【#創作大賞2024】ドシャえもん第3話
心愛ちゃんが軽トラに轢かれそうになったその日の夜、隣の部屋から子どもの泣き声が聞こえてきました。頭を叩かれ火が付いたように泣く心愛ちゃんを思い出し、再びドロリと私の心に不安が広がりました。
「心愛ちゃん……」
私の住むアパートは壁が薄く、物音がよく聞こえます。隣だけでなく下の階の生活音でさえ当たり前のように聞こえましたが、その環境を受け入れ暮らしていました。下の階は上の音がもっと聞こえているはずです。でも、誰も文句は言いません。全部の部屋が埋まっていないアパートのため、気にしなければ生活できる範囲の騒音と住人は受け入れていたのです。そのため、これまでは他人の生活音を意識することなく生活してきました。古く防音機能のないアパートではありましたが、駅も近く買い物にも便利な立地、格安な家賃となれば、壁の薄さは許容範囲だったのです。
ただ、昼間の粗暴な深沢の言動が生々しく残っている状態だと、隣から聞こえてくる物音がいつもより大きく感じられました。なにかがぶつかる音や泣き声は聞こえるのですが、話の内容までははっきり聞こえないため不安が徐々に膨れ上がってきます。
「どうしよう……」
以前、外に出ようとドアを開け、深沢とぶつかりそうになったことがあります。その時も深沢はものすごい目で睨んできたので、思わずドアを閉め彼らが階段を降りきるのを息をひそめ待っていました。あの時も心愛ちゃんは黙って小走りで父親を追いかけていたっけ。あの父親はどうして並んで歩かないのだろうか?わが子を愛おしむ時間を楽しまないのはなぜなんだろう?
深沢への不愉快な気持ちを思い出しながら、一方では河原で見たか細く今にも壊れそうな後ろ姿を思い浮かべます。すると、泣き声がどんどんとエスカレートしているような気がしてきました。
深沢はもっとも関わり合いになりたくないタイプの人間です。普段なら誰かが声をかけるだろうと知らないふりを決め込みます。しかし、今は私の中でなにか扉が開いた状態になっていました。いつもの私ならしないであろう行動に出ます。気づくと私は隣のインターフォンを鳴らしていました。
「ああ?」
不機嫌そうな顔でドアを開けた深沢は私をジロジロと見てきます。
「あ、あのう、お子さんが泣いていて」
「う……るさかったっすか?」
「いえ……そうではなく」
「子どもって……泣……くもんしょ?」
「そうでしょうが……」
口をモゴモゴさせる私にイラつきを隠すことなく「チッ」と舌打ちをして深沢はドアを勢いよく閉めました。「ヒッ」思わず声が漏れます。あと少し遅かったら指が挟まれる、それくらい乱暴な閉め方でした。あれは彼なりの威嚇だったのでしょうか。ちょっとインターフォンを鳴らしただけで、人を威嚇するなんて。信じられないと思った時、深沢のドアの閉め方が乱暴になったのは私が彼の背後にいる心愛ちゃんと目が合った時だと気づきました。青白くおびえたような顔にある光の無いポチリとした瞳。子どもらしさが感じられないその瞳は私の心に突き刺さります。しっかりと閉められたドアに向かってため息をつき、自分の無力さを噛みしめながら部屋へと戻りました。
通報しようとも考えましたが、もう泣き声は聞こえません。泣いている最中に警察を呼べばなんとかなったかもしれないのに。なぜ隣のインターフォンを鳴らしてしまったのだろう、自分の判断の甘さを呪いたくなります。子どもの身支度ひとつできず、大声で泣かせる粗暴な男を通報するチャンスだったのに。自分の行動を悔やみながらその日は眠りにつきました。
次の日の夕方も、近所の土手で心愛ちゃんを見つけました。やはり置物のようにじっとしています。あんなに小さい子がどうして動きもせずに座っていられるのでしょう。私は心愛ちゃんに吸い寄せられるように横に座りました。
「心愛ちゃん」
今日は名前で呼んだせいでしょうか。心愛ちゃんがゆっくりと私の方に振り向きます。
「隣に住んでいる向井です。こんにちは」
「……」
光の無い目でじっと見つめられソワソワします。子どもへの挨拶にしてはおかしかったかとドギマギしていると、心愛ちゃんは視線を川の方へ戻してしまいました。
「なにをしているんですか?」
「……」
「お父さんはどこにいるの?」
心愛ちゃんがピクリとしました。お父さんという言葉に反応したようです。しばらくして、
「パ、チ、ン、コ」
とゆっくりと答えてくれました。パチンコか、深沢にあまりにピッタリな場所だったので納得しかかりましたが、心愛ちゃんをひとり河原に残していることに腹立たしさを覚えました。
「寒いのにどうしてここにいるの?」
「動くな、待ってろって言った」
だから動かず座っていたのか、ようやく心愛ちゃんが置物に見えた理由がわかりましたが、深沢の命令に素直に応じる姿に涙が出そうになりました。一言でも話すと涙がこぼれそうです。そのまましばらく私は無言で心愛ちゃんの横に座っていました。
「ド~シャえもん~♪ド~シャえ~もん~♪」
どこからか可愛らしい子どもの歌声が聞こえてきます。周囲を見回すと橋の上で母親と一緒に歩いている子どもが回らない舌で楽しそうに歌っていました。
そのほのぼのとした光景に一瞬微笑みかかりましたが、心愛ちゃんの姿が視界に入ると切なさがこみ上げてきました。同じ子どもでもこんなに扱いが違うなんて。その不公平さに、私の心の中の不安が黒いものへと変化します。ドロリ。
「ドシャえもん?」
心愛ちゃんの声で我に返りましたが、その声に私はなにか違和感を感じた気がしました。
