『美山考』第10章 行事と食文化【260616】
南丹市美山町の地域史についての考察
改訂履歴
「美山町誌」から、地域特色のある行事で、実施地域と実施時期が分かるものを「別表B 美山地域の沿革」に記載した。(★印を付したものは京都府登録無形民俗文化財に指定されている行事)
さらに「美山町誌」編纂の資料取集のため、美山町深見の西浦左門氏が、昭和46~47<1971~1972>に当地域内を調査し、「近畿民俗」誌に寄稿された「丹波美山暮らしの歳時記」とその続編は、当時以前の美山町の行事と食文化を知ることができるたいへん興味深い資料である。
特に、著者自身が記された内容はもとより、各地区の古老から聞き取った話や唄は当地の風習を後世に残す貴重なものと思われる。
時代の移り変わりと生活様式の変化により、今では行われていないものや食されていないもの、実施日が変更されているものが多くあると思われるが、美山町の、延いては日本の伝統的な行事と食文化を知るために、今昔を問わず(現在も実施されているかどうかは問わず)、両誌から読み取った要旨を「暮らしの歳時記(一月~十二月)」に書き出した。
美山町で行われる行事については、現地を見ることで、それぞれの行事が数百年に渡り守り受け継がれてきたことが体感として伝わってくる。可能な限り現地に出向いて行事当日の様子を noteマガジン「美山の祭り」 に記録し、「行事の記録」にそのリンク先を掲載する。
以下に「暮らしの歳時記」を概観する。
冬の間に農作業で使う道具や衣類などを準備し、春の豊作祈願に始まり、夏は田畑の手入れ、秋には収穫に感謝する祭りなど、農耕に関する行事が四季を通して行われている(いた)こと、各行事には当地の食文化が密接に結びついる(いた)ことが読み取れる。特に秋祭りについては、一年間、たいへんな手間と時間をかけて農作物を育ててきた暮らしの結実としての行事であることに気づかされる。
愛宕神社の火伏に関する献燈・祈願が、形態は異なりながら各地区で行われていることが分かる。火事は人々の暮らしにおける重大な災いであり、なんとしても避けたいという願いが、300年以上も続く 上げ松 などの行事で当地の人たちに受け継がれてきたものと思われる。
お盆の行事は、各地区でお供え物や施餓鬼の扱いなど、様式や手順に若干の違いはありつつも、各家で新仏やお精霊(ご先祖)が大切に祀られていることがよく分かる。
各地区で様々な種類の講とそれに関わる行事が持たれている(いた)ことが読み取れる。今ではもう行われていないものが多くあると思われるが、各地区の古くからの結びつきが根底にあって、現在の美山町のよく手入れされた美しい景観が保たれ、それが当地で暮らす人たちの本質を表しているように思える。
美山町のみならず日本人にとって正月は特別なものであることは間違いなく、それが元旦に始まり、節分まで続く数々の行事としてあることに改めて気づかされる。
歳時記では多くの唄が紹介されている。唄を歌いながら辛い農作業を楽しむ側面もあることが見える(聞こえる)ようである。各地区の古老から聞き取った唄は、当時の心境を表わすものとしてたいへん興味深い。
ここにあげた行事や食文化は今はもう行われていない、もしくは簡略化されているものが少なからずあると思われるので、現在の状況について知る機会を持つことができれば、適宜更新していきたい。
暮らしの歳時記
一月の行事と食文化
一日:元旦
各家の当主が祭主となり歳神を迎える。当主が 若水 を汲んでお茶を沸かし 雑煮(丸餅・大根・ニンジン・カシライモ、豆腐を入れるところもある。味噌味)を炊く。恵方を向いて 梅干茶 を飲んだ後、雑煮を祝う。家族の中で、年の千支が元日と同じに当った者には、食膳に 鯛の焼き物(尾頭付きの魚)が据えられる。雑煮の代わりに餅を焼いて薄く伸ばし、中に納豆を入れて編笠状に巻いた 巻き餅(原・板橋・宮脇は マクリ餅)の所もあり。
二日:仕事始め
ウミゾメ 女性は麻を紡いだ。
ヌイゾメ 女性はユズリハを二枚重ねて赤糸で縫い歳神に供えた。
マキゾメ 麻の種子を蒔いた。
ヒキゾメ 石臼で粉をひく。
フミゾメ 米を唐臼で踏む。
アライゾメ 洗濯をする。
トマリゾメ 二日の晩に男の子供(外孫、親類の男の子)に泊りに来てもらい、尾頭付きの焼き物の御馳走で歓待する。御祝儀も奮発した。
松尾 トマリゾメが済むまで女性は外出してはならなかった。
田歌・江和 コウゾメ 歳神に供えておいた山道具を持って山へ行き、鉤になった木を伐って山の神へ持って参り、御神木の枝に掛けて山仕事の安全を祈る、山で怪我をしない、山で倒れた時、山の神がこの鉤で引掛けて起こしてくれる。
田歌 ツクリゾメ 一家の主人が家近くの畑へ出て、恵方を向いて拝んだあとユズリハの小枝をツラ(藁の敷物)のツト(藁の筒状の入れ物)に刺して畑に植え五穀豊饒を祈願する。
盛郷 ナイゾメ 男性はワラを打ってカイ縄(物を括る縄)、牛を飼う家では牛のオイ縄・オモガイを作り、十五日まで神棚に供えた。
洞 キリゾメ 鶴ケ岡地方を中心に行なわれ、男性は近くの山へ行ってホソとクリの木各々一本ずつ伐って来て、屋敷近くの空地に杭を打って恵方の方に向けて立掛けておき、田植えの時、おこわを炊く燃料にした。キリゾメの木に限ってどこの山で伐ってもよかったことから「盗み始め」ともいわれた。
三日:不浄日
檀家の者が寺へ新年の挨拶に行った返礼として僧侶が檀家を回る。
四日:鏡開き
歳神に供えた お鏡さん を下げ、七日の七草粥、十五日の小豆粥に入れて食べる。
五日:お狩初め
川合 諏訪神社 山の安全・無事を願う狩にまつわる儀礼で、応安二年〈一三六九〉に信州の諏訪明神を勧請したことからはじまった。諏訪明神は狼を使いにして猪や鹿などの獣害を取り除いたとされる。神事の後、宮司は腰に短刀をつけ御幣を担いで先頭に立ち氏子たちが弓・槍・鉄砲などを持って従い砂木の狩倉山に駆け登る。その後、獲物を御狩り場に設けた祭壇に供え神事を終わる。現在では御狩り場を毎年変えて一年間忌事がなかった方面(鶴ケ岡地区内)の小社に移動し型どおりの神事を行う。
※二〇二三年一月五日の様子は YouTube に投稿あり。
七日:七草(七日正月)
七草粥(福わかし)を祝う。七草とは「セリ・ナズナ・ゴゴギョウ・ハコべ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ」七草全部を入れるのではなく、カブラか白菜・餅を入れる。塩味。
知見 七草の代わりにカブニンジン・豆・餅・豆腐、その他色々七種のものを入れる。(七色飯)
深見 若菜は四日(または五日、六日)に畑から起して洗い(起こし始め、この日まで畑へ行ってはならぬ)、三方・お盆・俎などに載せて歳神(エビスに供える家もある)に供える。カブラ を二株、根葉つきのまま洗って供えた。
十日:こきはじめ
恵方の方を向いて 餅花 をコキバシでこき取り、箕でひる真似をする。「氷一日」(旧暦六月一日)まで二つずつ各神に供え、その後いただく。
十四日:お日待ち
太陽に感謝する行事。寺・堂・当人宿で酒宴をしながら徹夜し、日の出を拝んだ後、地区の氏神へ参拝。年三回、一月十四日、六月三十日、九月二十七日に行なう。今は日の出を待たず散会、廃止したところも多い。原地区は二月二十八日に「経の塔」を行う。
十五日:狐がえり
川谷 江戸後期から伝わり、子供により務められる行事。稲荷信仰の一つで五穀豊穣を掌る狐に豊作祈願を伝えてもらう。男の子が各家を回り舞の仕草をしてもらうことが厄払いになり、お礼にお年玉やお菓子をもらう。狐宿 に集まって ニンジン・油あげのかやくご飯をいただき、宿で一泊。翌朝、御幣を持って般若心経を唱え集落の上から下へ巡回する。明治~大正初期頃までは各地区で行われていた。
十五日迄:苗講
河内谷・中 河内谷では名古苗・長野苗の苗ごとに苗社を祀る。般若心経を唱える。伊勢講や愛宕講との併せ講をしめの内に行う。
十五日頃:伊勢講
伊勢参宮を目的として結成された信仰集団。伊勢皇大神と豊受大神を農耕の神として祀る。各集落ごとに五~六戸が集まって講を作り、昔は講ごとに積立貯金をして講中揃って伊勢参りをしたが、今は代参者が参拝してお神符を持ち帰り、講を開いて五穀豊穣を祈る。講は一月十五日頃に初講が、それ以外は適宜年数回開かれる。愛宕講との併せ講や廃止のところも多い。
十五日朝:山姥の餅流し
山姥が方々の谷川に餅を流すと言い伝えられている。山姥の餅を 小豆粥 や ぜんざい に入れて食べると体が丈夫になるという。山姥は十四日に餅をつき、谷川が餅米の研ぎ汁で白く濁る、松の臼と杵を使うため餅は松の香がするという。
十五日:とんど
十五日正月・小正月ともいい、この日までが しめの内 で、早朝、門松・松飾りなどを取り払い燃やす。朝 小豆粥 または ぜんざい を食べる。小豆粥 を少し残しておいて、十八日の朝、これに炊き足して食べる(十八粥)ことで「食い残す、食い延ばす」即ち「金が貯まる」、また川へはまっても助かるという。
※二〇二六年一月十二日 北地区の とんど は Instagram kayabukinosato に投稿あり。
神谷 正月の門松、お飾りは燃さずに木に括り付けておき、十日後川へ流す。
川谷・肱谷 「お年さんを送る」と言って、恵方の方角の木に括り付けておいて、田植えが全部終った時、畦で燃やす。(上がり火)
中頃:大綱打ち
直径一〇㎝余、長さ一二〇mくらいの綱を数本作り、大水による橋の流失を防ぐため、橋桁の一端と近くの立木などに括り付ける。昭和二十年頃まで行なわれたが、その後はワイヤーロープを使うようになった。
宮脇 道相神社の大鳥居のしめ縄づくりに技法が引き継がれている。
田土(16日)いねせぎ に使うモッコや、上げ松用の綱を作った。
十七日:観音講
毎月十七日、各集落のお堂に集まり西国三十三か所の御詠歌を上げる。数珠繰りを行うところもある。
月を決めて講をもつところもあり。
板橋 二月
深見 八月
岩江戸 九月
向山 三月二十一日・九月二十一日
肱谷 四月・八月・十月に家廻りでする。
十九日:厄神さん
各地で一年の悪病の流行を防ぐため疫神を祀り、その威を和らげ疫病を払う祭り。厄年の人は前後三年続けて厄除け祈願する。
静原 八幡宮 厄神祭
二十日:二十日正月
骨正月とも言い、この日に空腹の思いをすると一年中腹が減るめにあうといい、正月の餅と一緒にこの日のために作っておいた 特大の餅 を腹いっぱい食べる。
毎月二十三日:神楽坂参り
原 文明五年〈一四七三〉野々村庄に大火があり、船井郡佐々江に通じる峠の愛宕山が望める場所に鳥居と神楽堂を建て、神楽を奉納して火伏の祈祷をした。その後この峠を神楽坂と呼び、神楽堂はなくなったが、鳥居は何度も立て直し祭りと祈祷は続けられ毎月二十三日に峠に参拝する。
※二月~十二月の掲載は省略
二十八日:文字株講
岩江戸・大野・肱谷・上司 文字家が集まり、当家の元祖、黒逸(くろはや、崇神天皇遣わしたが四道将軍、丹波道主命の部下)を祀る祖霊神社に参拝し祝詞を奉じる。文字畾地にあった神社はダム建設により山際に移転(場所は未確認)した。株親宅(家廻りの当番宅)の仏壇に参りお経を唱える。昔はぼた餅が出され、ぼた餅講ともいわれた。
末:報恩講
一月末から三月頃まで、浄土真宗各寺で親鸞聖人の遺徳を偲び門徒が行う法要。正信偈などを唱和する。
内久保 光瑞寺・下平屋 西乗寺 雅楽の演奏が行われる。
二月の行事と食文化
最初の丑の日:初牛
各区稲荷神社の祭り。小豆ご飯・かやくご飯・油あげ・神酒・ネコヤナギを供え豊作祈願。カブラ(白菜)のからしあえを食べる。
栃原・今宮 今宮稲荷神社 参拝出発三十分前に区内四ヵ所でふれ太鼓を打ち鳴らし、今宮稲荷神社に行き合同祭祀。お神酒・油揚げ・いなり寿司・かやくご飯などのお供え物。二〇二六年二月一日の初牛行事の様子は、鶴ケ岡振興会 Facebook,Instagram に投稿あり。
洞 各家の神棚のお稲荷さんに、前日はネコヤナギの枝、当日は小豆ご飯のおにぎり二個、まゆ形(まいだま)と小判形のだんごを一個ずつ庭先に供え豊作祈願、今はやっていない。
三日:節分
節替り・年越し ともいう。いわしの頭 を 柊(ひいらぎ)の小枝に刺し門口の戸袋に差して悪疫が退散(鶴ケ岡はカヤの小枝を使用)。薄暗くなりかけの頃、鉄鍋で豆を炒る。最初に柊の小枝で少し混ぜ、杓子で混ぜながら炒り、鬼が豆を食べたら喉に刺さるように柊の葉も入れる。炒った豆を升に入れて神棚に供え、おろされると、福は内、鬼は外、といいながら豆まきをしたあと、年の数より一つ多く豆を食べる。害虫から身を守るためのまじないとして、豆を炒る時、柊の葉を一枚ずつ火にくべながら「蚊の口」「マムシのロ」「ブトの口」と唱えた(虫の口焼き)。いろり側に豆を十二粒(一月~十二月)並べ、豆の焦げ具合で一年間の天候を占った(豆占)。今は恵方を向いて巻き寿司を丸かぶりする風習になっている。
知見 晩食に 麦飯 にイワシ(年越しイワシ)を食べる。中風除けのまじないに南瓜を食べる。米・麦・大豆・小豆・二度豆・コンニャク・油あげなど、七色のものを混ぜた七色飯(かやくご飯)を食べる。
三日:柿の仕付け
果実の豊作を祈るまじないで、柿・栗・桃・梅などの木を、一人が鉈で切るしぐさをしてもう一人が助けを請う木の役をする。柿がよく成るように、木の株に小豆粥をかけたり、ユズリハに粥を載せて木の根元に置いたりしたが、今はもう見られない。
三日:ムクロ追い
節分の日の夕方に田畑の畔を歩きモグラの穴を塞いで退治(明治末期頃まで)。
三日:星祭り
当たり星を祭り、開運厄除、身体健全、家内安全を祈願する。
松尾 成願寺 護摩会や 福豆まき があり参詣者に接待。
上司 本妙寺(八日)色紙に七曜の星を書いて本堂に祀り、米や神酒を供える。お経をあげたあと お日待ち をして散会する。
八日:針供養
お針を休んで折れた針をこんにゃくに刺して川に流し供養した。針に感謝し上達を願う行事だったが今では行われていない。
八日:鬼子母神祭
赤ちゃんの授かりや健康を祈願。
上司 女性や子供の祭りで だんごまき がある。
下 横坂(十三日)小豆飯のおにぎり を供える。小さな着物を奉納。昭和四十年〈一九六五〉以降は他地区からの参拝はなく地区の祭りになった。
二十八日:経の塔(お日待ち)
原(旧暦の小正月)年頭の祈祷に大般若経六百巻を読経。魔除けのため蓑笠にした天道花を「ゆりだの木」の塔婆で作り太陽を祀る。ご飯に納豆を添えて食べ般若心経を唱えながら日の出を待った。今は般若経を唱えながら日の替るのを待ち散会。
三月の行事と食文化
十五日:涅槃
釈迦入滅の日、寺で法要が行われる。各家でアラレを煎ってお釈迦さんに供え、子供達は お釈迦さんの鼻糞(団子)をいただきに寺へ参る。
彼岸頃:岸焼き(畔焼き)
各区で天候を選んで田周辺の枯草焼きをして草の芽吹きを促す。消防ポンプ車を待機させ、川上からつけた火を追いながら杉の生枝を持って叩き消しながら進む。取りやめにする区も多い。
二十一日彼岸:彼岸
寺では彼岸会法要が営まれる。ぼた餅 を作って仏さんに供え、墓参りや寺参りをする。
二十一日彼岸:薬師祭
上司 春・秋彼岸の中日に実施(秋彼岸の掲載は省略)。耳の病気に霊験あらたかで、穴を開けた石を持ち参拝する(耳がよく聴こえるように)。おはぎ・巻き寿司・お菓子・二升搗きの鏡餅 などを供え子授け祈願、安産祈願、安産のお礼参りをする。
下旬:雪起こし(きだん節)
冬中の大雪で倒伏した杉、桧の若木を縄で結わえて元通りに起こす仕事。きだん節 明治の末から大正の初期に名田庄木谷(きだん)から入ってきた唄で雪起こしの時に歌われた。旧鶴ケ岡村蛇ケ原(盛郷上吉田)の山へ出稼ぎに来ていた山林労務者が歌っていたものを一緒に仕事をした盛郷の人達が真似て歌い出したのがはじまりで、やがて山仕事の唄として北桑田地方一円に広まった。
名田庄村木谷では消滅し、美山町でも八十歳以上の老人数名が伝えるのみ。
〽唄はよいもの仕事が出来る 話は悪いもの手を止める キタコン
〽唄を歌うなら時見て歌え 七ッ下がりか昼前か キタコン
〽向うにきがない三笠の山に 思いつめたがあほらしや キタコン
〽どこは照るとも蛇ケ原曇れ 可愛いあの子が日に焼ける キタコン
〽わしがきだんの監督なれば 二番煙草も三度さす キタコン
下旬:ノシロツツジ
三月下旬から四月初旬頃に、葉より先に紅花が咲きはじめるコバノミツバツツジのことで、この花を見てから ノシロ(苗代)作りをはじめたためノシロツツジと呼ぶ。
四月の行事と食文化
三日:しがさんち
月遅れの雛祭り、当地では雛人形を飾る女の子のお祝いとしては一般化せず、農耕の神を祭る行事。ヒシキリ(ヒシモチ)を作り(赤・青・白などの餅を薄く伸ばしてボール紙のひし形を餅の上に載せて型取りし長刀で切ったものを二枚重ねる)桃の花を一枝添えて神様に供え今年の豊作を祈る。ヨモギの新芽(牛蒡青菜 で代用も)で餅をつくる。
三日:的張講
向山 集落の禰宜が鬼を四個書いた丸い的を作り、弓で的を射る。悪魔祓いの行事とされたが、今は行われていない。
八日:薬師祭
穴を開けた石を持って参拝、穴あきのお金を賽銭として使う。家廻りの当番で 紅白饅頭 を一組ずつ各戸に配る。
十日:わさび祭り
芦生 熊野権現神社 令和七年に南丹市無形文化財に指定された。かつて当地区では冬季に熊狩りが盛んに行われ、狩猟の無事を祈って正月から本祭りのある四月十日までわさびを食べないことを氏神に誓った。神前にわさびを供え熊狩りに感謝し、この日からわさびを食べることが許可される。神事は十一時から始まる。神事のあと参詣者は百度参りをする。百枚の平らな石がザルに入れられてあり、それを一つずつ手に取って拝殿周囲を右回りし神前に投げ入れ参拝する。ザルの石がなくなると、少し味付けされた葉わさびとお神酒がふるまわれる。長く絡まったわさびは柳の箸でつまみ取る。その後、山の家で芦生の森研究所関係者や地元の方々が参加して直会が行われる。谷川に自生する葉わさびは採れなくなり、今は4ヶ所で栽培している。
※「第十章 行事と食文化 表10-2 行事の記録 二〇二五年四月十日 芦生のわさび祭り、二〇二六年四月十日 芦生のわさび祭りと『美山考』座談会」参照
中旬:令法(りょうぶ)
四月半ば過ぎに出る新芽(若葉)を抜き取り、茹でてムシロに広げて天日で乾燥、袋詰めにして天井に上げて貯蔵し、飢饉時の保存食にした。
中旬:茶摘み
茶の新芽が立ち、八十八夜の頃を中心に茶摘みが始まる。山裾や畑の隅にわずかばかりの茶の木があり農家は自家用の茶を取る。摘み取った茶葉は蒸籠で蒸し、炒り鍋で炒って柔らかくしてもみ、天日で乾かし、半乾きの頃、もう一~二回もんで上茶に仕上げる。
茶摘み唄 明治から大正の初め頃、茶摘み女が歌った。
茶もみ唄 製茶工場で男は茶もみ、女は茶より(焙炉にかけた茶葉を上茶下茶により分ける)として働いた。
十八日:やなぎた(柳田)さん
小淵 宝泉寺 観音参り、眼の病封じの祈祷が行われる。旧船井郡からの参詣者もあり。「柳田さん」の名称由来は確認できていない。
二十三日:愛宕山参りと愛宕講
伊井冊尊、迦具土の神(火の神)を祭る京都愛宕山に、地区ごとに代参し火災除け祈願し、お札と樒を受けた代参者を迎え愛宕講を持つ。愛宕山からいただいたお札「愛宕大神守護」をかまど付近に貼る。樒は毎月一日朝、御飯をたく時に薪と一緒にかまどにくべると火災除けになる。元旦に年男がいろりにくべ、この火種で雑煮を炊いた。味噌を作る時、味噌桶の底にシキビを敷くと味噌が腐らないという。
和泉 小さい子供を連れて参るとその子は火難にあわない。
萱野 掛け軸や祈祷文が入れてある持ち回りの箱が お迎えの宿 に回され講をもち、お札や樒をいただく。
原 神楽坂参りをして、毎年五月十日に代表四名が愛宕山に代参する。 ※一月二十三日神楽坂参り参照
二十九日:大原神社祭礼
樫原 大原神社 大野地区の氏神、農業の神。田畑の虫除けのお札(大原社虫除守護)も授けている。神事は十時から始まる。大野地区の役員と区長、本宮神社と菅原神社の代表者等が参列する。神事の始めに神主がオーッと低い声「警蹕」をあげながら神殿の扉を開け、終了時には閉める。二〇二六年四月二十九日春例大祭時に地元の方から、神殿裏に御幣を立てた砂場があり、豊作祈願のため砂を持ち帰り苗床に蒔いていたが、農協から苗を購入するようになってから持ち帰らなくなったこと、三和町大原神社に分社した由緒の詳しいことは分からないこと、祭りの役員は七人で三年に一度入れ替えをするが、今年はその入れ替えがあり三人(四人だったかも)が新人になって伝承に苦労していること、祭りの担い手が高齢になったことから御神輿は軽トラの荷台に乗せ各区を巡行していたが、数年前からは警察の許可がおりずにそれも中止になったこと、子供の頃は出店がたくさんありそれが楽しみで祭りに来ていたこと等の話を聴くことができた。
※「第十章 行事と食文化 表10-2 行事の記録 二〇二六年四月二十九日 大原神社 春例大祭・佐々里 囲垣祭」参照
二十九日:佐々里 囲垣祭
佐々里 八幡宮 八幡宮境内に「囲垣祭の由来」が掲示されている。
村民全員が講中になり、満十五歳になった若者の元服を祝う儀式と祭りである。囲垣とは、元服した若者の名前を記して八幡宮の境内に立て掛ける木札をいう。佐々里の囲垣講の起源は、遠く江戸時代以前にまで遡る。他村の者が佐々里村の立木を再三再四伐採した。奉行所に訴え裁判となったが、その際村の若者の雄弁が力となり、北の方水流れの分は佐々里の所有であるとの裁判が下された。それが元和の旧暦三月二十七日(現在は四月二十七日(※注 さらに現在は二十九日))であったことからこの日に囲垣祭が行われるようになり、今に至っている。
寛保二年〈一七四二〉二月三日の佐々里区文書に囲垣祭の記事があり、元明天皇 和同六年〈七一三〉三月七日遷宮の日に囲垣祭をしたとされる。神主による神事は特になく八幡宮境内に集まった地元の方十人ほどで木札に名前を書くことから祭りは始まる。
地元の方からは、昔山を挟んだ向こう側の弓削村の領域が、佐々里側に山を下った辺りまで押し寄せていたことから水源を巡る争いがあり、分水嶺の尾根筋まで佐々里村の領域を押し戻して、そこに名前を書いた木札を立てたことが囲垣祭の始まりになったことを伺った。
その他には、八幡宮境内にある樹木は相当古いもので(千四百~千五百年頃からある?)、倒木を防ぐため鉄骨の柱で枝を支えていること、土地の境界は、谷筋だと川が氾濫したときに位置が変わるため、変化することがない尾根筋で決めていること、境界線は結構曖昧なところもあり問題なることがしばしばあること、昔は百人ぐらい住んでいたが今は十人ほどになり、祭りなどの行事があるときには京都から帰ってきて手伝ってくれていること、世帯数は五戸、内一戸は移住者であり、二十年ほどもしたら集落はなくなってしまうのではないかと危惧されること、そうなった場合、山林の共有部分は南丹市に移管されるだろうが個人所有の山林はどうなるか心配なこと、昔、材木で景気が良かった頃に子供を町の学校に通わせるようになったが、それを境に人口が減っていったこと、「佐々里」は昔「笹里」と書き、河原一面に笹が茂っていたが、あるときから一斉に無くなってしまったことなど、集落の歴史や過疎の問題、その他にも、昔は屋根の上に一メートル以上雪が積もったが今は三十㎝も積もるか積もらないほどになったこと、新しいトタン屋根はかやぶきの上に張っていること、いろりで鍋物をしていたらかやぶきの天井から虫が落ちてくること、いろりに掛ける鍋の高さは、火加減により自由に上下できるようにうまくできていること、など生活の様子についても伺うことができた。
※「第十章 行事と食文化 - 表10-2 行事の記録 「二〇二五年四月二十九日 佐々里の囲垣祭」、「二〇二六年四月二十九日 大原神社 春例大祭・佐々里 囲垣祭」参照
五月の行事と食文化
初め:ワラビ・ゼンマイ
「キリシマツツジが咲くとゼンマイ、ワラビが顔を出す」といわれている。ゼンマイ は茹でてアク抜きをして、ムシロに広げて天日でカチカチに乾かして貯蔵し、冬、野菜の端境期に油あげとたいて食べる。ワラビ は生のまま器に入れ上から木灰を振りかけ、熱湯を注いで半日ほどおいてアクをとり、味噌汁の実や佃煮にして食べる。乾かして、正月にホナガと言って歳神さんに供える。初田植えの時、ワラビの和え物をして田の神に供える。「ワラビは笑うもの」と言いおめでたい時にワラビ料理を作る。
五日:菖蒲節句
旧暦六月十二日頃のところもある。男の子の節句で鯉幟を立てチマキや柏餅を食べる習わしがあるが、当地では一般化していない。四日タ方、ヨモギと菖蒲各一本ずつ括ったのを三束屋根にさす。五日、菖蒲酒 を神様に供える。菖蒲酒を飲み、菖蒲風呂に入ると健康になるという。菖蒲で鉢巻きや腹巻きをして、頭痛、腹痛封じのまじないにする。
八日:行者参り(行者講)
山岳信仰として行者講を組織する集落が多くあったが途絶えた所が多い ※他に、八月六・七日、九月七日にあり。
江和 行者山例祭を行う、神前で般若心経を唱え、法螺貝を吹きお神酒を酌み交わし解散する。
河内谷 行者講を愛宕講との併せ講で行う。
和泉 田植えが終わった頃(五月)に行者講を行い、集落の行者山に登り般若心経を唱え祈祷し下山する。
八日:ようかび
太陽と先祖を祀り、釈迦生誕(旧暦四月八日)を祝う花祭り。卯月八日(オツキヨウカ)の天道花(てんとばな)を月遅れでお供えする。七日のタ方、シキビ・ツツジ・フジの花を山から取って来て、長い竹の先に括り付けて庭先に立てる(天道花)。竹に花を付ける場合、花の株と株とを合わせ十字形(①上②左③右)に括る(①シキビ、②ツツジ、③フジ)。①は太陽、②③は月に、あるいは太陽以外の諸々の神に供えるという。花の括り方には、シキビ・ツツジ・フジなどを一緒に箒(ほうき)形に付けるところもある。花の側に板台を置き「オツキョウカに花より団子」といってヨモギと水、あるいは新茶、また白米一つかみなどを供える。ヨウカビの花は、八日タ方には取り払い、川へ流すか燃やしてしまう。ヨウカビ(八日日、八日火)とオツキヨウカ(卯月八日)は、本来目的の異なる行事のようだが、豊作を願うという点で共通しているらしい。
洞 花を残しておいて行方不明者がある時に燃やして煙の方向に探すとよいという。
和泉 神仏のある家はもう一本神仏用に天道花をたてる。縁側に位牌を出し供え花を用意し、お参りにきた人はその花を折ってお供えする(花折り)。
八日:花祭り(あま茶祭り)
下 心蓮寺・長谷 泉龍寺・上司 本妙寺・砂木 唯然寺 小さな釈迦立像を花で飾った堂に祀り、頭からあま茶をかけてお参りする。
二十五日:柴取り休み
農繁期前の休日(六月一日のところもあり)で、旧鶴ケ岡村あたりでは柴取り休み(農前え休み)といった。農家の若嫁達は、餅・ぼた餅 などを持って里帰りし実家でくつろいだ。田植えに必要な蓑・ゴザ蓑・笠・田靴などを取り揃え、野良着の繕い・手拭い・脚絆・襻(たすき)などを作って田植えに備えた。神棚、仏壇を掃除してサカキや花を供えた。柴取り休みの翌日から柴刈り(緑肥作り)、畔刈りなどが始まり、春の農繁期に突入した。
六月の行事と食文化
一日:雷除けに天神参り
京都北野天満宮の「火の御子祭り」に各地区から代参者が雷除け祈願のために参拝する。お札「北野火雷大神御守」は家の柱に貼る。
上旬:苗代祭り
植え初め (ウエソべ) 田植えの初日、おこわを炊いて朴葉に包み、一升枡に入れて神様に供える。苗代で早苗を六把取って来て、門口に並べ、側に鍬一丁置き、早苗の上におこわと千切りと豆のおかずを少しずつ載せて供え拝む。この苗を田んぼへ持って行き、左手で三株植える。
豊郷 サビラキ 代の早苗を取り、田の水口近くに七・五・三本の三株を左手で植える。その側に、栗の木の枝に御幣(歳神さんに供えたもの)を付けて立てておく。朴葉飯を一つ畦に供える。 田植え前に今年の豊作を願って行なわれる。植え初めやサビラキをしないところでは、田植え前に各地区の氏神に参拝する。
上旬:朴葉飯
赤飯や焼き鯖・筍・エンドウなどを入れた五目飯をまだ熱いうちに朴の葉に包む。朴葉の形が伊勢神宮のお札に似ていることから、その御加護で豊作を願った。
上旬:苗取り
苗代から田植え用の早苗を取る作業。田植えの前日か、その日の早朝に、早乙女が苗代の苗床から苗を引き抜き、田の水で苗の泥を洗い落し、ハシワラという打ちワラで適当な大きさに束ねる。男が小束の苗を苗籠いっぱいに入れて、田植えをする本田まで運ぶ。
上旬:苗取り唄
島 〽山椒小粒でもヒリリと辛い 様は小男りりしかろ
〽思うて通えば五尺の雪も ひどい霜やと言うて通ろ
〽思うて通えば千里も一里 会わず戻ればまた千里
上旬:田植え
代搔きの済んだ田に早乙女が早苗を植え、立ち人(男)が田の整地や苗の準備などを行う。露地苗代・手植えの頃の田植えは六月初めから二十日過ぎまでかかっていたが、電気育苗・機械化の現在では、四月下旬から植え始め、五月中には植え終わる。
上旬:田植え唄
明治から大正初期頃まで、早乙女が一枚の田を植え終わるまで、同じ唄を何回も繰返し歌った。盛郷の唄は、唄により何時歌うか決まっていた。① もうすぐお昼の時に歌った(この唄を朝から歌うといかにも昼を待っているようで、施主の機嫌を損ねる)。② 何時歌ってもよかった。③ 日の暮れ方、もう一息で田植えが終わると言う時に歌った。④ 何時歌ってもよかった。従って②④の唄は歌うことが多かった。
盛郷 ①〽そとめしゅうは昼間を待ちゃるおなんどにソヨノ おなんどは帆柱を立てて風を待つソヨノ
②〽花婿の肴は何よ 紫蘇の葉にソヨノ 紫蘇の葉を細かに刻み酢をかけるソヨノ
③〽日の暮れに浜辺を行けば千鳥鳴くソヨノ 千鳥鳴けまだ鳥け声比ベソヨノ
④〽鶴の子の巣立ちはでこや 諏訪の森※aソヨノ 鶴が舞う諏訪の社※bの 若松にソヨノ
※a 旧鶴ケ岡一帯の氏神を祀る所、もとは「八幡山」だったが、昭和三十二年〈一九五七〉「諏訪の森」と改めた。
※b 諏訪神社、「建御名方神」を祀る、もとは「八幡山薬師」だったのを「諏訪の社」とした。
豊郷 〽そとめしゅう(外目衆、近在の村から応援に来て田植えをする衆か)は昼間を待ちゃるおなんどにソヨノ
〽おなんどに帆柱を上げて鐘※aを待つソヨノ
〽面白や京には車 淀にゃ船ソヨノ船に桂の川の迎い船ソヨノ
※a 時を告げる寺の鐘。
福居 〽そとめしゅうの昼寝が過ぎて お手が張る※aソヨノ
〽お手が張りゃすけて※bを入れて赤襻ソヨノ
※a 仕事が長びくこと、「手張な」という。
※b 「助手」の意で、助手には初めて田に入る見習いの者、若嫁を当てた。
中旬:田の草取り
除草剤を使う前は、主に女性が手取り除草をしていた。一番除草(六月中旬)田植え後十日、三つ又(田打ち)で掘り返す。二番除草(七月初め)打ち返した田を手でならす(地ならし)。三番除草手で稲の根元をかきまわす、肥料の分解が促され、稲の分けつを促す効果あり。四番除草あげ草、主にヒエを取る。草取りが全部終わると盆近くになった。
中旬:田の草取り唄
内久保 〽昼になるやらョー これからいんで お櫃なかやまあらしやま
〽夏の暑いのに草取りしょよりわりじゃと言うて寝ておじゃれ
〽つわり病みすりゃ酸いもの好む夫は高木の梅かきに
〽つわりじゃとゆや名が立つほどに腹が痛いと言うて寝よう
〽つまは可哀相に五反田に一人 助けてやりたい一搔きも
大内 〽細い腕に縒(よ)りでもかけて 晩のしまいの早いよに
〽お日はちりちり山田にござる わしの仕事は小山ほど
〽朝のかかりから日の暮れのような気なら 仕事しゃちゃいて面白い
原 〽夏の暑いのに草取りさして 見とるおやじの甲斐性なし
萱野 〽昼になったか背中が暑い 笠の裏まで日がまわる
下旬:サノボリ(早上り)
田植え終了後の休日。旧鶴ケ岡村では六月二十五日を大休みといい地区共通のサノボリとしていた。早乙女の手に残っている苗(手苗)を三人分集めて束ね、家の神様に供える(神に供えた苗を煎じて飲むと解熱剤になる)。苗を持って氏神様に参拝し、田植えの終了を報告する。
豊郷 サノボリには おこわ・ぼた餅・サバ寿司 などを作って食べ、一日ゆっくり休んだ。おこわには豊作を願って少し麦を入れた(麦はよく増える)。
二十八日:不動明王祭り
下 杉波谷の奥にある不動明王の命日に野菜やお神酒などを供え、不動さんの滝にうたれると病気が治るとされる。「美山伝承の旅」に掲載されている「不動明王の滝」の伝承が本行事の由来と思われる。織田信長の一乗谷攻めに敗れた朝倉氏の落人三人が不動明王を背負い知見坂を越え、杉波谷に逃れて知見下村の滝つぼに安置した云々。
二〇二六年四月十日の『美山考』座談会時にこの行事のことが紹介され、今も六月二十八日にはお参りしているとのことだった。
この伝承によれば、下地区は「知見下村」だったことが分かる。
旧暦六月:氷一日
一月十一日「こきはじめ」に貯えていた餅花を神様に供えてから焼いて食べる、「氷一日の力もち」といい夏負けせず元気で暮らせるという。
七月の行事と食文化
二日:半夏生
田植え、胡瓜・茄子・トマトなど夏野菜の植付けもすべてこの日までに終える。この日の農作業を忌み嫌い(天から毒が降る等々)半夏生休み、農休日にする。チマキ(男神)とサンケラモチ(女神)を作り豊作祈願する。
十四日:祇園さん・神楽
田歌 八坂神社 平成三年〈一九九一〉四月十九日京都府登録無形民俗文化財に指定。八坂神社の祭礼芸能で、神楽堂を中心にした行列(天狗・般若・奴・ひょっとこ・お多福・樽負い爺)が神楽宿を出て八坂神社に向かい、拝殿で神楽を奉納する。神楽は、ならし・かぐら・さんぎり・にぎまくら・三人舞から成る。祭神は牛頭天王で 天王さん とも呼ばれる。牛の神様として農家の信仰を集め、厄病除去・暑気払い・豊作祈願の祭り。
※「第十章 行事と食文化 表10-2 行事の記録 – 二〇二五年七月十四日 田歌の祇園さん」参照
十四日:祇園さん
熊壁 午前中清掃を行い午後三時頃から氏子が参拝。
十四日:八坂神社例祭
松尾
十五日:明神滝の祭り
洞 明神滝の上に立つ石を御神体として祀り、お神酒・魚・菓子をお供えする。滝に石を投げ入れると、石が滝つぼから流れでるまで雨が降ると伝える。
十六日:毘沙門天講
河内谷 門坊寺山の毘沙門天の祠を代表者二名と希望者が参拝し、お神酒・洗米・一升餅・海の幸・山の幸を供え、般若心経を唱えて下山し、区全員で宴会をもつ。昔は昌徳寺住職と村人全員が山を登り、祠の前で般若心経を唱え、お供えのぼた餅・野菜の煮物・酢の物のおさがりで宴をもった。
土用入り:虫送り
ところにより土用入り三日目か、稲穂が出揃う九月上・中旬頃の夜、松明(麻幹の中に肥松を挟んだものを四メートル余りの竹竿に付けて点火)を持ち行列を組んで、前列の者が「稲の虫送るぞ、稲の虫送るぞ」と言い、後列の者が「送ったぞ送ったぞ」と鐘ではやしながら上から下まで一巡し、稲につく害虫を追い払う。戦後は見られなくなった。
三埜・音海 麦ワラで馬の形を作り青竹に刺して持ち歩き、各家が害虫を串に刺して辻々に出して置くと、それを馬に刺して集落外れで馬と共に焼き払った。
盛郷 大正十二~十三年頃まで行なわれたが、養蚕が盛んになるにつれて蚕も虫であり、それまで送ってしまっては仕事にならないとの理由から廃止された。
二十日頃:土用の丑
ウナギ・肉・川魚などを食べ夏負けを防ぐ。ゲンノショウコ(健胃剤)・ドクダミ(毒下し)・ホタルノミツ(ウツボグサ、腎臓炎に効果)などの薬草を採取し陰干しにする。稲の黄熱病防除のまじないとして、栗と萩の木を田の水口にさす。アンコロ餅(骨つぎ餅)を食べる。ニラ、タニシの味噌汁を飲む(腹薬)。
盛郷 火災除けのまじないとして、竹筒に水を入れて屋根の棟木につるす。
今宮 すり鉢灸 正午にすり鉢を頭にかぶって外へ出て、てっぺんに灸をすえる、万病によく効く。
二十八日:不動明王祭り
原 奥日の元川の岩に不動明王像が祀られていたが山手の岩に移動された。野菜やお神酒を供えお経をあげ、毎月二十八日には当番の人が供え物を持ってお参りする。
八月の行事と食文化
六日:行者参り(行者講)
岩江戸 水行を行い、三~四名が奈良の大峰山へ代参する。
萱野(七日)当番の家に集まり法螺貝を吹き鳴らしながら行場の川に向かい、萱野橋の上流で水に浸り般若心経を唱え水行をする。
※行者参り(行者講)は五月八日、八月六・七日、九月七日にあり。
七日:七日盆
地区ごとに墓掃除や墓道作りをする。昔は池ざらえや 井戸替え を行なった。物洗いをする日とされ、寺や各家の仏具を磨く。
豊郷 この日に油気のものを洗うとよく落ちるといい、昔は土器(燈明皿)を洗い、女の人は髪の毛を洗った。
盆前頃:盆花
オミナエシ(キーバナ)、キキョウは山裾の柴草に混って自生、ミソハギ(ボンギク・ボンゲ・ボンゲバナ)は田の畦などに自生。
盆前頃:おしょうらいトンボ
盆前頃になると山野を飛び交う赤トンボ。
※二〇二五年八月二十三日 殿の上げ松祭場に向かう途中の田んぼの上にはたくさんのトンボが飛んでいた。
十日:仏さん迎え(お精霊迎え)
仏壇を掃除してシキビ・盆花・桐の葉の上にホウズキ・キュウリ・ナスビ・トマト・マクワ・ナンバ・トウガラシ・サツマイモ・ミョウガの子・柿等、自家の畑で取れたものや、ナシ・ブドウ・リンゴなどを供える。団子・菓子(ハクセンコウ)も供える。
和泉 前年七日盆から今年の七日盆以前に亡くなった者は、新仏として アラタナ(新棚)を設ける。縁側に青竹四本立てて棚を組み、上・後部・左右を桧の葉で飾って位牌を置き、花・供物をして祭る。雨縁から棚まで麻幹(おがら)の梯子を掛け、仏さんがこの梯子を登って棚へ上る。
田歌 ホウズキは仏さんへのお光り、ズイキイモを根付きのまま一株供える。この根はお精霊さんの おいそ(背負い具)で色々なものを背負って帰る。キュウリはお精霊さんの足に引っ掛かるので供えない。
静原 お精霊さんはウリかキュウリの舟に乗って帰るので、必ずウリまたはキュウリを供える。
板橋 仏さんへのお供物は、先祖さんは仏壇の上段に、無縁仏さん(家の仏壇に無縁仏を祀る?)には下段に、各々同じように供える。供物には麻幹の箸を付けるが、先祖さんは四ゼン、無縁仏さんは五ゼン付ける。
十三日:仏さん迎え(お精霊迎え)
板橋 タ方、家近くの辻のところまで迎えに行く。麻幹の松明をともし、花を供え線香を立てて拝む。戻って来てお茶湯を供える。
静原 朝、墓へ迎えに行く。花・団子、キュウリ・ナスビを細かく切って上からパラパラと白米を振り掛けたものなどを墓前に供え、線香を立て、水を供え「早よう来て下さい」という。戻って来ると、「落ち着き」と称して、ソーメン・南瓜の菜・間引き菜のお浸しを供える。
豊郷 タ方、表の障子を開け明かりをつけて待つ。
萱野 日暮れに一家の主人が墓へ迎えに行く。石碑のところに線香一本を供え、この火でもう一本の線香に火をつけて家まで持ち帰り仏壇の線香立てに立てる。心経を唱え「ゆっくり休んで下さい」という。
十四日:アラタナ参り
夜、親類・知人・隣近所の者は、新仏の家へお参りして詠歌をあげて供養する。
十四日:棚経・墓参り
僧侶が檀家を廻り読経する。その後、一家揃って墓に参り・シキビ・盆花・団子・菓子・ホウズキなどを供える。
十五日:施餓鬼参り
寺で施餓鬼供養の儀が行われる。寺参りをする、祭壇に飾ってある旗を貰って大根・白菜畑に立てておくと虫がつかないという。
十五日:仏送り(お精霊送り)
深見 朝、施餓鬼参り前に送る。「早く送らないとお精霊さんが寺の施餓鬼棚に上るのが遅れる」といい、早朝、花や供物を川へ流す。
静原 施餓鬼参り後、仏さんを送る。川の縁で線香を立て「機嫌よう帰っておくれやす」といって供えた物を川へ流す。お精霊さんはウリ(キュウリ)の船に乗って帰る。
豊郷 施餓鬼参り前に仏さんにソーメンを供える。仏さんはソーメンを食べてから寺の施餓鬼棚へ上る。施餓鬼参りが済んでから仏さんを送る。川原で線香を立てお供物を川へ流す。
河内谷 施餓鬼参り後、仏壇にソーメンを供える。念仏を唱えお精霊さんを送る。お供物を川へ流し、川原で三ヶ所に線香を立て、麻幹の松明を三ヶ所立てて然やし、この火で仏さんに供えた団子を焼いて食べる(腹薬)。
板橋 施餓鬼参りは十五日で、十六日朝仏送り、川原で線香を立て「何もお構いしませんでした、また来年も来ておくれやす」と言って拝んでからお供物を川へ流す。
板橋 盆の仏さんを送る時、イボを取るまじないをする。仏さんに供えた箸でイボを挾んで取る仕種をすると不思議によく取れる。
田歌 夜、お供物を墓道に置く。麻幹の松明を六か所立て火をつけて燃やす。
十六日:虫供養
川谷 谷川縁に「三界死去諸虫鳥鱗甲畜化各霊禽早出六道幽迷至清浄覚路(※下記参照)」と記した塔婆を立て、生花を供え、僧侶が読経し参拝者一同これに和する。昔は稲の出穂期(九月十五日頃)だったが、昭和三十八〈一九六三〉から施餓鬼の日に行なっている。
※三界(欲界・色界・無色界)において亡くなった、あらゆる虫、鳥、鱗を持つ生き物、甲羅を持つ生き物、畜生に至るまで、それぞれの霊魂が速やかに六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の迷界から脱出し、清浄なる悟りの境地へと至りますように。
十五・十六・十七日:盆踊り
各地の神社や寺の境内で行なわれる。丹波音頭 の踊り方には「流し」と言う基本型のほか、「文七」、「潮汲み」、「裾払い」、「見合わせ」などの型がある。二十三日の地蔵盆、二十四日の孟蘭盆まで、所によっては九月一日の八朔踊りにまた踊ることがあった。盆踊りが盛んだったのは昭和十四~十五年頃までで、一時踊りも音頭も完全に消滅しかかっていたが、音頭保存会や踊りの講習会が開かれるなど復活の兆あり。
十五・十六・十七日:盆踊り唄
丹波音頭 丹波北桑田地方に伝わる音頭が丹波音頭で、一名浄瑠璃音頭とも呼ばれる。浄瑠璃のさわりの部分に独特の節をつけたもので、音頭取りは鉦も太鼓も三味線も当にせず、ただ一人で美声を張り上げて語る。演目は、「お染久松」、「阿波鳴門」、「絵本太閣記尼ケ崎の段」、「忠臣蔵九段目」、「一の谷三段目熊谷陣屋の段」、「鈴木主水」、「玉藻前三段目」、「八陣」、「朝顔日記」など数十種あり。由来は、江戸中期、都からの布教僧がもたらしたというが、はっきりしたことは分からないとする。
佐々里 初めに丹波音頭で丹波踊りを、次に 「の皆さん音頭」、「ヤッサコサイ音頭」、「ヤッサ音頭」 の順で歌い踊る。「の皆さん音頭」 は「これ姉(あね)さん」ともいい、踊り方は「丹波音頭」と同じ、他の二つはそれぞれの踊り方をする。最後は「踊るも跳ねるも今夜ばかり、明日は山へと柴刈りに」と歌い踊り納める。 ※「京都広河原民俗誌」に因ると、広河原の盆踊りには「ヤッサ」「ヤッサコサイ」「コレアネサン」があり、昭和六十二年五月一日に「広河原ヤッサコサイ」として京都市登録無形民俗文化財に登録されたとする。(合いの手、囃子言葉等は省略)
の皆さん音頭
〽)踊りばんばの皆さん 踊り子が揃うた 二番そぐりの麻のような
〽踊りましょうぞやの皆さん 今夜の月に 月が山ばへいでるまで
〽月が山ばの皆さん すんばり※a星や西に 可愛いお方は目の前に
〽歌え歌えとの皆さん せきたてられて おめて※b出ませんある声も
〽情けないぞやの皆さん 音頭が切れた 腐り縄やらまた切れた
〽腐り縄ならの皆さん 切れるは覚悟 金の鎖でも切りゃ切れる
〽切れてしまえばの皆さん 他人さんじゃけれど 人が悪るゆや腹が立つ
〽腹が立つ時やの皆さん この子を見やれ 仲のよい時出来た子や
〽音頭取るならの皆さん 宵から夜中 夜明け音頭は誰も取る
〽音頭取りさんの皆さん 橋から落ちて 橋の下から泣き音頭
※a 金星 ※b はにかむ
ヤッサコサイ音頭
〽ヨーホヤユーホホホイ 思うて通えば千里も一里 会わず戻ればまた千里
〽ヨーホヤユーホホホイ 親と親との御相談なれば 行かにゃなるまい戻るとも
〽ヨーホヤユーホホホイ わしとあなたは御門の扉 朝に別れて晩に会う
ヤッサ音頭
〽西と言うたら東と悟れ
〽北と言うたら開けてくれ
〽わしの心と向いの山は
〽いつも青々待つばかり
〽思い定めて出る時や出たが
〽舟の乗場で親恋し
十七日:大般若経の虫干
庄田 観音堂に納められた大般若経を区民総出で虫干しする。
下旬:乾柴刈り
盆過ぎから八月中、時には九月半ば頃までかかり一年中牛の足もとを賄うだけの量、三百束分位の柴草を刈り取り天日で乾燥する。よく乾いた柴草を束ね、納屋や簡単な屋根をして野積みにして貯蔵し家畜の敷草にする。毎日二束ずつ「押し切り」で細かく切って馬屋に入れ、十日目ごとに「厩肥出し」といって牛舎の掃除をし、厩肥は田畑の元肥にした。機械化で牛を飼わなくなり柴草刈りは姿を消した。
下旬:分け刈り
除草剤が効かず稲穂に混じって穂を出したヒエを、種子がこぼれ落ちないうちに刈り取って焼いてしまう。
二十四日:地蔵盆
二十三日のところもあり、お地蔵さんを祭る子供の行事、盆踊りも行われた。
和泉 栄久院 江戸時代に新田への用水路開発で尽力した野々村庄の村役などを供養するため施餓鬼をした(今は八月十五日)。
二十四日:お千度まいり
八坂神社?に千本の竹を一本ずつ納めて女性がお参りする。男性はお堂で祈祷会があり般若心経を百回唱える。
二十四日:名残の盆踊り
お盆(孟蘭盆)もこの日までで、名残の盆踊りが行なわれた。
二十四日:寄せ市
安掛 正覚寺 明治三十二年〈一八九九〉頃に寄せ市が始まった。区民が日用品・衣類・電化製品・農作業で使う道具などの品物を本堂に持ち寄り市を開く。もとは困っている人を助けるためにその人の家財道具を少しでも高く買ってあげようと市を開いたのが始まりで、いつの頃からか今日のような不用品交換会のようになった。
二十四日:上げ松
殿・川合・盛郷 昭和六十三年〈一九八八〉四月十五日京都府登録無形民俗文化財に指定。宝永二年〈一七〇五〉七月二十四日(旧暦)に始まったとされる愛宕神社の地蔵を祀る行事で、五穀豊穣への感謝、家内安全、火伏を願い献燈する、一説では雨乞いの行事ともいわれ、若狭文化圏から入ってきたものと思われる。川合・殿・神谷・洞・田土・上吉田・林・庄田・脇・山森の各区で実施されていたが、上吉田と林は大正五年〈一九一六〉に田土と合併、神谷・洞・庄田・脇・山森は昭和初期に中止された。二十mある御神木(灯籠木とろぎ)の先端にカヤの茎で作った茶筅形の火受け(もじ)を付け、その中に竹枝・杉葉・ワラ・跑屑などの然えやすい材料を入れ花火も仕掛ける。もじの中央には高さ一㍍余りの青竹を立て弊束を結ぶ。笛と太鼓が「ぴーひゃらぴーひゃらとんとんとん」と囃すなか、長いひもをつけた松明をぐるぐる回してもじを目掛けて投げ上げる。もじが着火し、燃え尽きる頃に柱を倒す。その後、御弊を抜いて奉持し声を揃えて祇園囃しを歌いながら当人の家へ行きお神酒をいただいたという。
殿 上げ松立ての責任者の音頭に合わせて柱が立てられる。
〽どなたさんも心を合わせて ヨーイトセー
〽山手が弱いぞ ヨイトセー
〽もちょっと弱いぞ ヨーイトセー
〽川手が弱いぞ ヨーイトセー
〽もちょっと弱いぞ ヨーイトセー
夕方、公民館から祭場の川原まで笛や太鼓で 導き といわれる曲で ねり込み が行われる。
二〇二五年八月二十三日、午後八時から殿の上げ松は始まった。ほどなくして投げ上げられた松明のひとつがもじに入り着火した。同時間帯に盛郷の上げ松も始まったそうだが、殿よりも高い御神木のもじに松明が入らず、二回低くして入ったそうである。当日の様子は左記記録を参照のこと。
※「第十章 行事と食文化 表10-2 行事の記録 – 二〇二五年八月二十三日 鶴ケ岡(殿)の上げ松」参照
盛郷 大人用と子供用があり、区の人数が少なくなったため機械で柱立てをしている。祭場に設置された案内板には次の解説あり。(判読できない文字は?を表記)
宝永二年〈一七〇三〉七月二十四日(現在?に始まり愛宕神社神明火祭という火?防を願っての行事で愛宕神社代?れである。昔は鶴ケ岡地区の各集落で行われていたが、現在は盛郷地区と殿・川合の集落で実施されるのみ。盛郷地区は林と上吉田・田土の三集落が大正五年に併合し現在に至っている。当日は盛郷総出で上げ松場の清掃もし?御神木起こしの準備をする。昔は杉の木の大木を山から切り出し(山持?寄贈)周囲五尺余長さ十二・三間のものを上げ松場まで運び(?新木に取代え)青年の手により準備を整え盛郷全戸より出役し又木等で二時間余りを要してたてたものである(昔の上げ松場は西田岩?家と?家の中間の河川敷が河原で上げ松場であった)。昨今は機械力によりまた御神木は?改造されてたててから適当な高さに心木を滑車で上げる仕組で短時間でたて終わるようになった。午後八時頃から公民館より笛太鼓で囃しながら一同錬込みを行い子供用大人用の二基の炬火投げ入れの競演が行なはれる(忌中者女人は禁場)もじに点火し御幣の落下があり火元当番がひろいあげもじの火が?方燃えつきるのを待ってこの行事は終る。昭和六十三年に京都府登録無形民俗?として指定された
※二〇二五年八月二十三日、祭事が行われる前の現地の様子については、「第十章 行事と食文化 表10-2 行事の記録 – 二〇二五年八月二十三日 鶴ケ岡(殿)の上げ松」を参照
二十四日:松上げ
芦生 平成元〈一九八九〉年四月十四日京都府登録無形民俗文化財に指定。旧知井村の数ケ所で行われていたが現在は芦生のみ。形態は上記上げ松と同様であり、灯籠木の先に付けた笠(もじ)への着火を競う。佐々里峠を京北に下った、花背や小塩にも松上げ場があり、旧弓削庄の文化圏に属していたものと思われる。
二十四日:愛宕山献火祭
各地区の愛宕神社に肥松(こえまつ)と苧幹(おがら)を混ぜあらそ(麻の皮)で縛った松明を二㍍ぐらいの竹の棒に括って持って上がる。境内で火を焚き松明に火を分け、拝殿にお神酒やお供えをして防火の祈願をする。終わると火のついた松明を持って下山する。京都の愛宕山へ代参し講をもつ集落もある。※四月二十三日 愛宕山参りと愛宕講 を参照
板橋 八月十五日に献火祭を行い、下山道の所々に松明を立ててくる。
今宮 「今宮風土記 第三号 二〇一八年一月 によると、今宮区の「上松」は、平成二十二年〈二〇一〇〉八月二十四日(盂蘭盆)まで行われていたが、今宮神社から津向山に向かい旧奈良井道を三十分ほど登った所にある祭場まで行くのが高齢化により大変になり取り止めとなった。殿・盛郷・川合区のような「もじ」の先端に松明を投げ入れる様式ではなく、御神酒とかぼちゃ料理、松明二束を祭場に持参し、松明に火をつけて奉納、火の用心と豊作を祈願した。全ての松明が燃えるともう一本の松明に火をつけて各戸へ持ち帰り、水田近くに用意した三~四mの竹の先に刺して燃え尽きるまでお供えし、害虫対策も兼ねた(同誌に当時の様子が分かる写真が掲載されている)。
松尾 山の高台に紅葉色の提灯で「大」の字形を作って灯りを入れ愛宕山に送り火として奉納する。
九月の行事と食文化
一日:八朔祭り(南瓜祭り)
砂木 子安地蔵(時雨地蔵)の祭りで「田実(たのみ)の節句」として豊作を祝う、町内最後の盆踊り。「暮らしの歳時記」では南瓜祭りとしている。南瓜料理を持ち寄り会食したが、今はぼた餅・餅・菓子・果物などを供える。
七日:行者参り(行者講)
向山 行者講と水行を行う、大峰山へは時折代参する。
※行者参り(行者講)は五月八日、八月六・七日、九月七日にあり。
十五日:放生祭り(ホーゼ)
秋祭りのはしりで、各地区の八幡宮を祭り、餅まきが行なわれた。※放生祭り(ホーゼ)は九月十五日、十月十五日にあり。
下吉田 八幡宮 宝永年間〈一七〇四~一七一一〉文書に、同社が集落の神社として崇拝されていた、とある。
深見 八幡宮 昔は 一の谷 の谷沿いに立てられていた(石組みが残る)。野菜などを供え、石清水八幡宮から受けた祝詞をあげる。サトイモを初掘り し、かやくご飯 に入れて食べる。
長谷 妙見宮 昭和の始め頃までは奉納相撲があり、出店や浄瑠璃語りがあったが、今は区民のお参りのみ。
中旬:栃の実拾い
「二百二十日から栃の口があく」といい、栃の実拾いの解禁日。拾った実は二~三日水に浸けて虫除けをした後、ムシロに広げて天日で乾燥し、袋詰めにして保存、餅にする。
栃原 鶴ケ岡振興会SNSに、二〇二五年九月六日、栃原区で恒例の栃の実拾いが行われ、午前八㎏、午後十㎏の収穫、今年は不作で次回以降に期待、との投稿あり。
二十一日:芋名月
旧暦八月十五日にサトイモの初掘りをする。
盛郷 この日に限ってサトイモは何処の家の畑のものでも掘ってよいとされていたが、他人のものを掘ったことも掘られたこともなかった。夕飯にはサトイモの飯をいただく。タ方から月の見える縁側へ机を出し、お盆に蒸したサトイモを盛付け、花瓶にススキ・山ハギをさして飾り、月見をしながらサトイモを食べる。ナスビに穴をあけ、その穴から月を拝みながら願い言をすると、お月さんが願いを聞いてくれる。
静原 いくら大きくなっていてもこの日までは掘らないし、出来が悪く小さくても必ずこの日に初掘りする。サトイモはきれいに洗って生のまま盆にサトイモの葉を敷いて南瓜と一緒に載せる。タ方、サトイモと、花瓶にススキ・ズイキをさし雨縁に置いてお月さんに供える。サトイモは後でご飯やおかずにして食べる。
十月の行事と食文化
神無月
全国の神々は出雲に集まる。美山の神々は九月三十日に出雲に発つ。
盛郷 神さんが出雲へ行く日(九月三十日?)に 小豆飯 を炊いて神棚に供え、お光りをあげて拝んだ。十月三十一日の帰って来くる日にはまた 小豆飯 を供えた。神さんが留守の間は漬物も漬かりにくい、縁談話はまとまらない。
豊郷 九月二十五日には天神さんが宿屋の手配のため、他の神さんより一足先に出雲へ行く。神さんが出雲へ行く日にはよく雨が降る、これは日和だと塞の神が菅笠持ちは嫌だというからである。明神さんは出雲へは行かない、ご神体は長もの、道中牛馬に踏まれて苦しいというと、お前は来なくてもよいということになった。愛宕さんは火の守りのため村へ残る。「愛宕さんの留守見舞い」と称してぼた餅を作って食べる。
亥日:亥の子
亥の子餅(ぼた餅)を作って隣近所に配り歩く。この日一日、農道具は一切使わなかった。大根畑へ入ってはならぬ、入ったら大根が腐る、割れるという。田の神さんは普段は家の中に居られ、春の亥の子から田圃へ出て田の番を務め、秋の亥の子になると田圃を引き払い家の中(若者夫婦の寝室)に入って休む。
盛郷 大根が太る音がする。これを耳にすると耳が聞こえなくなる。亥の子は春・秋の年二回あり、春は三月の亥の日で、田の神が田圃の番をするために家の中から田圃へ出る、この日はぼた餅を作って神仏に供え、秋は田の神が田圃も済んだので家の中に入るといい、またぼた餅を供えた、秋は亥の子までに取入れを済ませた。
板橋 火の用心がよいと、この日から炬達を入れる。
武主神社祭礼
和泉
四日:高野天満宮祭礼
栃原 高野が宮島に属していた頃は、菅原神社の氏子だったが、鶴ケ岡に組み込まれてから高野の神社として天満宮を創立し祀るようになった。(二〇二六年四月十日『美山考』座談会)
五日:諏訪神社祭礼・千両祭
川合 諏訪神社 豊郷 盛郷 福居 鶴ケ岡(字鶴)高野 平成三年〈一九九二〉四月十九日京都府登録無形民俗文化財に指定。諏訪神社の祭礼芸能で、三十年毎の大祭、十五年毎の中祭は「棚野の千両祭」と呼ばれ、高野は神楽、鶴ケ岡は俵振り・神楽、豊郷は獅子舞と姫振り踊り、盛郷と福居は棒振り、太刀・長刀振りを奉納する。年毎の祭礼(十月十五日)は、どこかの氏子が特設舞台場で芸を奉納していたが、現在は実施されていない。
地元の方の話によれば、祭礼の前夜四日には、宵宮祭りの奉納相撲は大人相撲が行われていたが、参加する人が減って子供相撲になり、その後、女の子も参加するようになったが、今はもう行われていないそうである(二〇二五年九月十日記)。
二〇二六年四月十日『美山考』座談会で、豊郷では古くから(室町の頃からか)風流踊りが奉納されていたこと、風流踊りは、昔は鈴波神社・諏訪神社・もう一神社(名称失念)の三社で、三日連続で行われていたが、いつの頃からか諏訪神社でのみ行われるようになったこと、高野は宮島から鶴ケ岡に組み込まれてから祭りに参加するようになったこと、神楽は道相神社や田歌の八坂神社(祇園さん)など美山各地で行われているもので、字鶴や高野の神楽はその流れをくむものと思われること、千両祭りの名称になったのは明治以降であるが、歌の書物はそれ以前のものが残っていることを確認した。
二〇二五年十月五日にはコロナ禍で中止した千両祭りが斎行された。当日の様子は左記に記録した。
※「第十章 行事と食文化 表10-2 行事の記録 – 二〇二五年十月五日 諏訪神社大祭 棚野の千両祭」参照
六日:鈴波神社祭礼
松尾 午後六時に神事を行い、お神酒をいただく。二年に一度神職に来てもらう。例祭前に松尾・神谷・名島の男性氏子でしめ縄づくりを神社で行い、鈴波神社、八坂神社に祀る。
七日:八坂神社祭礼
洞 午後四時から祝詞奏上などの神事を行う。一年間のお礼参拝をする行事として、十二月一日に社殿を三十三周する「八坂神社願すまし」がある。
九日:道相神社祭礼
宮脇 道相神社 平成十一年〈一九九九〉三月十九日京都府登録無形民俗文化財に指定。道相神社の祭礼芸能で、十月九日頃に行われる。二十五年毎に社殿の屋根を葺き替える際に御神体を仮社殿に遷し完成の時に行う正遷宮祭を大祭とした。毎年平屋地区から雅楽が奉納されるが、大祭では宮元四集落(原・板橋・宮脇・下吉田)の氏子が神楽を奉納する。神楽行列は、大太鼓の曳山、天狗と獅子、おかめ・ひょっとこの道化芸、伊勢音頭に合わせた恵比寿と大国の幟差と俵振りの構成。原や板橋から出立し道中それぞれの芸を披露し神社に奉納する。昭和四十四〈一九六九〉に神輿が新調され毎年神輿と稚児行列が平屋神社(野添)へ向かい氏子地区を一巡したが今は大祭時に巡行。昭和五十三〈一九七八〉に本殿の屋根が銅板葺きになった時の正遷宮祭を最後に、平成元からは三年ごとに行うようになった。馴れ寿司・餅などを食べる。
宮島振興会事務所で次の大祭がいつ行われるかを尋ねたが、実施の予定はされていないとのことだった。二〇二五年十月十一日、秋の例祭に参詣した。数日前の強風により鳥居が根本から折れ撤去されていた。当日の様子は左記を参照のこと。
※「第十章 行事と食文化 表10-2 行事の記録 – 二〇二五年十月十一日 道相神社 秋の例祭」
十日:八幡神社祭礼
北 雅楽演奏奉納、四年毎の神輿巡行。
十日:菅原神社祭礼
静原 菅原神社 大祭は二十五年毎に万灯祭が行われる。神楽、幟さし(はしごの上で幟竿を操る)、男子は太鼓打ちを奉納、女子は花笠をかぶり曳山を曳く。例祭は神輿を巡行する。平成五年〈一九三三〉の例祭で神輿や稚児の巡行を奉納、以後隔年となったが、現在は宮司・役員による神事の後は氏子のお参りだけになった。
十日:からす田楽
樫原 川上神社 昭和五十八年〈一九八三〉四月十五日京都府登録無形民俗文化財に指定。大原神社の摂社、川上神社(猿田彦命)の祭礼で、九人衆(ビンザサラ四・太鼓四・笛一)の講により奉納される田楽躍。講は定員九名で、長男が結婚すると講員となり古い順に一人ずつ抜けていき、古参順に祭りの頭屋(とうや)を務め、家の改修やもてなしなどで物入りなため 去に講(いにこう)、或いは、鯖のなれ鮨を四斗樽に漬け込み田楽奉納後に直会をしたことから「鯖講」と呼ばれた。長老順に太鼓の大中小、ビンザサラ、最後の一人が新入りで「かぁ、かぁ」とからすの仕草をする。社務所内で演じたあと山の神の祭場(祠はなく榊の木の枝に二股枝が掛けてある)に移り、神主の祝詞のあと田楽躍を演じる。躍が終わると供物として新藁で作った「つと」を燃やし神主が弓を射る行事を行う。そのあと再び神社に戻り三たび演じる。夕食は もっそうめし と称する木皿に高盛りした飯の周りに五菜を並べたものを食べる習慣や、直会餅(なおらいもち)を子供たちに配ったとされるが、現在では全てなくなり社務所で簡略化した行事を行う。現在はスポーツの日に行われている。
「美山伝承の旅」に「からす田楽」の説話が載る。
二〇二六年四月十日『美山考』座談会時に、祭りの最後に、白米を粉にしたものをふるまうことから、山の神を祀る行事のひとつとされていた。
二〇二五年十月十三日に斎行された「からす田楽」の様子は下記を参照のこと。
※「第十章 行事と食文化 表10-2 行事の記録 – 二〇二五年十月十三日 川上神社 からす田楽」
十日:毘沙門天祭り
深見・長尾・野添・安掛 氏神祭り。
十日:不動明王祭り
萱野 舟ケ迫 の山に滝があり不動明王像が祀られている。洗米・お神酒・樒などを供え、般若心経を唱える。
十日:金毘羅講
金毘羅を祭る行事、伊勢講と同様。
馴れ寿司
鯖寿司の一種。一塩した小鯖の骨を取り、塩味にした飯で寿司を作り一つ一つササの葉で巻いてワラで結び樽の中に漬物をするように重ねる。空気が入らないように寿司と寿司の間に飯を詰めて、一番上にササの葉を並べて押し蓋をして、一昼夜後上に水を入れ重石をして一週間おく。食べる前日に樽を逆さにして水を抜く。漬けている間に発酵し程よく酸味が効きササの香りがする。
中旬:笛鹿狩り
明治~大正初期、丹波山中で笛鹿狩りが盛んだった。猫かヒキガエルの皮で作った笛で雌鹿の鳴声に似せて吹き、雄鹿を近くまでおびき寄せて撃ち取る。繁殖に差し支えるとの理由で禁じられ、鹿笛の吹き方が難しく自然消滅した。
中旬:鎌納め
昔の稲刈り期は約一ヶ月遅く、稲刈り後の休日。稲刈りに使った鎌を納める行事で、鎌を洗って台所の隅やかまどの上に置き、お光りをあげ、かやくご飯 を供えた。サトイモを初掘りしてその飯を作る家もある。
十五日:放生祭り(ホーゼ)
肱谷 八幡宮 文化十二年〈一八一四〉文字四郎兵衛により開削された用水路の完成日四月十三日を例祭としていたが、明治年間の宮改めで七月十五日に変更、現在は十月十五日になった。
※放生祭り(ホーゼ)は、九月十五日、十月十五日にあり。
十八日:豆名月
月見の風習は無く、旧暦九月十三日に大豆を茹でて食べる。この日に限り大豆は何処の田や畑のものでも取ってよいとされたが、今はもう見られない。
下旬:カヤ刈り
十月下旬頃~十一月半ば頃、田畑の畦や山裾に自生するカヤを刈る。カヤを一本一本根元から刈り取り適当な大きさに束ね、二十把ずつ一まとめにして春先まで野原に立てておき(カヤ小場)冬の間に乾燥させる。毎年カヤを刈って少しずつ貯えておき、十年か二十年の屋根の葺き替えに備える。カヤを計る単位は「〆(しめ)」で、一〆は、二間縄一杯分(カヤを横並べにして二間縄で束ねた量)で数にして二十五把位。
萱頼母子講 を行ってカヤを融通する制度もつ集落もあった。葺き替えに必要な費用を貯め、葺き替えをする順に借用できるようにした。カヤを何〆かずつ借用したり、カヤ狩場を融通してもらうのを萱頼母子講で決めた。
十一月の行事と食文化
十日:エビス講
恵比須さんを祭り、お神酒、供物を供え酒宴があった。大根・ニンジンの煮付け、甘酒などの御馳走があった。昭和十年〈一九三五〉頃を最後に行われなくなった。
十四日:申し上げ(男念仏)・念仏(女念仏)
今宮 「今宮風土記」第四号 二〇一八年二月発行によれば、平成二十一年〈二〇〇九〉年五月十四日に、最後の申し上げ(男念仏)と念仏(女念仏)を男女合同で行いとりやめたとする。その時の写真も掲載されている。念仏講は浄土宗で行われる行事だが浄土真宗や曹洞宗の檀家も加わって全戸が参加して行われた。
男念仏 各戸が順に宿を勤める毎年十一月十四日と、葬儀の翌日に行われていた。各宿の仏壇に蝋燭と線香を灯し、阿弥陀如来像を据え、十㍍ほどの数珠を円状にした中心には導師が座って鐘(径二十㎝・高さ十㎝)を打ちならし、全員で数珠を百回廻しながら南無阿弥陀仏を唱和する。す。大ぼた餅(暑さ五㎝・径二十㎝二段)が御膳に並べられ清酒も入って歓談した。葬儀の翌日については大ぼた餅はなしで今も実施している。
女念仏 毎月十四日前後に各戸持ち回りで行われていた。男念仏と同様の様式で行い、線香の火が燃え尽きるまで唱和した。八月はお盆に「廻り念仏」と称し一晩で全戸を廻って念仏を唱える行事になっていた。
二十三日:大師講
弘法大師を祭る行事。
深見 小豆粥を食べる風習があったが、今はもうみられない。
中旬~:箸納め
箸(扱き箸、こきばし)を納める脱穀終了後の行事で、昔は金扱き、今は脱穀機にお光りをあげてぼた餅を供える。
松尾 大正期、脱穀終了後 トリソべ といって、脱穀したての籾(二升位)を蒸して炒り鍋で炒り、石臼でひいて荒摺りし(籾の皮を取る)箕で籾の皮を除く。これを(香煎の荒いようなもの)を茶碗に入れ、塩少々混ぜて熱湯をかけて食べた。
からさおがち
からさお(穀竿・連枷、美山地方では「からさご」という)は、柄が百二十㎝余、その先端に自由に回転出来る六十㎝程の棒が付いている。柄を持って振り先端部を回転させて、脱穀機で扱き落した穀物(稲、麦・大豆も)の穂を打って粒を落す作業をからさおがちという。
からさおがち唄
盛郷 〽面白いぞえからさごがちは 上げて下してまた上げる
〽からさごがちすりゃ手に豆出来る いとし殿御と寝てつぶす
〽お前さんとならわしゃどこまでも 長い刀の末までも
臼摺り
臼ひき・摺りともいい、籾の皮を取る作業で、稲の脱穀乾燥後、十一月半ば頃から十二月中頃まで行なわれた。
臼摺り唄
歌われたのは大正初期までだったが、作業の方は昭和二十二~二十三年〈一九四七~一九四八〉頃まで続いた。
盛郷 〽臼の元引きは重たいものよ 歌うておくれよしもくから
〽ほんにそうかよたのうたもとへ 歌うておくれよしもくから
〽臼よ廻われよ廻われよ臼よ 廻わりさえすりゃ名は立たん
〽臼よ廻われよしんぼは金よ 辛抱する木に金が成る
〽わしの小さい時やちりめん襻 今は縄帯縄襻
〽お前思うたらこれ程やせた ふたよ(二重)まわりがみよ(三重)まわる
佐々里 〽団子粉ひきゃ嬉してかなん 食わん米踏みゃ腹が立つ
〽じさんばきんの機嫌どりしょより 何は無くとも差向い
〽臼の元摺り小姑がよかろ 嫁をふろとて軽るかかる
〽臼よ廻われよ程よく落ちよ 廻わりさえすりゃ米が出る
〽臼よ廻われよきりりとしゃんと これでこの臼摺り納め
河内谷 〽臼よ廻われよ廻われよ臼よ 臼の前歯でそそよとよ
野添 〽細い松葉の気を持つよりも 広い芭蕉葉の気を持ちゃれ
〽寝たい眠たい眠たい時は 馬に五十駄の金もいや
〽馬に五十駄の金さえあれば なんの寝たかろ眠むたかろ
柿 柿は全部取らず一つだけ残しておく(木守りさん)ことで来年の豊作が信じられた。冬に木守りさんを狙ってやってくるカケスやヒヨドリに、豊作の喜びを分けてやろうとする思いやりから生まれた風習かもしれない。甘柿はクボ・富有・次郎・御所・百メ・アンダイ、渋柿はダイシロ・タワラモト・ミシラズ・カンコネリ・焼き柿などがあり、ダイシロは熟柿、タワラモト・ミシラズは乾柿、カンコネリは醂(さわ)し柿にする。
焼き柿 細長の小果でススをなすり付けたような模様があり舌が裂ける程渋いが、火で焼くと飴のように甘くなる。
醂し柿 ワラビのホトロ(茎葉)を煮出した生温湯の中に柿を入れておくと渋が抜ける。
八原 昔々汚い衣の旅僧が在所を通った。真っ赤な柿を見て「一つくれ」と頼んだら、意地の悪い婆は渋柿だから食えんとウソをついた。それからここでは、甘柿でも渋うなってしまった。旅僧は弘法さんで、人の心を試そうと、わざと乞食坊主に姿を変えて方々を廻っていたらしい。
カケスと栗 カケスは人里近くの栗林に集まって残り栗を拾い集め、後で食べるため近くの畑に隠す、春先畑打ちをしていて、土の中からカケスが忘れた栗を発見することがある。
野添 カケスの習性にヒントを得て、秋栗が取れると生のままミカン箱や木箱に入れ、上から川砂をかぶせ、日当りのよい畑に埋めて春まで貯蔵し、栗が珍しくなる時分に取り出して食べる。
雪ん坊
山の紅葉が終わる頃、真白い小さい虫(雪ん坊)が天気のよい日の夕方近くに二~三匹ずつ綿屑のように浮遊し冬の訪れを告げる。山の頂上が雪で白く染まる(山がだけをまわす)と雪は段々下の方へ降りてくる。雪ん坊にせきたてられるように、白菜・大根・カブ などの収穫と、漬物漬けや野菜の貯蔵 など冬ごもりの準備に追われる。
サブイチゴ(寒イチゴ)
冬枯れの山裾や杉木立の下で サビイチゴ(寒イチゴ)が小粒でも真赤な実を三つ四つ連なっている、酸っぱい味がする。イチゴに夢中になっているヤマドリを狙ってわなを仕掛け捕まえて食べた。
十二月の行事と食文化
山の口
西浦左門氏が「近畿民俗 第八十二号 昭和五十五年一月二十日発行に寄稿された「丹波美山の山の神祭り」に詳しく報告されているものの要点を以下に記す。
山の神の祭礼日で、春は山仕事の安全を祈願し、秋には無事仕事を終えることができたことに感謝する儀式であり、この日は山に入ると災があるとされ山仕事を休む。山の神は嫉妬深い女の神さまで、春は山に草木の種子を蒔き、秋にはそれを拾って歩く、あるいは弓を射る日とされる。祭礼は準備を含め原則男性だけ(但し七十歳以上の女性は除く?らしい)で行い、地区によって実施日や様式、供え物は様々である。ご神体は、杉の立ち木、岩(音海・野添・今宮)、石(原)、男根を象ったもの(向山)、「大山祇神」と書いた木札(長尾)、「奉謹請山の神守護」と書いた塔婆(肱谷・樫原)などがある。シロモチ(米の粉で作った団子)を供えるのは共通しているようである。予め決められた当人(二~三人、交代制、その年に穢れがない者、世帯主、男)が祭主となり、神前にしめ縄を張り(萱野では山の神の領地は三十三尋として祠の周囲三十三尋にしめ縄を張り巡らす)、御幣を立て(平年十二本、閏年十三本)、お供え物をして当日朝五時頃から神前で大火を焚き参拝者を待つ(樫原では藁のつとに入れたスリヌカを燃やす)。参拝者はお神酒、お供え物をいただく。朝参拝を済ませたら解散となるが、午後「山の口講」を開く所もある。当家や公民館に集まり酒宴を開き、当人は野菜を中心にした料理を用意する。荒倉・大内・内久保・南・中・白石・佐々里・下吉田・静原・脇では行われていない。
二〇二六年四月十日『美山考』座談会時の談話。オコゼ(醜い姿)を供える風習がある(芦生では鯛を供える。広河原地域も同じ風習)。鯛(美しい姿)を供えると男の気がそちらに向くのではないかとやきもちを焼くからである。米を粉にしたもの(精子を表現)を供える。川上神社の「からす田楽」も山の神を祭る流れからきたものであり、神事で弓を射た後、焼いた米の粉をふるまう。山の口は今も行っている地区があり、洞では冬に行っている。
一月五日:向山
一月六日、十二月亥か巳(早い方):岩江戸
一月九日:今宮・栃原・上平屋・北・又林(当人が大きなぼた餅を二つ供え、お参りしたものは一箸ずつ取っていただく)・下平屋(シロモチではなく ぼた餅を供える。)
一月九日、十二月九日:山森・庄田(小豆飯を供え参拝者は少しずつ手にもらっていただく)・田土・上吉田・林(左記三地区は、小豆飯を供え参拝者は少しずつ手にもらっていただく。春は弓(孟宗竹で作る)と矢(麻幹か萱の茎、つるは麻)を供える。木箱に紙を張って的を作り、参拝者は十㍍位の所から的を射て、うまく当たればその年は縁起がよいとする。秋は板のオコゼを鉤竿にぶら下げて供える。御神木に鉤を掛けて山の安全を祈る(鉤掛け)。林では宿で講を開く)
一月亥か巳(早い方)、十二月亥か巳(早い方):大野・肱谷・小渕
二月七日、十二月九日:原
二月九日:砂木・棚・和泉(山の口講を開く)
二月九日、十二月九日:板橋(山中の「鉤の森」に杉の古木があり、山仕事でここを通る者はその場で鉤を作って枝に掛ける(鉤掛け)。山で怪我しないように、男の子が一人歩きするようになると山の神に引き合わせる(子祭り))
二月九日、十二月九日:宮脇(山の口講を開く)・島(シロモチは酒で溶いて団子にする。御神木に鉤を掛けて山の安全を祈る(鉤掛け))
二月十一日:上司
六月、十二月十四日:知見
七月一日、十二月一日:下
十月十日:樫原(昆布、大豆(サヤごと茹でたもの)、牛蒡、大根葉、トコロ(山芋科の多年生つる植物)を供える。山で道具を失った時、鉤を作り辺りをかき分けて探すと見つかる)
十一月九日:江和
十一月亥の日:名島(シロモチはうるち米ともち米を半々の割合で作る。御神木に鉤を掛けて山の安全を祈る(鉤掛け)。山の口講を開く)・洞(シロモチの中に餡を入れる)
十二月一日:長尾
十二月九日:熊壁・川合・河内谷・長谷・深見(里芋の串刺し、小豆の煮もの(山の神は小豆が好き)、大根と人参のなますにシイラの身を混ぜたものをサルトリイバラの葉に盛り付け、竹で作ったミニかんじきに載せて供える。黒豆の煮たものを竹の串に十二個刺し、里芋を六個串にしたものを供える。山中に「鉤掛けの桜」と呼ばれる山桜があり、枝には鉤がいっぱい掛けられていた。)・田歌(一月二日の工初めに歳神に供えた山道具を持って山へ行き、鉤形の枝を伐って御神木に掛ける)・殿・船津・松尾・神谷(左記四地区は山の口講を開く)・川谷 (山の神の祠にはオコゼの飾り物がはめ込んである。オコゼを供えると言って山の神を喜ばせ、実際には手に入りやすいカレイを供える。騙したことが神さまにバレないうちにすぐに下げる。
十二月十日:野添(サイコロ形のシロモチを三つ持って参り、一つは神さまに供え、もう一つはその場で焼いて食べ、残る一つは当人に渡す。当人は受け取ったシロモチを一つに練り直してサイコロ状にし(山の神は博打が好き)講のとき各膳に一つ付ける。杉の木でオコゼを一対作って神前に立てる。公民館で講を開く。新しく伐った木で御膳と箸を十三基作る。十二基は山の神配下の神の数。一戸に米二合ずつ出しあって甘酒を作って供える)
十二月十五日:安掛
十二月亥の日:芦生(当人は大鯛二尾、各人は小鯛を二尾供える。当家で講を開く。※「京都広河原民俗誌」に因ると、広河原地域も鯛を供える)
十二月亥か巳(早い方):萱野(大根(賽の目切り)、大豆(実)、米(昔は麹)の三種を湯で洗ったものと五菜を供える。御神木に鉤を掛けて山の安全を祈る(鉤掛け))・音海(ユリダ(フジの木)を割って板(縦二十五㎝、横十㎝)を二十四枚(閏年は二十六枚)作り、十二枚ずつ紐で束ねて二組にし(各々板の最上部には一つは魚(オコゼ?)、もう一つには鳥(鶏?)の絵を描き神前に敷いたコモの上に載せて供える)
十日:妙林講
大野 蓮乗寺 けんか田事件で大久保権太郎等四名を救った妙林院日樹法尼の命日。※「第十一章 伝承と人物 大久保健太郎」参照
十日過ぎ:ユリダ
正月の餅蒸し用の然料としてユリダ(フシの木、ヌルデ)の薪を使う。ユリダの木は生木でもよく然え火気もあり、乾いた薪と生木の薪を混ぜて使うことでうまく火加減が調節され、餅米の蒸しがよくピカピカ光った強い餅が出来る。
中旬~:ひねこうこの菜
ひねこうこは古漬け沢庵のこと。漬物桶の底に残っている こうこ をたいてお惣菜にする。こうこ を半日位水に浸けて塩出ししてからたっぷりの水でたき出し、柔らかくなったら醤油・砂糖・煮干・化学調味料・唐辛粉少々を振りかけ佃煮風に煮つめる。
中旬~:納豆ねさし
しめの内に食べる納豆は暮れのうちにねさしておく(正月早々「ねる」とはゲンが悪いから)。大豆をハガマで煮てワラのつとに入れ、周りにあくたをはらせコモで巻いて荷造りし、いろりの上の「こあま」(小天井)に下げる。下から火を然やすので火の用心が悪いと、夜通し納豆の番をすることがあった。長い竹串をコモの上から突き刺し、糸の出来具合を確かめる。いろりが無くなってからは スリヌカ納豆 といって、つとを籾殻の中に入れたり、炬達で温めたりしてねさしている。納豆は正月に 巻き餅 にして食べる。
中旬~:松迎え
正月の門松や松飾り用の松やウラジロ、ユズリハなどを山へ取りに行くのを松迎え、お松っあんはやし、松祝い、お飾りさん取りという。家によりまちまちであるが、早いところでは十二月半ばの 事始め に、大抵正月の四~五日前から三十日頃までの雪の降らぬ日を見計らって取りに行く。取り方には昔からのしきたりがあって、一家の主人(男)が吉日を選んで、午前中に山へ行って取る。場所は自分の家より上(かみ)から、特に松は山頂付近から取る。川原の松は大きくなることはなく祝い事には向かないので取らない。歳神さんの松はしんの立ったもので、三か五の奇数段の枝の付いたもので、松毬が沢山付いているものを用いる。ユズリハは、真赤な柄のものを取る。普段人があまり近寄らない所に高い木の台を設えて、お飾りをする日まで(三十日か三十一日)大切に取っておく。
板橋 五段五車の松(五段の枝で、各段にそれぞれ五つの小枝が付いているもの)がよく、米が豊作になるようにと松毬が沢山付いているものを取る。
二十二日:冬至
中風除けに南瓜と小豆のお粥を食べる。
盛郷 南瓜のおかゆを食べる。中風除けのほか、川へはまった時、体が浮いて助かる。
板橋 小豆粥を食べる。小豆粥を柴の葉に載せて柿・栗の木に供えると来る年は豊作。
二十三日:弘法さんの足跡隠し
弘法さんの足跡隠しといい、必ず多少なりとも雪が降る。
※「第十一章 伝承と人物」 表11-1「美山伝承の旅」の「弘法さんと粟団子」参照
二十五日~:すすはき
長い竹竿の先にササを付けて部屋中の天井を掃く。未と丑の日は火早い(火災が起こりやすい)といい、すすはきは避ける。二十九日までに終わらせる。
二十八日:餅つき
二十九日は 苦餅 といい餅つきは忌み嫌う。昔は餅をつく量も種類も多く、二~四斗位、白餅・栗餅・キビ餅・ヨウ餅(ヨモギ餅)・栃餅など様々な種類の餅をついた。最近では餅つき機の普及で杵の音もあまり聞かれなくなり、白餅のほか、ヨウ餅・栃餅を作る程度。
二十八日:栃餅
栃餅は栃の実と餅米を蒸して、ついて作る。栃のアクを取るため少し大きめの容器に皮をむいた栃の実を入れ、栃と同量の木灰を上から振りかけ熱湯を注いでかきまぜ二日程おく。栃の実は枡目で一升二升と数えるので、例えば栃の実一升につき木灰も一升。アク抜きに使う木灰は、樫木・カシ・ナラ・クヌギなどの灰がよく、ワラ灰や栗・フシ・ウルシなどの灰ではアクが取れない。アク抜きが出来たかどうか、一粒火で焼いて食べてみる。アクが抜けたら手早く処理する、長時間そのままおくと元に戻ってしまう。栃餅はカビない。栃の実の皮は栃へしで取る。細長い板を二枚合わせ先端部を固定し、板と板の間に栃を挟んでキリキリと皮をむく。
二十八日:餅花
ワラを三本か五本を一束にしたものを合わせて元を括り、これに餅をくっ付けで歳神に供える。
豊郷 木モチ花といって、ツツジの枝に小餅を付けて稲荷に供えた。
神谷 マユ玉といって、米の粉でマユ形の小餅を作ってボク(木製の箱)に入れて家中すべての神様に供えた。
三十日、三十一日:お節料理
ゴマメ(田作り、まめ、健康であるように)、黒豆(煮メ、まめで暮らせるよう)、数の子(カドの子、子孫繁栄)、たたきごぼう(開運)、こぶまき(喜ぶ)、こんにゃく(根気よく)、棒だら、サトイモ、ニンジンの煮付けなど、縁起のよい食物ばかりで正月料理をつくる。
三十一日:大歳(大晦日)
門松、松飾りなどの飾り付けを行なう。門口には門松を、玄関口には注連縄をウラジロ・ユズリハ・ミカンなどと一緒に取り付ける。松飾りは家中の神棚・炊事場(水神)・かまど(荒神)・便所・納屋・農具や山道具・車などにも付ける。歳神(トシトクさん・お正月っあん・お歳さん)を祭る様式は各家により様々である。
〽お正月っあんお正月っあん 何処でござった 山の尾までござった ユズリユズリござった
としとく棚を特設し(台所の一隅、表の入口に天井から棚を下げる)・お鏡さん一重(丁銀さんといって小判形のもの)・ミカン・柿・つるし(乾柿)・栗・カヤの実・毘布(お歳さんのふんどし)・麻(お歳さんのひげ)・餅花などを供える。昔は一年間使う鉈・ヨキ・鋸などの山道具を麹ぶたや新しいムシロを四つ折りにしたものの上に載せて座敷に飾り、山仕事の安全を祈願した。正月十五日間は仏さんのカネをたたいてはならないといい、十二月三十一日の晩にカネを伏せる。一月十五日に カネを元通りに起こして(カネ起こし)餅を焼いて供える。大歳の夕食にはイワシの焼き物がつく習わしがある。最近は 年越しそば を食べる。各地区のお寺で煩悩を除去する百八つの鐘撞をする。
板橋 ワラで適当な大きさに編んだ米俵に玄米を入れて括り、その上にユリダの木で鳥居を立てて松を括り付け、注連縄を張り、昆布・麻・餅花などを飾り、三宝には鏡餅、一升枡の中には柿・栗・つるし・ミカン等々を入れて供える。
豊郷 床の間に石臼を置き、松を立てる。盆に毘布・つるし・柿・ミカン・三宝に鏡餅を載せて供える。床の間の前に新しいムシロを敷いて、種子米俵(四斗入り)一俵(炭焼き全盛時には炭俵(四貫入り・一俵)を置いて、これに松一本(五段のもの)さし、この松に麻(白髪、長命)、毘布(喜ぶ)、餅花(豊作)を掛ける。松の前に「チャノコ台」と言って机を置き、クロマメ・ゴマメ・つるし・栗・ミカン・毘布を巻いて水引で持って松の葉をさしたものなどを盆に載せて机の上に、また、年玉・年賀状など、正月中に貰った物は全部歳神さんに供える。
盛郷 晩には麦飯にイワシを食べる。イワシは尾の方から先に食べる、尾に金をはさんでいるので、尾から食えという。
三十一日:ハシケさん
盛郷 十二月三十一日に山でホソの木を一本伐って来て、四尺位にあい伐り、これを一日の朝、いろりにくべて十五日の朝までたいた。これをハシケさんといった。ハシケさんをまたぐといけないと、木の上からムシロをかけた。元旦、ハシケさんに餅を供えた。こんなことも、いろりが無くなったので、自然すたれてしまった。
ニシン漬け
ニシンと大根・麹などを一緒に漬け込んだもので正月には無くてはならないもの。聖護院大根を四~五㎜位に切って、二~三日ムシロに広げて陰干しにして甘味を出し、その後塩をして仮漬け、十日後、身欠きニシン・麹を入れて本漬けにする。
お講汁
報恩講の時、お寺参りの人々に振舞ったカブラの味噌だき。カブラは こちカブラといい、当地七百~八百年も前から息づくカブラの祖先というべきもので、直径八~九㎝の大きさで先が尖っている。歯ざわりは固いが、甘味があり鍋物にあう。大きく四つ切りにして材料の二~三倍の水を入れ、カブラの風味をいかすために調味料などは一切使わず味付けは味噌だけで煮込む。蓮如上人(一四一五~一四四九 真宗本願寺第八世)が当地を訪れた時、地元のお百姓さんがお講汁を差上げたところ、大層喜ばれたと言う昔話を自慢にしている。こちカブラの「こち」とは方言で「私」「オラが村の自慢のカブラ」という意味。
てんずき
長さ百四十㎝、直径四~五㎝の棒の先端を二つ割りにして、縦横三十㎝位の板を挾み込んで二~三箇所釘で止めた除雪道具。
行事の記録
大原神社 春例大祭・佐々里 囲垣祭(2026年4月29日)
わさび祭りと『美山考』座談会(2026年4月10日)
わさび祭り(2025年4月10日)
囲垣祭(2025年4月29日)
田歌の神楽(2025年7月14日)
鶴ケ岡(殿)の上げ松(2025年8月23日)
諏訪神社大祭 棚野の千両祭(2025年10月5日)
道相神社 秋の例祭(2025年10月11日)
川上神社 からす田楽(2025年10月13日)
今後の考察課題 【260503】
ヒヤリングと現地見学による現況記録
棚野の千両祭 風流踊りの起源と様式
