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おうちで「東海道五十三次」絵と絵の間の旅 #8 平塚~大磯

江戸時代の東海道を、日本橋から旅する想像旅の4日目。

早朝に平塚宿を出発し、高麗山や富士山などの山々を眺めつつ、田んぼと田んぼの間の街道を進みます。
 
平塚から次の大磯まではわずか27町(約2.9㎞)と、これまでで最短区間。
広重の「平塚」で描かれていた、花水川に架かる花水橋を渡ると、この区間のもう半分近くです。


高麗山(パブリック・ドメイン)

眼前にお椀をひっくり返したような丸い山が見えます。
これが高麗山で、7世紀に、朝鮮半島にあった高句麗という国の王族・高麗若光(こまのじゃっこう)らが、この辺りに移り住んだことからこの名が付きました。
 
この山から相模湾までの一帯は、もろこし河原(現在は唐ヶ原 とうがはら)と呼ばれ、高麗山には、高句麗からの人々が移り住んでしばらくして、高麗寺というお寺が建てられました。
 
高麗寺では、仏や菩薩がこの世に神の姿をして現れる「権現」を信仰していたことから、江戸時代になると、徳川家康を「東照大権現」として祀る「東照宮」が、高麗寺にも置かれることになりました。
 
この為、権現様(徳川家康)を祀る高麗寺は、参勤交代の際には、諸大名が必ず参詣をしなければならない場所となり、隆盛を誇ったのだそう。

さらにふもとの村も、「高麗寺村(こうらいじむら)」という高麗寺の領地として、周囲から独立していました。
 
しかし明治になると、高麗寺は廃寺となり、その一部だった観音堂が高来(たかく)神社として現在まで残っています。

確かに高麗寺村は、門前町として他の村よりも人が多く、活気を感じます。
私はふもとの一の鳥居からご挨拶だけして、先に進みます。


ところで、こんなに距離が短いのに、どうして平塚と大磯の2つも宿場が作られたのでしょうか。
 
大磯は、そもそも東海道の成立以前から、書状や荷物を運ぶ際に馬を乗り換えたりする場所だった為、そのまま宿場になったものと思われます。一方で平塚は、東海道の成立以前には、必ずしもそうした場所だったわけではないようです。
 
にもかかわらず、大磯だけでなく、すぐ近くの平塚にも宿場が作られた理由ははっきりしませんが、平塚は、徳川家康が鷹狩などの際に宿泊した中原御殿に近いことから、そこへの中継地として宿場になったとも言われています。
 
そうだとすると、家康時代の中原御殿という場所は、さぞ重要な場所だったのでしょう。


さて高麗山を通り過ぎると、東海道は再び現在の国道1号と別れ、両側に松が並び、緩やかに傾斜した化粧坂(けわいざか)へと差し掛かります。
 
この坂の名は、途中にある「化粧井戸」という井戸から名付けられました。

「化粧井戸」は、鎌倉時代に曽我十郎・五郎という兄弟が父の敵討ちをする、『曽我物語』に登場した虎御前という遊女が、朝夕化粧をしていたとされる井戸です。

化粧坂は、家もなく、人もおらず、のどかで、静かな場所です。
確かに、坂の途中に井戸があります。

これが、あの「化粧井戸」ですね。
見たところ、ごく普通の井戸といったところです。

この井戸は現在も住宅の間に残されています。
 
化粧坂に入ってから、街道は一気に海岸近くまで南西に進んでいきます。
 
そしてこの坂を上り終えるころ、もう大磯が見えてきました。
何と、平塚からここまで2時間もかかりませんでした。

つづく

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