するものである。その本意は、一つには亡き両親の後世の菩提のため、一つには忠継自身の現世と来世の安穏のためであり、永代にわたって寄進し奉る。決して異議を唱えたり変更したりすることはない。もし万一、子孫の中にこの決定を妨害する者が現れたならば、その者は不孝の者であり、忠継の子孫と認めてはならない。
このように永代に寄進した上は、師(住職)と檀那(忠継側)は、共にお互いを必要とする水魚の交わりのような関係であるべきである。檀那は、師匠を敬う礼儀をもって丁寧な忠節を尽くし、庵主もまた、師としての立場から祈祷の誠を尽くすべきである。互いに見捨てることがあってはならない。
ただし、後代に紛争が起きぬよう、嫡子である秦五男も署名を加えた。また、庵の修理などの事については、檀那が協力してこれを行うべきである。末代に至るまで、忠継の子孫である者は、深くこの旨を心に刻むべきである。ついては、この趣旨をもって寺側からの安堵を得るべきである。よって寄進の状、以上の通りである。
大秦忠継(花押) 嫡子 秦五清継(花押)
康永三(1344)年6月20日
以上、秦氏から川勝氏に至る家譜と、中世の美山町域の大部分を治めたとされる川勝光照に関連する史料を見てきたが、川勝氏は多くの氏族が絶えた戦国期のなかで巧みに生き残る戦略をとり、江戸期を通して旗本として幕府に仕えたのち、明治新政府の要職に就いた数少ない氏族のひとつであることは間違いなさそうである。
