界隈、〇〇垢、推し活という違和感 それらに疎外される人々

 私は界隈、〇〇垢、推し活という文化に馴染めなかった。中学生の頃からtwitter(現X)を使って、多くの人と関わってきたけれど、私は明確にそれらの文化圏に所属しているという意識はなかった。
 たぶん、はたから見ると私は、読書界隈、人文界隈、批評界隈、美術界隈と隣接しているけれど、その所属意識はない。界隈を「垢」という表現に変えても、私はその所属意識はない。推し活をしている意識もない。
 本記事では、私がそれらの界隈、〇〇垢、推し活に馴染めなかった理由を述べていこうと思う。
 私がこの記事で主張したいのは、界隈、〇〇垢、推し活という現代的な好きの活動に馴染めない、疎外されている人たちがいるということである。
 それらの文化圏で求められるのは、何が好きなのかを表明し、それをアイデンティティとする態度や、好きの信仰告白を行って誰かと繋がり、共感し合うことを前提とする態度だ。
 自分の好きなものをわざわざ自分のアイデンティティとしようとしない人間、一人でコンテンツを摂取して満足している人間たちが、それらの文化圏において疎外されている。
 そういう人たちはあえてその疎外感に対して声を上げることは珍しいが、確かに存在している。本記事はそういう疎外感を感じている人たちに向けた記事である。
 私は、「好き」という個人の感情に他者が混ざり込むのが大嫌いだ。
 一応以前に「好き」について論じたものがある。それも参考にしてほしい。
 多分、現代の「好き」は他者性が強すぎる。


界隈


 界隈はおそらくは推し活と同じような、ある種のファンコミュニティを指す。HAKUHODO、SHIBUYA109lab.「界隈消費 生活者発のコミュニティ起点で起きる、未来の消費とは?」(以後、HAKUHODOレポートと記す)によると、「界隈」は以下のように定義している。

「好き」や興味関心を軸に形成されるゆるい集団(コミュニティ)

HAKUHODO、SHIBUYA109lab.「界隈消費 生活者発のコミュニティ起点で起きる、未来の消費とは?」p6

 主にマーケティング的な視点によって書かれたレポートではあるが、資料や統計データなど参考になる点が多い。

 私としては、「界隈」の定義を見た時に「ゆるい集団」という言葉に少し引っかかりを覚えた。
 「界隈」は本当にゆるい界隈なのか? 単純に推し活コミュニティーと同義語として考えていたので、そこに違和感を覚えた。
 HAKUHODOレポートを見ると、自分は何かしらの「界隈」にいると答えたのが、男性10代で45.6%、女性10代で61.2%で、年齢が上がるに連れ、割合が低下する。
 若い層では、約50%もの人々が自分を「界隈」にいると自認している。けれど私が注目するべきだと考えるのは、残りの50%ほどの人々が、自分が「界隈」にいないと思っている点である。
 「界隈」は、HAKUHODOレポートによるとゆるい繋がりであるはずだ。けれども、そのゆるい繋がりにすら疎外される人々がいるのである。
 〇〇界隈で有名なものは、風呂キャンセル界隈だろう。風呂にあまり入らない、風呂をキャンセルする界隈を指す。
 では他にどんな界隈があるのか。HAKUHODOレポートでは、その界隈を一覧化している。レポートの22ページを参照してほしい。
 HAKUHODOレポートにおいて、界隈とされているものをジャンル分け(筆者によるジャンル分け)をすると以下の通りになる。

・趣味(アニメ・ゲーム・投資等)
・ファッション(地雷系、ストリート系等)
・本人の属性(うつ、パパ活、陰謀論、愚痴等)

 ここで注目するべきは、3つ目の「本人の属性」によって界隈が決定される点である。界隈は自称することによって始まるとは限らず、他人からのレッテル張りによって決まってしまうのだ。恋愛カテゴリーにおける、モテ・非モテは特に自称でもあるが、他人から決定されるものでもある。

 仮にその界隈への参与を意識的にしていなくても、外の人から「あの人って弱者男性界隈の人だから」と揶揄されることもあるだろう。

 山内萌氏が集英社新書プラスで連載している「界隈民俗学」も、界隈の分析に参考になる。
 山内氏は、界隈は元々「銀座界隈」など土地に由来概念であると指摘する。そして、ポッドキャスト「奇寄怪怪」でラッパーのTaiTanと音楽家の玉置周啓らが、界隈には結界的な性質があると指摘したことから、山内氏は記事連載の目的を以下のように述べる。

本連載では界隈の避難所としての側面、すなわち「外の世界から自己を守るために内側から張られた結界」として界隈をとらえてみたい。

界隈民俗学 第1回「界隈」という結界

 確かに、界隈を自称する人たちは「外の世界から自己を守るために内側から張られた結界」という役割を持つだろう。
 けれども、一定数、意図せずに界隈に巻き込まれてしまう人々が存在する。そこに、自己を守るためという役割が果たしてあるだろうか。
 特に元々の「銀座界隈」などの土地に由来する界隈概念も、ただそこにいるだけでレッテル貼りされる。ある種、港区女子も同じような命名だろう。
 私は、結界を張っているのはむしろ、外部の人間なのではないかと思ってしまう。自分が属していない他者をレッテル貼りし、納得するための「界隈」という言葉なのではないだろうか。あそこには、ある種の結界があるから近づかなくていいという論理付けになる。
 特に山内氏がファッションスタイルの「天使界隈」という造語が、アパレルブランドの人々の創造であるという例を上げているのにも、他者によるレッテル貼りが界隈の源泉であることを示唆する。
 〇〇界隈はあくまで、他者からのレッテル貼りによって成立し、場合によってはそれを自称し、アイデンティティとして受容する側面があるのかもしれない。
 もちろん、自称から始まることもあるだろうが、界隈という言葉は他者の視線を前提としているように思える。
 少なくとも、界隈という表現が元々他者から与えられるものだとするなら、それらを自称するのはやや可笑しさがある。
 それこそ、他者からの結界を自分の結界として再利用し、そして一つのカルチャーにしているのかもしれない。
 つまりは界隈という言葉自体、他者からの揶揄のレッテルを利用し、武装するためのものであるような気がする。
 オタクという言葉も、元々他者からの軽蔑的なワードだったはずなのにいつの間にか自称になってしまっている。私は、他者由来の言葉を自称として使うことに違和感を持ってしまう。

〇〇垢

 これは、具体的な〇〇垢批判だ。具体例としてあげるのは、読書垢と音楽垢だ。
 読書垢は、常に本の写真とコーヒー・紅茶の写真をあげている。部屋は暖色の間接照明に、ちょっと良さそうな合皮のブックカバーで、さも丁寧な生活をしているような雰囲気を醸し出す。あとカフェで本を読んでいる写真を誇らしげにあげたりする。
 もちろん、そういう読書系インフルエンサーが目立つというものがあるが、それに追随する雰囲気を感じている。
 本なんて一人で読めばいいのに、それを誰かと繋がる道具としている歪さ。私はそれが嫌いだ。
 音楽界隈は、それこそ他者とつながり、他者からの承認欲求を満たす露骨さを感じる。「ライブ参戦しました〜」って言って、会場の前で、自分の顔とライブタオルの写真を上げている。顔出ししない場合も、さも私は美女・イケメンですよという雰囲気を醸し出している。読書界隈より他者性が露骨だ。漠然と、ルッキズムを醸し出されている。
 〇〇垢というのは、その趣味の本質と離れて、見せつけ的(パフォーマティブ)な側面がどんどん大きくなっていく傾向にあるように感じる。
 これはもちろん、やっかみの部分が多い。悪口に過ぎないかもしれない。そういう雰囲気を楽しんでいる人たちはいくらでもいる。だが、私はその雰囲気には馴染めなかった。その僻み、妬みかもしれない。
 〇〇垢と自称するのもだいぶパフォーマティブ、他者への見せつけ的な側面が強いだろう。他者への承認の手段に「好き」を利用している。
 〇〇垢が存在するのは機能分化という意味もあるだろう。自分の知り合いは、5つぐらいのアカウントをそれぞれ用途ごとに分けて使っているらしい。
 だが、私はその機能分化が果たして必要なのかと思ってしまう。私はなにか好きなものを言いたいなら、一つのアカウントでまとめて言う。
 わざわざアカウントを分ける理由は、ジャンルの情報を一つのアカウントに集約したいから、あるジャンルの情報を知りたいならそのアカウントを見ればいいからなど、機能的な側面が強い。
 けれど、もう一つには繋がる人に対して、どういう人間なのか分かりやすくするためだろう。例えばVtuberのアイコンにしていたら、それが好きな人だとアイデンティティを作りやすい。プロフィール欄に誰が好きなのか書けば、それを好きな人と繋がりやすいだろう。
 〇〇垢という存在は、自分が何を好きなのか一つに絞ることで、ある種イメージ作りをしているのだろう。
 けれど実際の人間は、好きなもののジャンルなんて様々で、一つの趣味に絞れる人間なんて稀だろう。私も、はたからみたら人文系の人間という風にはなるだろうが、別に人文書だけ読んでいることもない。音楽もそれなりに聴くし、映画を見るし、小説も読むし、ラジオも聴いていたりする。
 〇〇垢は、そもそも何かを「好き」と言う行為は、人の細かい好きのグラデーションを、一つの属性に集約してしまう。
 シンプルに〇〇が好きな人間として振る舞えば、コミュニケーションがやりやすいだろう。でも、本当にそれがいいことなのだろうか。
 私は、ドライブ・マイ・カーが好きだし、コードギアス反逆のルルーシュが好きだし、Creepy Nutsが好きだし、オールナイトニッポンが好きだし、ボードリヤールが好きだし、原田マハが好きだし、孤独のグルメが好きだし、舞元力一が好きだし、ゆる言語学ラジオが好きだったりする。
 人の好きは一つのジャンルに集約できない。
 〇〇垢というのは、人の多様性を狭めてしまう。
 〇〇垢というワードに留まらない、「好き」の形があってもいいじゃないか。

推し活

 推し活は、前提として推しの信仰告白から始まる。まず、何が私の「推し」だと宣言しなければ、推し活は始まらない。私はここに他者性を感じてしまう。他者がいなければ宣言する必要もない。
 そして、推し文化の特徴としては、全身全霊の「好き」が求められる。何かに熱中し、それを布教し、そして推しに貢ぐ。
 同担拒否という文化もあるだろう。他の人と推しが被ることへの忌避感。推し文化が、他者に左右されているのではないかという危機感を個人的には感じてしまう。
 推し活で個人的に、違和感を持ってしまうのは痛バッグだったり、アクリルスタンド文化だったりする。
 痛バッグは見せびらかしの極地だろう。執念的に推しの缶バッチを大量に集め、それを一つの透明なバッグにくっつける。
 アクリルスタンドも至る所に持っていって、一緒に写真を撮り、それをSNSに載せる。
 推し文化にある種のお作法があるように感じてしまう。誰かが作ったモデルロール(おそらくは自然発生的に生まれたのだろうが)に従っているように感じる。
 個人の「好き」のあり方が、社会によって変容させられているように感じる。
 さらに推し文化は、ある種消費を促す文化でもあるように感じる。
 私の原体験なのだが、中学生の頃、友人がアニメ好き、ボーカロイド好きが多く、一緒にアニメイトに行ってアニメのグッズをたくさん買った。アクリルキーホルダー、ラバーストラップ、缶バッチ等々。
 5000円ほどだったと思う。中学生の小遣いとしてはかなり大きなものだった。
 でも、帰ってそれらを眺めたときに、なんで買ってしまったのだろうかという後悔が湧いた。別にそれらのコンテンツは嫌いではない。だが、一瞬の快楽のために5000円を消費してしまった感覚が強く湧いた。
 それらのグッズを買ってどうなるのだろうか。別にストーリーもエピソードも追加で得ることのできないモノを買って、それで一体何になるのか。
 私の原体験には、消費に促され買ってしまった虚無感と罪悪感がある。
 そのほかにも、一番くじに数万使って残ったグッズを見て、何やってるんだ自分という感覚に強く襲われたことがあった。
 まあ、それで満足している人たちもいるのだろう。私が、物語至上主義者で、グッズを買うぐらいなら、漫画、小説を買ってしまえと思っているだけなのかもしれない。
 だが、推し文化、推し活の形は、面白みがない。なんでもアクリルキーホルダーを作ったり、コラボカフェをやれば儲かるみたいなテンプレさが目立つ。
 それ以外に何があるかと言われたら難しいけれど、一つのコンテンツを外部に拡張して売っていくシステムに個人的には限界を感じる。
 特にコラボカフェは、外から見るとぼったくりだなあと感じるものが多い。推しを人質に消費を促すシステムが横行しているようにも見えなくもない。
 そろそろ長くなってきたので、推し活についての自分の評価を簡単にまとめよう。
 推し活は他者に見せびらかす側面がだいぶ強くなっている。推しを信仰告白することによって始まる点を見てもそうだろう。さらに、推し活は経済的に結び付けられ、消費を促すシステムが構築されている。
 推しは極度に、「好き」が社会、経済に結び付けられた結果なのかもしれない。

まとめ 「好き」から他者を排除するために

 簡単に言えば、「好き」が他者に見せつける行為だったり、他者が存在して初めて成立する行為になってしまうことが、私は嫌いだ。もちろん複数人の旅行、スポーツなど他人と行うことで初めて成立するものに関しては、別に良いと思う。だが、一人で受容できるものにわざわざ他者を持ち込む必要はないと思っている。
 現代では、「好き」が他者、社会に結びつきすぎている。
 もちろん、「好き」はいつだってコミュニティーを前提としていた。かつて孤立していたと思われがちな1990年代のオタクですら、小さなコミュニティーを作り、他者と一緒にコンテンツを楽しんでいた。
 「好き」から他者を取り除くのは非常に難しい行為だ。だが、「好き」を自分のための行為に取り戻すべきだと思う。「好き」を他人のものではなく、コントロール可能な自分のものにしていく。
 現代において重要なのは、レッテル貼りされない自分ならではの「好き」の形を模索していくことだと思っている。
 私が言いたいのは、以下のことだ。
・レッテル貼りされた「好き」に馴染めない人たちは別に問題なんてないんだ。あなたの「好き」はきちんとあなたのものになっている。
・レッテル貼りされた「好き」に順応している人は、「好き」が自分のものになっているのか意識してみよう。

 この世界には「好き」の多様性があるべきだ。界隈、〇〇垢、推し活に回収されない自分の「好き」があるべきだ。
 そして、一つの「好き」にこだわるのも危険だと思っている。もっと拡散的な「好き」の形だってあるべきだ。
 レッテル貼りされない「好き」のあり方について私たちはもっと考えてもいいのかもしない。
 
 
 

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