小説 能登姫の呪い (序章)能登姫━━弑された機織りの女神
それは、神送りという名を借りた処刑だった。
あらすじ
豊足姫は、父である大和の大王・崇神の命により、先代巫女の呪いで機を織れなくなった最果ての能登へ遣わされる。冬を越すための布を織らねば、民は生き延びられない。兄・大入杵の死の真相を追う中、姫は下賜された鉄鋌百本が大和への従属を強いる首輪だと見抜き、豪族たちと共に大和の鉄を土に埋め、自ら鉄を生み出す反逆へ踏み出す。頼るのは、忘れられた沼鉄の技法と能登の土、そして藻塩灰。剣にはならぬ鉄から神事の鎌を鍛えることで呪いは解けるのか?大和の支配に頼らない「鉄」と「布」を生み出そうとする、豊足姫と能登の豪族たちの物語。
潮のにおいがする。
━━ああ、これは終わりの光景だ。私が人であった最後の日。能登二見の浜辺の景色だ。
私の魂(たま)は、故郷の浜辺へ吸い寄せられるように降りていった。
重い雲が立ち込めた浜に、鐘の音が鈍く響いた。
それは舟を引き出す合図だった。
縄を掛けられ浜を歩かされる一組の男女がいた。
二人の髪は吹き付ける海風で乱れ、冷え切った砂浜を歩く裸足には血が滲んでいた。
ふと女が顔を海に向け、翡翠の耳輪が冷たく耳朶に触れた瞬間、忘れていたはずの糸績みの歌が、風に紛れてふっと蘇った。
女のひび割れた唇からボソボソと歌声が漏れた。
隣を同じように縛られ歩く石動毘古━━能登とその東の射水、この境の山の主にも聞こえないような、小さな声だった。
その声は、能登の機織りの女神、能登比売の声ではなく、機織りが好きな邑知潟の少女、真苧の歌声だった。
「もはや、力を喪い悪神となった能登の神々を海にお返しする時が来た!」
大和からの命を受けた、出雲の将の声と共に、青銅の鐘が再び高く打ち鳴らされた。
冬を迎える能登の重い鈍色の空と海に、その音は吸い込まれていく。
二艘の杉の丸木舟が浜に引き出された。
それは、神送りという名を借りた処刑だった。
船は青柴垣と、白い和妙の幕が張り巡らされ、その青笹は、海風に煽られ激しく揺れていた。
その幕は、大和から神事のために運ばれた布だった。
能登の女達が織る日差しに透ける生成りの白とは異なる、その絹の白さは、神に供する和妙《にぎたえ》という名に似つかわしくない、冴えた刃のような色をしていた。
浜に引き出されてもなお、脱出する機会を狙い続けていた石動毘古は、その仰々しいほど冷たく飾られた舟に、深山の獣のような目を光らせた。
一方、能登比売は、その船を見るや低く嗤ってつぶやいた。
「大和の大王でも、神を弑することはためらうか」
水死した人間を舟に乗せて、海の彼方へ送る《忌み舟》という風習がこの地にあった。
その忌み舟に、二人は捕らえられたまま各々乗せられた。
二人の手足を舟底にくくり付ける兵の手は、神ともつかぬ存在に、縄を掛ける畏れと恐怖で震えていた。
二艘の丸木舟は、兵士の舟で沖まで曳かれ、その後は曳き綱も切られ流される。
その先の行く末がいかなるものかは、もはや人には量りようもない。
ただ波に任せた先をわだつみの神だけが見届けるのだ。
曳き綱を切る、鉄剣の非情な音がした。
能登外浦の冬の波は高い。石動毘古は、緊縛され激しく揺れる船底で身を起こすこともできないまま、姿の見えない能登比売に割れんばかりの声で呼びかけた。
「姫!もう少しの辛抱だ。決して諦めるな!我ら山人が、この舟を救うべく動き出している。決して諦めるな!」
船べりの幕が高波をかぶり、舟底まで水が入ってくる。石動毘古はそれでも声限りに叫んだ。
「能登の神の恵みを受け継ぐあなたが、この地を離れれば能登はどうなる!」
しかし、その悲鳴のような声は潮騒に飲み込まれ、姫の舟に届いているのかも定かではなかった。
その時、波間に最後の糸が切れるような姫の声が、石動毘古の耳に届いた。
「━━それもこの能登の地の神が定めた道でございましょう」
その声には、人の世の恨みも悲しみも、もはや一片も含まれていなかった。
それは、運命をすべて受け入れた、神の言葉にも似た静かな響きがあった。
━━私は海に流された。
ぼんやりと、まるで糸巻きから糸がゆっくり離れていくように、命の緒が尽きていくのを感じていた。
もう石動毘古の声も聞こえない。
波の音も聞こえない。
私は、また小さく歌を口ずさんでいた。
ふと、一緒に笑い合って、黄金の稲穂がなびく、刈り入れ前の田を見ていた男の横顔を思い出した。
あの日、この浜に来なかった……来れなかった男。
里の主でありながら、なぜか里人より働いてしまう男。
私が織った布を、黒くなるまで懐に入れていた男。
洗うようにいうと、恥ずかしそうに笑っていた男。
私が新たな《能登比売》になった祭りの日に、泣いていた男。
━━茅日子。
━━もう、会えない。
途端に、喉の奥から血の味がした。気がつけば、獣のような唸り声をあげていた。
死にたくない。
死にたくない。
そうだ。
あの日、私は最後に助かろうとした。
必死で縄を外そうと足掻いた。
━━けれど外れなかった。
身体に、顔に、容赦なく振りかぶる波は、私の息の根を瞬く間に止めた。
最後に見たものは、空に向かって突き出した自分の手。
苧麻《からむし》の皮を剥いで、撚って、紡いで、織った手。
黒く染まった指先、欠けた爪。
能登比売の手。
その手で織られた羽のように軽く、日の光を吸い込んだように輝く布。
能登比売が織る《神布》。
━━呪われればいい。
もう、だれも能登比売などならなければいい。
呪われればいい......。
━━二艘の舟は、海の彼方へその姿を消していった。
しかし、二艘のうちの一艘が、激しい白波に揉まれながら、最後にその舳先を福良津の方角へ向けて吸い込まれるように流れていったことは、誰も知らなかった。
機織りの村娘、真苧が冬の海へと消え去り、次の夏が盛りを過ぎた頃。
大王(崇神)は、姉•豊鉏姫(とよすきひめ)と、妹•豊足姫(とよたりひめ)の、二人の皇女に命を下した。
姉姫は、天照大神(あまてらすおおみかみ)を。
妹姫は、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を。
この強大な天津神と国津神の二神を、宮の外で祀るのだと。
━━それは、その後の二人の明暗を、大きく分けた命となった。
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