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「AI民主主義」が見落としているもの



注目を集める「AI民主主義」

AIやビッグデータを活用した新たな民主主義のあり方、いわゆる「AI民主主義」や「データ民主主義」が注目を集めている。さまざまな定義があるだろうが、ここではひとまず、「AI民主主義」を「AIが市民の意見を自動的に集約し、その集約結果に基づいて最適な政策を決定する仕組み」と定義しておこう。この仕組みのもとでは、私たちが投票するまでもなく、AIが膨大なビッグデータを基に民意を集約し、「理想的」な政策決定をしてくれる。AIに全て任せれば良いのだから、今までのような選挙や政治家は必要ないということになる。

最近、こうしたAIやデータに基づいた民主主義の構想が、従来の議会や選挙に代わる新たな意思決定システムとして期待を集めつつある。たしかに、科学技術の成果を政治制度に取り込もうという提案には大いに意義があると思うし、現在の閉塞した政治状況を打開したいという動機にも共感する。しかし、「AI民主主義」の構想が、民主主義そのものの理念を見誤ってしまっては本末転倒だ。


「民意」はあるのか?

第一に、AI民主主義の根底には、「民意」が個々人の内部に存在し、それを技術的に抽出・集約できるという前提がある。だが、この前提は果たして妥当だろうか。AIによって民意を集約するといっても、そもそも多くの人々は、集約の対象となるような明確な意見を持っているわけではない。「原発についてどう考えるか」「国の安全保障に関してどうするべきか」といった問いに、即座に答えられる人は決して多くないだろう。

民意という対象自体が、あやふやで実態の掴めないものなのだ。一部には、このような問題への解決策として、「民意」を無意識の領域からもすくい上げようとする論者も存在する。しかし、そうして得られた無意識的なデータを「民意」と呼ぶこと自体に、重大な疑義があると言わざるを得ない。無意識のデータを意識レベルに組み上げて描き出す際に、「民意」の恣意的な解釈が生まれてしまうからだ。


「一般意志」に基づく統治?

次に、たとえ「民意」を導き出せたとしても、それに基づいて政治を運営することは可能なのだろうか。この点に関して、AIによる民意の集約を、ルソーの「一般意志」になぞらえる議論がある。『社会契約論』を著したフランスの思想家ルソーは、「一般意志」に基づく政治社会を構想した。彼によれば、「一般意志」とは共同利益を目指す人民の一体的な意思であり、政府はこの「一般意志」に従って法律を制定し政治を運営することを義務付けられる。

もし、データから人々の「一般意志」を導き出すことができれば、政治が政治家の個人的な利害や人間関係に左右されることはなくなり、純粋に「一般意志」に規定された「理想的な」民主主義を実現できるかもしれない。そこで、いわば「デジタル一般意志」の発想が登場する。現代の技術を用いれば、ビッグデータを解析することでデジタル由来の「一般意志」を導き出すことが可能なのではないか、というわけだ。

しかし、ここで「一般意志」という概念を用いることの妥当性の議論を一旦脇においても、いわゆる「デジタル一般意志」を実際の政治の世界へ転用しようとなると課題が残る。「一般意志」なるものは個別の問題に対して決定を下すことはできないからだ。「一般意志」とは抽象レベルでしか機能しない理念であり、具体的な政策判断には必ずしも結びつかない。現に、ルソー自身が一般意志の「個別的な決定」は困難であると述べている(國分功一郎『近代政治哲学』)。むしろ「一般意志」を持ち出す議論は、「AI民主主義」や「データ民主主義」のもつ権威主義的性質を覆い隠す、都合のよい幻想にすぎないのではないか。


他者との意見交換が、市民を成熟させる

ここで忘れてはならないのが、民主主義が単なる「意見集約の装置」ではなく、討議を通じた意見形成のプロセスだという点である。功利主義の確立者として名高いJ.S.ミルは、代議制民主政治に不可欠な要素として、市民の自己陶冶という概念を提起した。彼によれば、市民は政治への関与を通じて公共性の意識を涵養していく。民主政治への参加が、市民に道徳的・知的な成長を促し、公共精神を育ませるのだ。ポイントは、政治参加を通じて市民が成長する点にある。人は他者と意見を交わすことで、自分の意見をも変えていく

AI民主主義は、この市民の自己陶冶の発想を根本から捨象してしまっている。政治における市民とは本来、固定的な「データ」の発生源ではなく、他者との関わり合いの中で変化しうる存在である。


「第二の回路」の重要性

この議論につながるのが、ドイツのユルゲン=ハーバーマスの主張だ。ハーバーマスによれば、民主主義の成立には「第一の回路」(議会などの公式制度)に加え、「第二の回路」(日常の対話、公共圏での議論)の存在が欠かせない。

民主主義の役割を、単なる意見の集約=「第一の回路」に押し込んで考えるのは誤りだ。市民が互いに言葉を交わし共同体の在り方を討議する「第二の回路」抜きには、民主主義の本質は失われてしまう。いわば、民主主義は意見集約を担う「第一の回路」と、意見交換を担う「第二の回路」の両輪で回っている。現在広く見られるAI民主主義の構想は、多くの場合、意見集約の「第一の回路」の枠組みに終始しており、意見交換の「第二の回路」を見落としている


背景にある「ファスト政治」トレンド

民主主義のあり方が「意見集約としての制度」という側面に矮小化されていく事態は、単なる一つの現象というよりも、近年の政治におけるより大きなトレンドの現れかもしれない。そこで仮説として挙げることができるのが、SNSと連動した「ファスト政治」の存在だ。

近年の政治は結論を急ぐ「ファスト政治」と化している。「なかなか決められない政治」への不満は根強い。その分、ますます早く政治的結果を出すことが求められている。メディア史家の佐藤卓己は、背景にSNSの影響を指摘する。SNS時代には煩わしい現実よりも快楽が優先される。同様に、政治でも、即時的な満足感の最大化ばかりが求められている(佐藤卓己『あいまいさに耐える』)。人々は、曖昧さに耐えられず、スピーディーで明確な結果を欲しがっている。だから、「決められない」議会政治に任せるよりは、AIに最適解を導いてもらった方が良い、という発想が支持を集めるのだろう。


「逃げた」先に民主主義は残っているのか?

しかし、「即時的な満足感の最大化」ばかりを目指し、時間をかけた討議がなくなれば、民主主義は崩れていく。市民が、政治家もしくはAI(!)が実行するプログラムの利益を享受する「お客様」になってしまえば、その社会ではもはや市民が「自分たちのことを自分たちで決める」こともなくなるだろう。市民が政策決定を"完全に"アウトソースする社会に民主主義はない。市民たちがコミュニケーションを通じて意見を交わし、意見を作ることが民主主義の維持にとって肝要である。

以上のように考えると、AI民主主義の発想は、民主主義の改革プランを提示しているように見えて、市民たちから政治コミュニケーションの必要性を剥奪し民主主義の基本的なコンセプトを蝕んでもいる。AI民主主義の社会で登場するのは、ますます黙りこくった「お客様」的な市民たちだ。そこには、公共性を育む陶冶もなければ、民主政治を深化させる「第二の回路」もない。政治はますます速くなり無意識化するだろう。

したがって、今こそむしろ、曖昧さに溢れ、時間がかかり、難解でややこしい政治の本質を思い起こすべきだ。民主主義とはそれ自体が厄介な挑戦である。複数の人々が一つの結論に辿り着くことは初めから大変難しい取り組みだ。小学校の一クラス内でも一つの結論を出すことは難しいのだから、一つの町や一つの国でそれを実現するのがいかに難しいのかは言うまでもない。
しかし、そうした民主主義の厄介さや難解さをとっぱらった先にあるものは、本当に民主主義と呼べるものなのだろうか。民主主義とは、そうした厄介さや難解さに向き合ってこそ実現されるものでもある。AI民主主義の実装を急ぐ前に、まずは民主主義の根本的な理念を見直すべきだろう。




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