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『美山考』第9章〔鶴ケ岡〕船津・川合・殿・棚【260401】

南丹市美山町の地域史についての考察
改訂履歴

エリア地図04〔鶴ケ岡(字鶴)〕船津・川合・殿・棚

エリア地図04〔鶴ケ岡(字鶴)〕船津・川合・殿・棚


1042S1 諏訪神社

1042S1 諏訪神社

所在地:鶴ケ岡(川合)
祭神:建御名方命、大物主命
創建:未詳(由緒書きでは和同6<713>とし、「明治群誌」では正徳2<1712>信州諏訪神社より分霊とする。)
氏子:鶴ケ岡・盛郷・福居・豊郷・高野
例祭:1月5日(御狩りの日)、10月5日 ※「第10章 行事と食文化 -  表10-2 行事の記録 - 2025年10月5日 諏訪神社大祭 棚野の千両祭」を参照。
由緒等:境内に掲示されている諏訪神社の由緒書きには次の縁起を載せている。

諏訪神社所蔵の縁起によると、当初は正一位大森大明神と号して、和銅6<713>殿の長井正山嶺に御建立云々とあるが、その創建年次はさだかでない。(金箔の大森大明神の額現存)
後になって、大長大師円勝坊が大和よりこの地に来て、獣害を除いて民を安堵させようと、応安2<1369>に信州の諏訪明神を勧請し、この地域に社殿を創立して建御名方命を祀った。本社は狼を御使とし、猪鹿退治の守護神として崇敬されている。
法師は神宮を兼ねて棚・砂木の二村を祈祷布施所とし、砂木に狩蔵を作って本社の狩所とした。そして円勝法師の創始した由緒により、毎年1月5日を御狩の日(出初め)と定め、神官は草鞋脚絆の扮装で腰に短刀を帯びて、神幣を捧げ持って先頭に立ち、供奉の民は弓・槍・銃をもって、その後に従って疾走し、猪・鹿をとって神前に供える例であった。
このため、大晦日から正月5日まで、南は川合・相白の境にある鳥帽子磐に、東は田土、西は松尾の境に忌縄を張って通行を禁じたが、民はこれを犯さなかった。しかしこれは明治維新の時廃止になった。
永和4<1378>に神殿は、正山のふもとに再建立され、当時は今の社域の下段にあったが、正徳2<1712>に神殿改築が行われ、その時から現位置に遷されている。また、本社は明治初年に、村社から郷社に昇格した。
本社は凡そ15年、20年、30年毎に大祭典を執行し、古くよりその規模の大きさに於いて棚野の千両祭りといわれた。
尚、奉納芸は豊郷の獅子舞を先頭に、盛郷・福居より刀踊、豊郷より振踊(姫踊)、高野より神楽、鶴ケ岡より神楽と俵振りを献進することになっている。

【諏訪神社の由緒書き】

「ふるさと鶴ケ岡」が紹介する 史料1~5、並びにその要点と現代語訳を下記する。登場人物や出来事が錯綜する伝承であるが、上記境内に掲げられている由来書きの一部にはこれらの伝承の要約と重なる部分があると思われる。
なお、ここにあげた史料に登場する「満野三郎」についての伝承は、長野県の諏訪大社の縁起「諏訪の本地」など(※)、数パターンある「甲賀三郎譚」の一部に類似したストーリーが見られ、両者は同じルーツをもつもの、或いは「甲賀三郎譚」をローカライズ化した(土着の伝承と結びついた)ものと思われる。
※国立国会図書館デジタルコレクション「室町時代物語大成 第8」に「諏訪の本地」「すはの本地」「諏訪草紙」が収録されている。

史料1:神社記 由緒の項
・和銅年間、満野三郎が大鹿を狩猟した。
・その場所を正山と名付け、建御名方主神を勧請した。

元明天皇和銅年間大和国內ノ菩提寺殿、三輪明神ニ参籠セシ時霊夢ヲ受ク曰ク王城ヨリ乾ニ当リ深山在リテ左巻セリ、此地方出雲神国ノ端ナレドモ多クノ悪魔居住シテ良民ラ苦メシカバ彼ヲ降伏スベク宣セラル、依ツテ御息子ニ託シ満野三郎殿御出立ニナリ御狩ノ術ラ行給ヒ近国ノ悪魔ヲ退散シ給フ、於彼ノ山号ラ正山ト称シ奉リ建御名方主神ラ勧請シ当地ノ鎮守神ト祭リ給へリ。
《訳》元明天皇の和銅年間のこと、大和国の菩提寺殿が三輪明神にこもって祈ったとき、霊夢を授かった。
夢のお告げにはこうあった。
「王城(都)の北西にあたる深山に、左巻きの地形がある。その地方は出雲の神々の国の端ではあるが、多くの悪魔が住みつき、人々を苦しめている。ゆえにこれを鎮めよ。」
そこで(菩提寺殿は)御子息に託し、満野三郎殿が出立して狩猟の術を行い、近隣の悪魔を退散させた。
その山を「正山」と名づけ、建御名方主神を勧請してこの地の鎮守の神として祀ったのである。

【ふるさと鶴ケ岡 神社記】

史料2:大森神社神主系図
・応神天皇代(304年頃か)に百済から経典、宝物、博士が献上され、それが秦臣の祖である。
・聖徳太子と物部守屋の争いで、太子方の秦臣が敗北した。
・波国桑田郡で寿命尽き、大町名氏神として祀られた。
・死に際し矛を従者に授け棚野川に投げ入れると、セキレイになって飛び立ち白鳥神として現われた。
・矛の柄が止まったところが長柄(小字名に見当たらず)である。

天地未開陰陽不渾沌如鶏卵其浄清者靉上成天重濁者凝止或地乃至其中生一物状如葦芽便化為神号国常立尊亦即盤古氏是也国常立尊己下七代此日天神次五代此日地大神従夫人皇公継治十六(五)代応仁(神)帝位之十五甲辰百済国貢経典諸物博士等此則泰臣之遠祖也千茲同三十二世用明皇太子聖德公欲広宣彼渡唐之仏法守屋臣逆之及闘等太子之臣泰等半敗北内一之朝臣丹劦桑田之深山陰入再雖欲発義兵惜哉寿葉有定業不遂志而終空身罷成畢大町名氏神是也其既欲身罷成刻為杖手矛授従者宣汝此矛奉龍帝吾人生悪龍神殺守屋矣即従者重命投矛於棚野谷川水面随流而止成処其鋒先便化為鶺鴒飛去是即白鳥神之再現也此矛之柄止地日長柄之地果而太子丁未年再卒余之悪兵誅守屋陰実之仏法弘也太陽之神道增光陰陽和合之秋津国太平楽之君代千世哉千代確成岩苔生迄(後略)
《訳》天地がまだ分かれず、陰陽も混沌として、まるで鶏の卵のようであった。清らかに澄んだものは上がって天となり、重く濁ったものは下に凝り固まって地となった。その中に、ひとつのものが生まれ、姿は葦の芽のようで、やがて神となり、国常立尊と号された。すなわち盤古氏(中国の天地開闢神話の神)と同じである。
国常立尊以下、七代を「日天神」といい、その次の五代を「日地大神」という。そしてそこから、人皇が治世を継ぎ、十六代(または十五代)の応神天皇の御代、甲辰の年に、百済の国から経典や諸々の宝物、博士などが献上された。これは泰臣の遠い祖先にあたる。
さらに三十二世を経て、用明天皇・聖徳太子の時代となり、太子が仏法を唐土から広めようとした時、守屋臣(物部守屋)がこれに逆らって戦った。その戦いで太子の臣下である泰らは半ば敗北した。丹劦桑田(丹波国桑田郡)の深山に入って義兵を挙げようとしたが、寿命尽きる定めにより志を遂げられず、ついに空しく世を去った。その人こそ大町名氏神である。
そのとき、身を終えようとするにあたり、杖を刻んで矛をつくり、従者に授けてこう言った。
「汝、この矛を龍帝に奉れ。われは生涯、悪しき龍神である守屋を討った者である。」
従者はその言葉を重んじ、矛を棚野谷川の水面に投げ入れた。矛は流れに従って止まったところで、その矛先が化して鶺鴒(セキレイ)となり飛び去った。これこそ白鳥神が再び現れたものである。その矛の柄が止まったところが、すなわち「長柄の地」である。
果たしてその後、太子は丁未の年に再び兵を挙げ、悪しき守屋を討ち滅ぼした。こうして仏法は世に広まり、太陽のように神道はますます光を増し、陰陽が和合して秋津国(日本)は平安で楽しい御代となった。千代にわたり、岩に苔の生すまで確かに続くであろう。(後略)

【ふるさと鶴ケ岡 丹劦棚野大森神社神主系図序】

史料3:神社記
・応神天皇代(284年頃か)、百済国より経典諸物博士が貢がれ秦臣の祖となる。
・聖徳太子が仏教を広めた。
・秦氏の姓を賜り、橘寺で出家し円能坊と名乗った。
・満野三郎と円能は丹波国桑田郡に行った。
・三輪神のお告げにより、左巻山で狩りをして悪しきものを退治し、その山を正山と名付けた。
・満野三郎は鈴波、円能は大町と名を改め、諏訪大神を拝した(8月15日)。
・鈴波の屋敷は三宮権現と呼ばれるようになった。
・七堂伽藍を創建(成願寺のことか)、円能はここで修行した。

応神帝位の十五甲辰の年、百済国より経典諸物博士等を貢ぐ、これが秦の臣等の遠祖である。茲において同三十二(一)世用明の皇太子である聖徳太子が彼の唐国の仏法を広め給う。その後秦氏を賜わる。和劦橘寺に入り釈氏となり円能坊と言う。不思議に内の郡菩提寺殿御子満野三良殿一人旅立ち給うを見てお尋ねあり、即ち丹劦桑田の深山へお供し下り給う。三輪の神夢たがわず左巻山に神現してのべ給う、此の辺の山に種々悪物住居して人の往通なし故に汝を召して彼を召して彼を退け悪魔降伏の狩をたのむと、その術を神約し給う。これによって彼の山を正山と号す。命を重んじ三良殿名を鈴波と改め円能房名を大町と改む、明衣を着して諏訪大神を敬拝し奉る。此の日八月十五日也、神託に随い深山に入り釜原より弓削、山国の深山に至る迄狩り廻らし給いて悉く悪魔を退治し七声半の鹿等打取って正山に奠し諏訪の祭礼に奉し給う。此の日正月の五日なり、又鈴波の御殿を人崇めて三宮権現と言う。同じく夏の初日桂枝を以って千草生立ち五穀成就を祈り給えば此の秋五穀成就して百姓大いに悦び公拝を奉ずるが故に庄官神田を為し二町五反を寄進する也、この郷繁栄こと年毎なり、茲によって七堂伽藍を造立す円能房ここにて修行する、かくの如く山郷迄陰実の仏法世に弘く太陽の神道光を増し、陰陽和合の秋津国大平楽の君ケ代千世なる哉、千世の確岩となり苔の生える迄
《訳》応神天皇が即位して15年目の甲辰の年(西暦284年)、百済の国から経典や仏具、学問を修めた博士たちが献上され、これが秦氏の遠い祖先にあたる。
その後、32代の用明天皇の皇太子である聖徳太子が、中国(唐)の仏法を広めた。このとき秦氏の姓を賜り、和州の橘寺に入り、出家して釈氏となり、円能坊と名のった。
不思議なことに、内の郡の菩提寺殿の御子である満野三良殿が、ただ一人旅立とうとするのを円能坊が見て問いただした。すると三良殿は、丹波国桑田郡の深山へ共に下って行った。
そのとき三輪の神が夢に現れ、「この左巻山に神として現れる。ここらの山にはさまざまな悪しきものが棲みついて人の往来を妨げている。ゆえにお前を召し、悪しきものを追い払うための狩りを頼む」と告げた。そして神はその術を授けた。
それによって、その山を「正山」と名づけた。三良殿は命を重んじて鈴波と名を改め円能坊は大町と名を改めた。二人は法衣を着けて諏訪大神を深く拝み奉った。この日は八月十五日であった。
神託に従って深山に入り、釜原から弓削、山国の奥深い山々に至るまで狩りを巡り、すべての悪魔を退治し、七声半の鹿を討ち取って正山に供え、諏訪の祭礼に奉納した。これは正月五日のことであった。
さらに鈴波殿のお屋敷は人々に崇敬されて「三宮権現」と呼ばれるようになった。夏の初めの日には桂の枝を用いて、草木の生長と五穀豊穣を祈り、その秋には五穀が実り、百姓たちは大いに喜んで公に拝礼を捧げた。その功績により、庄官は神田二町五反を寄進した。以来、この郷は年ごとに栄えるようになった。
こうして七堂伽藍を建立し、円能坊はここで修行を続けた。このようにして山里の奥深くまで仏法が広まり、日の神の神道も光を増し、陰陽が和合して秋津国(日本)は大平の世となった。その御代は幾千年も続き、岩が苔むすほどに長久であることを祈り願った。

【ふるさと鶴ケ岡 神社記】

史料4:諏訪神社に関わる文書(出典未詳)
・満野三良は、丹波国桑田郡で八つの頭を持つ大鹿を退治するため弓を削って山奥に入った。(弓削荘)
・金剛童子と夜叉童子を先達として狩りをし、26本の角を持つ大鹿を退治した。(血井、弓削郷の知井)
・棚野の奥谷に住まいを定めた。(弓削荘)
・円勝は諏訪神社の由緒に関わった。
・応安2<1369>大長大師(円勝のことか)の勧請により諏訪明神を祀り、信濃諏訪の御弟神を崇めた。
・諏訪の本地は大日如来・十一面観世音であり、その時の祈祷の布施は、棚野の須那木に寄進された。
・円勝が宮の神主となった。
・「狩」は、五日間にわたり祈祷を行う法会であり、諏訪の正山の作法に則った。
・大師が狩蔵を定め、正月五日、須那木の板橋の六地蔵のあたりに狩蔵堂を建てた。

香野太良殿春日大明神ト号ス御名又者天児屋根命再来神ト伝也三良殿ハ近江佐々木宿祢之女ヲ妻シ満野三良ト申テ御座有也
依而狩人ニ成給フ王城ヨリ戌亥ニ当テ丹波之国桑田郡ニ深山有八ッ頭之鹿在テ多ク人ヲ害ス是ヲ可取由之勒ニ依テ諸天ヲ祷給フ干時弓ヲ削奥山ニ入給フ今之弓削莊也此取由諸多シ也去程ニ童子二人現給フ金剛夜又之二童子化神也右之童子ヲ先達ト而御狩有シ頭二十六本之角ヲ振立岩窟ヨリ飛出ルヲ弓ヲ以テ是ヲ斬射ル鹿箭ヲ屓ナガラ三郎殿ニ向フ鎌ヲ以テ是ヲ殺ス其血流出ル所ヲ血井ト号則弓削之郷今之知井是也夫従数山之越テ行給フニ奥谷ニ居住定メ給フ左巻之山今ノ棚野也由諸依而弓削庄也其時被召所ノ草鞋ヲ里ニ捨テ玉フ水ニ流行キテ和智之内林ニ掛リ有ヲ拾イ上テ見ハ長一尺八寸ト申伝フ則大内裏江差上シト也右金剛童子夜又童子之宮ハ後代里人弓削奥山ニ建立ス亦
宇多天皇之御宇叡感ニ依而宴ヲ下シ賜フ其御時姫君ノ御仮粧ニ川流七里ト申処有リ被在江 御侍女幷円勝坊信成坊之三人ト申伝フ其時代円勝坊是丹波国桑田郡棚野諏訪由来宇多天皇免許之始也
爱ニ記ス人王四十三代元明天皇和銅六癸丑年嵯峨法輪寺建立也宇多天皇之御時法輪寺再建之時御免許下シ賜也
宇多天皇之論言ニ依テ神変不老満野三郎殿者狩山江上リ給フ程ニ御涅槃之期ヲ不知シ而天笠摩訶陀国工御渡リ有テ御座也御姫母君之曰ク才月過テ御子三人有満野太郎二郎三郎ト申也御姫母君ノ曰右三人之子トモ本朝所領之在所工御帰可有給ニ涅槃有給フ夫従右三人帰朝ハ寬徳二年也後代至リ応安二己酉年後光厳院帝ノ御宇大長大師之御勧請被申諏訪明神卜奉崇信濃諏訪御弟神成依而也諏訪之本地ハ大日来十一面観世音也其御時御祈祷之布施ハ棚野須那木ニ箇其御代者奥別之善春鄉ト申御事御時御寄進也
夫従大長大師諏訪之神領ト号ス是故ニ円勝坊落随シ而宮之神主ト申伝フ此狩ト申ハ五箇日之間御祷祈之現僧供ハ諏訪之正山也
去ニ依而大師狩蔵ラ定メ最給フ也正月五日二須那木ノ板橋之六地蔵之辺に榎三木有リ爰ニ狩蔵堂有リ是ハ天下御祈待之狩也是ハ大裏従狩蔵卜申誠ニ姬君之御座有ニ依而現僧供之供卜申也本朝日域之諏訪之御狩也天下之鬼神之御祈祷也是ニ依而大長大師之御奏勅之所正月五日之内天下御祈祷所成ニ依テ人被通也此旨ヲ背輩者神罰可行罪料仍而七莊之由緒如件
永德元年书 五月五日 沙弥
大長大師円勝坊在判
右高之番從奧列之御時一年ニ三度御請神未参山口殿御時ニ其後桐野左京允殿棚野ニ寄テ御寄進也其為正月之御祈祷之御奏勒參申候
永禄十三年1七月十八日
下司公文栗栖筑後守泰朝臣光守在判改之弓削莊知井住満野太郎未流大牧氏一雲同本莊住人満野二郎未流大牧氏ニ雲同吉富莊柱人满野三郎未流大牧氏斎雲
右三家数代相続無相違支配仕候領地也、依而知井莊棚野弓削之莊光厳院樣之御宇改入御免許者也
由緒之趣書記差上申候議明白也然者若相違於者御座者御罪科可申請者也
川勝家片山泰氏御改御在判
《訳》香野太良殿は「春日大明神」と号し、その御名はまた「天児屋根命の再来の神」であると伝えられている。
三良殿は近江の佐々木宿禰の娘を妻とし、「満野三良」と名乗っていた。
このために狩人となり、王城から戌亥(北西)の方角に当たる丹波国桑田郡の深山に入った。そこには八つの頭を持つ大鹿がおり、多くの人々を害していた。これを討つよう命令を受けて、諸天に祈願したのち、弓を削って山奥に入った。これが今の弓削荘である。このときの由来は数多く伝わっている。
その時、二人の童子が現れた。これは金剛童子夜又童子が神の姿となったものである。この二童子を先達として狩りをしたところ、二十六本もの角を振り立てて岩窟から飛び出した鹿を、弓で射斬った。鹿は矢を受けながらも三良殿に向かってきたので、鎌でこれを討ち取った。その血が流れた場所を「血井」と呼び、これが弓削の郷、今の知井である。
それからいくつもの山を越えて進み、奥谷に住まいを定めた。左巻山が今の棚野である。こうした由来から弓削荘と呼ばれるようになった。そのときに召された草鞋を里に捨てたが、水に流され、和智の林に引っかかった。拾って見ると長さ一尺八寸もあったという。その草鞋は大内裏に献上されたとも伝わる。
右の金剛童子・夜又童子を祀る宮は、後の時代に里人が弓削の奥山に建立した。
また、宇多天皇の御代、神のお告げによって勅願を受け、姫君の仮粧のために「川流七里」と呼ばれる所におられ、侍女と円勝坊・信成坊の三人が仕えていたと伝わる。この円勝坊は丹波国桑田郡棚野の諏訪社の由緒に関わり、宇多天皇からの勅許が始まりである。
記録によれば、人皇四十三代元明天皇の和銅六年<713>、嵯峨の法輪寺が創建された。宇多天皇の時代には法輪寺再建に際して勅許が下された。
宇多天皇の御言葉によれば、神変を得て老いぬ存在となった満野三郎殿は、山に狩りに出ている間に涅槃の時を知らず、天竺の笠摩訶陀国に渡ったとされる。姫御前(母君)の言葉によれば、月日を経て三人の子をもうけた。満野太郎・二郎・三郎といった。母君は「この三人の子らは日本の所領を治めるために帰国せよ」と言ったが、帰国の途中で亡くなった。そののち三人の子らが帰朝したのは寛徳二年<1045>のことである。
後に応安二年<1369>、後光厳天皇の御代、大長大師の勧請により諏訪明神を祀り、信濃諏訪の御弟神を崇めるようになった。諏訪の本地は大日如来・十一面観世音である。その時の祈祷の布施は、棚野の須那木に寄進され、これが奥別の善春郷の寄進である。
それ以降、大長大師の勅によりここを諏訪の神領と号した。このため円勝坊がその随身として宮の神主となったと伝わる。この「狩」とは、五日間にわたり祈祷を行う法会であり、僧供は諏訪の正山の作法に則っていた。
こうして大師が狩蔵を定められた。正月五日須那木の板橋の六地蔵のあたりに榎の木が三本あり、そこに狩蔵堂を建てた。これは天下の祈祷のための御狩であった。姫君がおられたことにちなみ、僧供の供養が行われた。これこそ日本における諏訪の御狩であり、天下の鬼神を祈祷する行事である。このため大長大師の勅により、正月五日には天下の祈祷所と定められ、人々が参詣するようになった。この旨に背く者には神罰が下ると伝えられる。七荘の由緒は以上の通りである。
永徳元年<1381>五月五日
沙弥 大長大師円勝坊(署名・判)
その後の高之番の時代にも、奥列より年三度の神事が行われ、山口殿の時代を経て、桐野左京允殿が棚野に寄進した。これが正月の祈祷の奏請の始まりである。
永禄十三年<1570>七月十八日
下司公文 栗栖筑後守泰光(署名・判)
弓削荘知井に住む満野太郎、大牧氏の流れ
同じく満野二郎、大牧氏の流れ
吉富荘の満野三郎、大牧氏の流れ
この三家は代々相続し、領地を支配してきた。よって知井荘・棚野・弓削の荘は後光厳院の御代に改めて勅許を受けた。由緒の趣は以上の通りである。もし違うことがあれば、罪科を願い出るものである。
川勝家 片山泰氏 改めの署名

【ふるさと鶴ケ岡 出典未詳】

史料5:諏訪神社に関わる文書(出典未詳)
・大和国に藤原菩提寺(父)と、その子、香野太郎・二郎・三郎がいた。
・母が、七声半鳴く鹿を食べたいというので、父と三人の子は狩りに山へ入ったが、父は戻らず。
・大和国橘寺の円能に父の消息を尋ねた。
・三兄弟は父の仇討ちのため山に入り鬼を退治、美しい姫(龍女)に会った。
・三郎が龍宮から鏡と鹿を持ち帰り、信濃国へ移り住んだ。

丹州桑田那大森大明神御由緒之巻幷ニ棚埜諏訪大明神御往古從之記録巻
日大明神ト申之者藤原氏之祖神天児屋根命ニテ其後諏訪ヲ八幡宮ト申事ハ弓箭之御守護神也
八幡宮ト申事者人皇十五代神功皇后気長姫尊香権大明神奉申御腹二御誕生開化天皇ノ曾孫仲哀天皇之太子是則応神天皇之御事也
諏訪ト申ハ山跡之国内ニ藤原菩提寺殿ト申御人御座ス香野太郎二郎三郎ト申シタ兄弟三人之御息在リ大力無雙ニテ御座ス此御母悪阻召シケルニ鹿之七声半鳴クオバ御食被成度由被仰ニ依テ則菩提寺殿三人之御子男ヲ供シ狩山ヘ御登リ有テ彼之鹿御尋有ル、去ル程ニ山従山ニ分入給フニ不思議成ル哉岩穴有リ其ノ遠近之不知也爱ニ菩提寺彼岩穴ニ入給フニ一少之大鬼有テ為メニ彼空シク成給フ偖御従子三人ハ深山ニ入リ父菩提寺ヲ見失ヒ山跡国三御帰リアリテ被申様ハ我父ハ御帰リ御座シ給フカト尋ネ給フニ其ノ時山跡ノ国橘寺ト申スニ円能坊卜申スハ人皇三十二代用明天皇二年丁未冬摂州国天王寺ヲ建立之人也
三息之御父著提寺殿ハ定メテ彼之狩山ニテ空ク成給フト答ヘ被申ニ依テ太郎二郎三郎親之敵ヲ討タント狩山ヘ御出有テト尋巡山テ時山奥ニ至リ深キ岩穴有リ是ヨリ在キ所無トテ三良殿四百八十尋ノ縄ヲ誘テ獺子ヲ紐テ緒中へ御入有テ見給フニ如案一ツノ鬼獸在テ三郎殿二取掛ル是ヲ親ノ敵成ト剣ヲ以テ頭ヲ御取有テ其ノ場ヲ急度尋給フニ十七八成女一人御座スヲ奉取立彼之首ト共ニ縄ヲ引登り給フ去程ニ兄弟三人仁姓不金石ニ姫君ノ美容蜂腰ヲ見テ恋慕心之発ス彼之女宮之曰ク我者龍女也去ル者吾城ニ三千大世界ヲ照シ見ル鏡有リ其鏡ヲ取テ被来ヨ其男之妻ト可成ト答給フ
是神代人多鈍也 人皇十代崇神天皇六年巳丑年ニ此鏡ラ鐘ルトハ誤リ成ト右之鬼切ノ宝剣ハ此鍵之御事也可恐々
是ニ依テ兄弟三人鬩ヲ取テ当リタル人龍宮城へ可行ト有テ鬩ヲ取リ三郎殿当リ給フ也無者彼穴底ニ下リ可申トテ獺子之繩ヲ引テ下リ給フ時ニ太郎殿縄ヲ御切リ有リシト伝フ如夢ニテ闇中ヲ過テ行ク程ニ一世界有リ人有リテ申ス爾何之用有リテト問フ三郎殿答テ曰ク我ハ日城之者ニテ候ト申給フテ時彼人事之仔細アラハ大裡へ御出有テ御尋可被申ト云フ尤在ラハ大裡ヲ御教へ被申トテ龍城ニ参内有テ奏シ玉フハ予儀日城ノ者ニテ候吾ハ日城ノ者ニテ候三千世界ヲ照シ見ル鏡ノ用ニ龍宮ニ参内候也ト奏聞シ給フ龍王御門之曰ク本朝日城ニ而山跡国菩提寺ト申人ニテ御座候ト問給フ三郎殿中々之御事成ト被申御門叡教覧有テ善哉無者明鏡ヲ参ラセント鏡一面ヲ与へ給フ真二日月ノ如キ也
鹿ヲ一疋引出シテ申給フ様ハ此鹿者七声半鳴ク鹿ナリ則其ノ方ノ望給フ所ノ鹿也トテ一丁ノ尤鎌ヲ添へ玉フ彼鹿ヲバ此鎌ニテ切リラバ食シ本朝日城ニ御登リ可被申也此之背ニ相成申時信濃国ヨリ山跡へ移リ給フ時龍女ノ曰ク我城之鏡ハト尋給フ時右之鏡ヲ取出シ奉ル誠二日月之如ク色身海之波無明ヲ照シ給フ是日城本朝第一之御宝也依テ大内裏宮従リ女宮ヲ供奉給テ三十番神日本六十余洲大小神衹悉ク信濃国へ御霊移リ有リ是諏訪正山ト奉崇者也諏訪之海諏訪之橋ト申事初ル也
諏訪法姓之御謂ハ親三研源朝臣二十七代武田信虎之嫡子信玄殿へ相伝ルト爾云
《訳》丹州桑田郡大森大明神の由緒の巻、ならびに棚野諏訪大明神の往古の記録
日大明神」と申す神は、藤原氏の祖神である天児屋根命のことである。その後、諏訪を八幡宮と申すのは、弓矢の守護神であるからだ。
八幡宮とは、人皇15代・神功皇后(気長足姫尊)が香椎の大明神に祈願して、その胎内にお生まれになった、開化天皇の曾孫で仲哀天皇の皇子、すなわち応神天皇のことである。
諏訪と申すのは、山跡国に「藤原菩提寺殿」と呼ばれる方がおられ、その子に香野太郎・二郎・三郎という三人の兄弟がいた。彼らは類まれな怪力の持ち主であった。その母が妊娠のときにつわりで「鹿が七声半鳴くのを食したい」と仰せになったので、菩提寺殿は三人の子を従えて狩りに山へ入った。
すると、山の奥に不思議な岩穴があり、その奥行きもわからぬほどであった。菩提寺殿がその岩穴に入ると、一匹の大きな鬼がいて、彼はそこで姿を消してしまった。三人の子は深山に入って父を見失い、山跡の国へ戻って「我が父は帰られなかったがどうなったのか」と尋ねると、当時山跡国の橘寺にいた円能坊という僧が「彼は狩りの山で鬼に食われたに違いない」と答えた。
三兄弟は父の仇を討とうと山に入り、奥の深い岩穴に至った。三郎殿は四百八十尋(約870m)の縄をつけ、獺(かわうそ)の子を目印にして穴へ降りると、一匹の鬼獣がいて三郎に襲いかかった。三郎は剣でその首を切り落とし、さらに奥を探ると十七八歳ほどの美しい姫がいたので助け出した。
その姫を見て三人の兄弟は恋慕の心を抱いた。姫は「我は龍女である。わが城には三千世界を照らす鏡がある。その鏡を持ち帰れば、あなたの妻になる」と告げた。
これは神代のことで、人皇10代・崇神天皇六年(紀元前92年)に、この鏡が鐘と取り違えられたことがあり、また鬼を斬った宝剣は「鐘」と呼ばれるようになったとも伝わる。
三兄弟は誰が龍宮へ行くか争い、三郎殿が選ばれた。縄を伝って降りると、太郎殿が縄を切ったと伝わる。三郎は闇を抜けて一つの世界に出て、人々に「我は日城の者だ」と名乗ると、「ならば大殿に尋ねよ」と案内され、龍宮に至った。
三郎が龍王に「我は日城の者で、三千世界を照らす鏡を求めに参った」と告げると、龍王は「そなたは山跡国の菩提寺殿の子か」と問い、これを認めて鏡を授けた。それは真に日月のごとく輝く鏡であった。さらに鹿を与え「これは七声半鳴く鹿だ。望んでいた鹿であろう。鎌で切って食せば本朝(日ノ本)の地に戻れる」と言った。
三郎は鏡と鹿を持ち帰り、信濃国へ移り住んだ。そのとき龍女は「我が城の鏡を持っているか」と尋ね、三郎が差し出すと、それは日月のように輝き、海の闇を照らした。これこそ日城の第一の宝である。
そのため大内裏の女宮を伴って日本の三十番神、六十余州の大小の神々が信濃国へ移り、その地を「諏訪正山」と崇めるようになった。ここから諏訪の海、諏訪の橋という言葉が始まったのである。
さらに諏訪の法姓は、源氏二十七代・武田信虎の嫡子・信玄公へと伝わったともいう。

【ふるさと鶴ケ岡 出典未詳】

1042S1-1 八幡神社

1042S1-1 八幡神社

所在地:諏訪神社境内
祭神:応神天皇
創建:未詳
例祭:8月5日
由緒等:長井の川勝信太郎宅横にあったものが現在地に移転されたとする。(移転年代未詳)
「ふるさと鶴ケ岡」では弘安3<1280>宇津の八幡宮より移したとし、「大正郡誌」の宇津八幡神社「八幡宮略縁起」(下宇津 井川藤造氏蔵)を紹介しているが、「大正郡誌」著者は、その内容に地理的・歴史的な誤りがあり、宇津八幡神社の格式を高めるために江戸時代中期以降に捏造されたものとしている。
ただ、文中「近江国久田郡」が「久多」のこととすれば、知井と隣接する久多をひとつの地域として扱っていること、棚野を十五ヶ村(内訳は未詳)として捉え、かつその総代を川勝丹波守としていること、「棚野郷では殿村へ移して「左の宮」云々」とあるので、当八幡神社を指しているのか分からないことなど、縁起作者の知識の一端から、当時の人たちの当社に対する認識を窺い知ることができる。

夫當社は昔日後冷泉院の御字天喜康平中東國王命に隨はず國家大に騒乱す。是に於て源賴義公勒命を蒙り官軍を引率して奥州へ下着し、責戦ふこと數ヶ年に及び、時に夷賊楯籠る所の栗屋川(厨川)の城を焼亡して、張本安倍貞任同宗任を誅戮し、貞任が死骸並に弟宗任を生捕て上洛し給ふ。其時卜者の曰くこの猛悪の族容易く捨置べからず。東西南北へ流るゝ川の地邊を選び、埋めて然るべしと云々。茲に於て五畿内國郡を尋ぬるに、當國大堰川の水上字津鄉内西南に當りて粟生山の麓に巨川有て彼の山を廻ること東西南北なり。此の地を得て貞任が死骸を埋め藏す。仍て此の所を墓の原というて今名となりぬ。然るに彼死骸を七分に截割し所の其の跡を切畑といふ。所々山々七ヶ所に割分け埋むといへども、積悪の怨靈祟を為して往來の諸人を惱すこと甚しく、さて近鄉の村民難渋いたすこと不少、總て悪靈鬼神の崇をなすは神明佛天の加護によらすんば、争か以て武術人力の及ぶべき所にあらずとて、源頼義公九州の字佐より八幡大菩隆を勸請し奉り給ふ。則賴義公御領地たる宇津鄉吉富莊二十五ヶ村總代として字津田左近將監、弓削鄉八ヶ村總代として草木太次右衛門、知井九ヶ村近州(江州)久田郡五ヶ村合て十四ヶ村總代として大前嘉右衛門、棚野の鄉十五ヶ村總代こしてすなはち川勝丹波守右六十二ヶ村の中より四人撰り人にて、九州へ趣き御供致しけるこ云々。其より神社を構へ營む即ち當社是也。その時神威におそれて怨靈忽に鎭まる、忝なくも鄉民皆々安堵の思を成し、それより以來諸人崇敬の奇特靈驗日々に嚴然たり。其頃は右六十二ヶ村當社の氏子なりしが、餘り遠路にして老若の参詣步行の苦痛を歎き悲みて、年を經て夫々鄉内の最寄へ皆八幡官を移し奉る。則弓削の鄉にては上中村へ移奉る、知井鄉にては中村の宮へ勸請し奉る。棚野の鄉は殿村へ移し奉り左の宮と申奉るとかや。失代鄉にては中村の宮境内に祠を拵へ移し奉る也。亦中熊田へも當社八幡宮を移奉る。又明石邑に小宮一社三輪大明神有り、當地の内に中地村小宮一社出雲大明神これあり。依て當社八幡宮を一の宮と崇め奉る者也 別當神宮寺
《訳》そもそも当社(八幡宮)の由来は、遠き昔、後冷泉天皇の御代である天喜・康平年間(1053〜1058年頃)に遡る。当時、東国の賊徒が朝廷の命に従わず、国家は大いに騒乱した。これに対し、源頼義公が勅命を奉じて官軍を率い、奥州へ下向して数年にわたり戦った。ついに夷賊が立てこもる厨川の城を攻め落として焼き払い、首謀者である安倍貞任・宗任兄弟を討伐した。貞任の死骸を回収し、弟の宗任を生け捕りにして上洛したのである。
その際、占い師が「この猛悪な一族の死霊を安易に放置してはならない。東西南北へ流れる川のほとりを選んで埋葬すべきである」と進言した。そこで五畿内の国々や郡を調べたところ、当国の大堰川の上流、宇津郷の西南にある粟生山の麓に大きな川があり、その山を東西南北に巡るように流れていた。この地を適地として、貞任の死骸を埋葬したのである。それゆえ、この場所を「墓の原」と呼ぶようになり、今でも地名として残っている。
また、その死骸を七つに切り分けた跡を「切畑」と呼ぶ。このように山々の七箇所に分割して埋めたものの、積年の悪行による怨霊が祟りをなし、行き交う人々を激しく苦しめた。近隣の村人も多大な難儀を強いられたのである。およそ悪霊や鬼神の祟りというものは、神仏の加護によらなければ、どうして武術や人力だけで対抗できようか。そう考えた源頼義公は、九州の宇佐から八幡大菩薩を勧請したのである。
その際、頼義公の領地である宇津郷・吉富荘二十五ヶ村の総代として宇津田左近将監、弓削郷八ヶ村の総代として草木太次右衛門、知井九ヶ村および近江国久田郡五ヶ村を合わせた十四ヶ村の総代として大前嘉右衛門、棚野郷十五ヶ村の総代として川勝丹波守という、計六十二ヶ村の中から選ばれた四人が、九州へと赴きお供をしたということである。
そうして社殿を造営したのが、即ち当社である。その時、神威を恐れて怨霊はたちまち鎮まり、ありがたいことに郷民は皆、安堵の思いを抱いた。それ以来、人々の崇敬を集め、その霊験は日々あらたかである。
当時は右の六十二ヶ村が当社の氏子であったが、あまりに遠路であり、老若男女が参詣のために歩く苦労を嘆き悲しんだ。そのため、年月を経てそれぞれの郷内の最寄りへと八幡宮を分霊して移し奉ったのである。弓削郷では上中村へ、知井郷では中村の宮へ、棚野郷では殿村へ移して「左の宮」と呼んだ。矢代郷では中村の宮の境内に祠を建てて移し、中熊田へも当社から八幡宮を移した。また、明石村に小宮として三輪大明神があり、当地の中地村にも小宮として出雲大明神がある。これらの中で、当社を一の宮として崇め奉るものである。 別当 神宮寺

【大正郡誌 八幡宮略縁起】

また、「ふるさと鶴ケ岡」は社務所にある「神社記」として下記のものを紹介している。

八幡宮ハ誉田八幡九即チ応神天皇ヲ祀ル、本宮ハ豊前国字佐郡宇佐宮ニアリ、其ノ遼違ナルヲ以テ大和ノ添上郡手向山ニ祀リ又山城ノ久世郡男山ノ石清水ニ勧進ス、石清水ハ二十二社ノ一ニ列ス、筑前ノ箱崎宮、同大分宮、肥前ノ千栗宮、肥後ノ藤崎宫、薩摩ノ新田宮、大隅ノ正八幡宮等式内ノ旧社ニシテ皆同神ナリ、其ノ他鎌倉鶴ケ岡、江戸富ケ岡アリ、軍旅ヲ司ルノ神ナルヲ以テ日本中到ル処二祀ル、若宮八幡宮ハ皇子仁徳天皇ヲ祀ル。
《訳》八幡宮は、誉田八幡すなわち応神天皇を祀る神社である。その本宮は豊前国宇佐郡の宇佐宮にある。本宮が遠隔地にあるため、大和国添上郡の手向山に祀り、また山城国久世郡男山の石清水へ勧請した。石清水八幡宮は二十二社の一つに数えられている。
筑前国の箱崎宮、同国の大分宮、肥前国の千栗宮、肥後国の藤崎宮、薩摩国の新田宮、大隅国の正八幡宮などは、いずれも式内の旧社であり、すべて同じ神を祀っている。その他、鎌倉の鶴岡八幡宮や江戸の富岡八幡宮がある。八幡神は軍事(軍旅)を司る神であるため、日本中の至る所に祀られている。
なお、若宮八幡宮は、応神天皇の皇子である仁徳天皇を祀るものである。

【ふるさと鶴ケ岡 神社記】

1043S1 玉森稲荷神社

1043S1 玉森稲荷神社

所在地:鶴ケ岡(殿)
祭神:倉稲魂命
創建:未詳
氏子:殿 (松尾、神谷からも参詣あり)
例祭:2月初牛に近い日曜日に稲荷講があり区民有志の講員が参加する。
海と山の恵みとして魚や乾物、野菜、果物、紅白の餅を供える。
由緒等:境内の手水鉢に天明6<1786>の刻印あり。


1043T1 法明寺

1043T1 法明寺

所在地:鶴ケ岡(殿)
山号:太平山(北桑田三十三所霊場第三番)
宗派:曹洞宗
本尊:聖観音菩薩
創建:天文元<1532>
開基:川勝光綱(広綱か)
由緒等:参道の入口付近に「太平山 法明寺」の由緒を書いた案内板があり、「仏教誌」にもこれとほぼ同じ記述がされている。
「光綱」の名は 別表C 秦・川勝氏系図 に見られず、「丹波10号」では「広綱<1578~1661>」のこととしている。
法明寺が宇津谷(ウツタン)にあったとする部分に関連して、史料1 から文明9<1477>時点で棚野村に「宝明寺」があったことは読み取れるが、法明寺と同じものであるかは未詳である。
また殿城については、「丹波11号」によれば城の構造や規模等から天文年間<1532>以前の築城で今宮城以前のものとし、城主は川勝(下田)光照以前の人物、及び同家臣の栗栖氏としている。
法明寺と殿城の由緒については、由緒案内板と関連資料間で記述の相違が見られることもあり、確かなことは把握できていない。

本寺は嘉慶年間<1387>京都相国寺普明国師が開創開山であるとされるがその由緒は詳らかでない
 一説に天文元年<1532>川勝豊前守の開基ともいう
川勝丹波守光綱が宇津谷にあったものを現在地に移し創建した
宝永二年<1705>に再建され 正徳元年<1711>に臨済宗から曹洞宗に改宗した
その後寛政七年<1795>に再建されている
この裏山には川勝丹波守光綱が築城したといわれる殿城址がある
本寺は川勝丹波守光綱の菩提寺であり法明院殿法昌入道大居士の位牌を安置している
本尊は聖観音菩薩像であるが 他に藤原中期の作とされる釈迦如来坐像と藤原後期の作とされる地蔵菩薩立像がある
当区出身の地理学者藤田元春博士は「貞観の釈迦おわす花の寺」の書を残している
山号は証德山であったが明治の中頃に太平山に改められた
現在は北桑西国靈場第三番扎所である
福寿海無量の德をつむ寺の実りはよもに有明の月

【太平山 法明寺 由緒書き】

史料1:「鹿王院文書」室町幕府禁制

禁制 御祈願所丹波国棚野村内
宝明寺
一 伐取山中竹木事
一 軍勢甲乙人等乱入狼藉事
右条々堅被制止之訖、若雖為一事有違犯之輩者、可被処罪科之由、所被仰下也、仍下知如件、
文明九<1477>年十月十五日
和泉前司清原真人(清貞秀)(花押)
主計允平朝臣(松田数秀)(花押)
《訳》禁制 御祈願所である丹波国棚野村内の宝明寺について
一 山中の竹木を伐採すること
一 軍勢や甲乙人(武士や従者など)が乱入し、狼藉を働くこと
右の条々について、堅く制止したものである。もし一事なりともこれに違反する者がいれば、罪科に処す旨を仰せ下された。よって下知する。

鹿王院文書】

1044T1 最尊寺

1044T1 最尊寺

所在地:鶴ケ岡(棚)
山号:相白山
宗派:真宗大谷
本尊:阿弥陀如来
創建:明応元<1492>
開基:教順(中江六右衛門尉氏政、宇多天皇第八皇子敦実親王第二十一世の孫、山国村中江から相白(あいもし)に移住し、蓮如の徒弟となり諸方を巡歴、教順の法名を賜る。)
由緒等:
・延徳元<1489>最尊寺の寺号と実如親筆の六字名号を得て棚に帰住
・明応元<1492>堂宇を建立 ※明治群誌は明応3<1494>とする。
・寛永19<1642>現在の地に移転
・天和3<1683>梵鐘鋳造
・宝暦9<1759>再建(現存の堂宇)
棚集落内に蓮如上人記念碑あり。(もと相白にあったものを移設)
相白には屋敷跡と墓所、更に一段上に宗旨根本の御文を埋めた天文5<1740>銘の漣師石字御書塚あり。
「ふるさと鶴ケ岡」に次の碑文を載せている。

夫当山中興上人当国御越砌将開基奉御招請蒙御化導給御旧跡然明応元年則敬御跡七間四面本堂庫裏幷門造立有之後至寛永十九年引移今寺務相続是也仍御尊跡為師徳報恩爰謹誌之畢
《訳》そもそも当山の中興上人が、当国へお越しになった折に、基を開くために御招請を申し上げ、御化導(仏法を教え導くこと)を蒙った御旧跡である。
然るに、明応元年にその跡を敬って、七間四面(約12.7m四方)の本堂、庫裏、ならびに門を造立した。
その後、寛永十九年に至り、場所を引き移して今の寺務(寺の維持・管理)を相続しているものである。
よって、尊い御跡の師徳(師の深い恵み)に報恩するため、ここに謹んでこれを記し終わる。

【ふるさと鶴ケ岡 相白山の旧寺院趾の碑文】

梵鐘銘は次の通り。

丹州桑田郡野々村庄高野番棚村最尊道場鐘銘
  古徳銘曰
願此鐘声 超法界 鉄囲幽闇 悉皆聞
聞塵清浄 証円通 一切衆生 成正覚
   豈天和三癸亥年十二月十六日
        願主 最尊寺当住釈正順
        東明庵主宇鉄膳書 観牛叟
《訳》丹波国桑田郡野々村荘高野番棚村にある、最尊道場の鐘の銘文である。
古い徳の高い僧が残した銘文に次のようにある。
願わくは、この鐘の音が全世界(法界)に響き渡り、鉄囲山(地獄の周りを取り囲む山)の深い闇のなかにいる者たちまでもが、ことごとくこの音を聞かんことを。
この音を聞くことで、迷いの塵が清められ、円満で何ものにも妨げられない悟りの知恵(円通)を証得し、すべての生きとし生けるものが、正しい悟りを開かんことを。
天和3年<1683>癸亥12月16日
願主:最尊寺の現在の住職 釈正順
書:東明庵の主 宇鉄膳(観牛叟)

【梵鐘銘】

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