瀬川清子の民俗学—柳田民俗学の継承と女性の生活世界
第1章 瀬川清子という研究者を描き出す
第1節 なぜ今、瀬川清子を論じるのか
日本民俗学の創始者である柳田國男を中心とする歴史観の中で、女性の民俗研究者たちの業績は長らく周縁化されてきた。柳田門下には瀬川清子のように女性の生活文化に関する膨大な調査研究を行った研究者も多く存在したが 、従来の民俗学史は男性研究者の功績を主軸に据え、女性研究者の寄与を十分に位置付けてこなかった傾向が指摘できる。瀬川清子(1895–1984)は日本における女性民俗学者の草分けであり、女性の視点から暮らしや文化を捉え直す研究を先駆的に切り拓いた人物である 。しかしその評価は、柳田國男中心の語られ方の中で限定的となり、彼女自身の成果は民俗学史の「周縁」にとどめ置かれてきたと言える。こうした状況に鑑み、現在あらためて瀬川の役割を再評価する意義は大きい。女性研究者による民俗学的知見を掘り起こすことは、民俗学史の偏りを是正し、民俗学におけるジェンダー視点を強化することにつながる 。本論文では、柳田國男中心史観の下で見過ごされがちであった瀬川の足跡と業績に光を当て、彼女を論じ直すことで民俗学史の再構築を目指す。これは単なる人物再評価にとどまらず、民俗学が包含すべき課題と視野を拡張し、学術史の構造的偏向を批判的に検討する試みでもある。
第2節 瀬川の生涯と学問的形成 ― 柳田門下・京都との関わり
瀬川清子は1895年秋田県鹿角市毛馬内に生まれた。幼くして実母を亡くし、継母・今から教育熱心な影響を受けた。今は京都帝国大学で東洋史学を確立した内藤湖南博士の従妹であり、この縁が清子の学問志向を間接的に支えたとされる。瀬川は尋常小学校を卒業後、地元で教員となり、22歳で瀬川三郎と結婚。大正期には「女性も大学へ」との時代の気運に刺激を受け、1924年に東洋大学専門部倫理学東洋文学科を卒業した。同大は女子に門戸を開いた先駆的機関であり、瀬川もその先進的卒業生であった。
卒業後は東京市立第一中学校で教壇に立つかたわら、柳田國男に師事して民俗調査に参加。1933年には能登半島沖の舳倉島で海女たちと生活を共にし記した「舳倉の海女」が柳田の目に留まり、木曜会に招かれた。これを契機に柳田門下の一員として本格的に研究を開始、山村・離島・漁村など全国150か村以上を踏査した。1937年には柳田主宰の「日本民俗学講座」で婦人座談会(「女の会」)を組織し、女性聞き取り調査の成果共有に努めた。
戦時期には『海女記』(1942)、『販女』(1943)を刊行し、海村や市井に生きる女性の生業を考察した。柳田民俗学が扱わなかった領域に光を当てたこれらの著作は、女性視点の新しい民俗学を提示した。調査範囲は全国に及んだが、京都府北部の伊根や舞鶴など丹後地方での調査も重要で、後の『海女』(1970年)に結実した。
戦後も『婚姻覚書』(1957)、『若者と娘をめぐる民俗』(1972)などを通じて婚姻・家族・通過儀礼に関する比較研究を発表。1960年には大妻女子大学教授、東京女子大学講師を務め、女性研究者として活躍の場を広げた。晩年にはエイボン女性年度賞(1980)、柳田國男賞(1981)を受賞し、1984年に88歳で逝去。秋田の一教師から出発し、柳田門下として、また京都や各地の調査を経て、日本民俗学に新境地を拓いた生涯であった。
第3節 民俗学史における瀬川 ― 周縁に置かれた要因
瀬川が長らく「周縁」に置かれたのは、学界の制度的・文化的偏りによる。第一に、研究テーマが男性中心で設定され、出産・月経禁忌などジェンダー事象は正面から論じられなかった。瀬川は女性の語りに耳を傾け独自の研究を切り拓いたが、当時は周辺的とみなされた。第二に、学会構造の制約で女性研究者が要職を得にくかった。瀬川も教授職を得たが、学会執行部に女性が加わるには時間を要した。このため女性研究者たちは自ら「女性民俗学研究会」を結成し、機関誌『女性と経験』(1956年)を刊行した。第三に、評価基準の偏りである。民俗学では共同体や国家的理論への貢献が重視され、家族や日常生活を対象とした瀬川の研究は当初十分に顕彰されなかった。
しかし近年は再評価が進む。1980年代の女性民俗学研究会による検証、岡田照子編『瀬川―女性民俗学者の軌跡』(2012)などがその例である。瀬川が「周縁」に置かれた経緯を批判的に検討することは、民俗学の視座を拡張し、多元的な学史像を構築するうえで意義を持つ。本論では、瀬川の方法論と著作を精査し、民俗学史における位置を再定義しようとする。
第2章 瀬川の調査方法と記述スタイルの分析
第1節 女性の生活世界をとらえる調査方法
瀬川はフィールドワークにおいて、女性の日常生活の場(竈や台所、井戸端、浜辺など)に深く入り込んで観察し、聞き取りを行った。とりわけ昭和8年(1933年)には能登半島沖の舳倉島に渡り、海女たちと寝食をともにしながら生活実態を記録した「舳倉の海女」を執筆している。こうした被調査者と生活を共にするアプローチにより、女性たちの視点に立った細部の情報まで捉えることができた。男性の民俗学者が村の公的領域や男性伝承者に聞き取りをすることが多かったのに対し、瀬川は女性しか立ち入れない場(井戸端での井戸端会議、台所での調理作業、浜での海女の仕事風景など)に自ら足を踏み入れ、その内部から民俗を記述した。このような立場の違いにより、従来見過ごされてきた女性の労働や知恵が浮き彫りになっている。
瀬川の調査手法の大きな特徴は、「聞き書き」による丹念な記録と、それを支える共感的姿勢である。単に伝承内容を記録するだけでなく、語り手である女性の語る言葉をそのまま筆記し、自身(聞き手)の存在も記述に登場させるような手法を早くから模索した。たとえば瀬川はフィールドノートに、誰に何を聞いたかだけでなく、語り手との関係性やその場の様子、自分自身の感じたことまでを書き留めている。このように調査者自身の視点や感情を織り交ぜる記述は、当時の民俗学では異色であり、匿名の「伝承者」像に頼りがちだった男性民俗学者の記録とは一線を画す。柳田國男も「民俗学には女が必要である、女の人が研究しなくちゃダメだ」と常々瀬川に語っていたとされ、女性研究者による女性民俗の調査を後押しした。瀬川はまさにその期待に応え、女性の日常世界に分け入る調査を積極的に展開したのである。
また瀬川は、調査を通じて得た気づきを女性の社会的地位の問題意識と結びつけていた。1936年の講演「女性と労働」では「なぜ女の地位が低くなったのか」「女の地位を低くしたものは何か」を問い続け、女性自身が「女性劣位」を受け入れるに至った経緯に問題提起している。このように従来の民俗学が前提としてこなかった問いを立て、女性の生き方を歴史的・民俗的に検証しようとした点にも、瀬川の調査の特色が現れている。例えば舳倉島の海女たちの調査では、過酷な生業に従事する彼女たちの逞しさや朗らかさに強い感銘を受け、「健康な婦人の姿は決してかよわいものでも甲斐ないものでもない」と述べ、従来「女は弱いもの」という先入観が根底から覆されたと記している。瀬川自身、山国育ちの自分には衝撃的だった南の島の娘たちの生活を目の当たりにし、「私と同じ国に生まれた娘の生活とは思えない」と涙するほど心を揺さぶられたと告白している。このような調査者自身の感情をも動かす体験を重ねながら、瀬川は女性の生活世界の多様さと力強さを民俗学の中に位置づけていったのである。男性民俗学者には得られなかったであろう女性観の転換や細部の記録は、瀬川のユニークな調査手法の賜物といえる。
第2節 各著作における記述スタイルと方法論
瀬川の著作は、豊富な語彙と緻密な構成、そして女性の視点からの分析によって特徴づけられる。それぞれの代表的な著作を見てみると、彼女の記述スタイルと方法論が具体的に表れている。
『海女』(1970年): 戦前の調査と戦後の考察をまとめたこの著作は、舳倉島での海女体験を出発点に、日本各地の海女たちの生活・歴史・文化を記述したものである。序文を柳田國男が寄せており、フィールドで得られた「今まで一度も文字に伝えられたことのない事実」を記した意欲作でもある。文体は叙情性に富み、民俗誌でありながら人間味あふれるドキュメントとして読者の心を打つものになっている。瀬川自身、「旅」をしながら各地で見聞きした出来事を綴る形をとり、「調査」という言葉をあえて使わず一貫して「旅」という語で表現している。例えば『海女記』(1942年、処女作)に付された自序では、自らの民俗学の道程を振り返りつつ、「郷に入って郷を知る」ために全国を旅し、各地の飯を共に味わい、古老に尋ね歩いた経験が綴られている。その際、地方ごとの風物に驚嘆する段階から、「この国の過去の生活ぶりを認識する為の旅」へと、自身の視野が拡大していったことが述懐されている。つまり『海女』では、単なる地域報告の集積ではなく、一人の女性研究者の紀行と発見の物語として構成されており、各地の海女の姿を比較しつつも、それらを貫く女性の生き様を詩情豊かに描き出しているのである。章構成も各地の事例紹介にとどまらず、「海女の歴史」「海女を取り巻く社会」「海女の信仰」といったテーマ別の考察を交え、地域比較と共通点の抽出がなされている(各地域ごとの海女のことばや習俗の違いにも触れられ、千葉県千倉や北海道利尻島の事例も紹介されている)。そうした分析的視点と物語性の両立が『海女』の記述スタイルの特徴である。
『婚姻覚書』(講談社学術文庫版2006年、原著1971年): 瀬川が長年取り組んだ婚姻習俗の研究をまとめた著作である。副題こそないが、内容は日本各地の婚姻形態を民俗学的に精査したもので、若者宿・娘宿(未婚の青年男女が集う場)、通婚圏(結婚圏の広がり)、婚姻の諸様式と婚舎のあり方、嫁入りの儀礼や主婦権(嫁が家にもたらす権限)など、多岐にわたるトピックを網羅している。瀬川は自ら全国各地で収集した豊富な実地資料に基づき、これらの要素を一つ一つ分析した。「日本の女性はどのような婚姻のしかたをしてきたか」という問いを軸に、村落社会における男女関係・家族関係を歴史的に捉え直そうとしたのである。記述には各地方の固有の語彙や習俗名がふんだんに登場し、それらの比較検討によって婚姻制度の地域差・時代差が浮き彫りにされる。例えば、婿が妻方で暮らす婿入婚から妻が嫁ぐ嫁入婚への移行過程において、「嫁の長期里帰り」や姫宿制度(嫁が婚家に入る前に実家近くで別居する形態)といった中間形態が存在することを指摘し、婚姻形式の過渡期を分析している(※小浜市国富地区の事例分析より)。このように瀬川は各地の事例を比較し普遍的なパターンを導く手法をとっており、語彙の使い分けや制度の名称に細心の注意を払いながら議論を組み立てている。文体は学術的で精緻だが、その背景にはフィールドで聞き集めた生々しいエピソードや会話の断片が存在し、それらが分析を裏打ちしている。女性民俗学者ならではの視点で、日本の婚姻習俗の本質に迫った本書は高い評価を受けており、「女性の目で捉えた婚姻民俗研究の白眉」とも評される。広範なフィールドワークによる実証と、女性の経験世界への洞察とが融合した記述スタイルが『婚姻覚書』の特徴である。
『女の民俗誌―そのけがれと神秘』(1980年): 瀬川晩年の著作で、女性と民俗にまつわるタブーや聖性を論じたものである。月経や出産に関する「ケガレ」観、女性の呪術的役割など、民俗社会における女性に固有の観念を掘り下げて分析している。柳田国男賞を受賞した本書では、瀬川の長年の知見が集大成されており、記述も平易ながら含蓄に富むものとなっている。たとえば「血の忌み」や「産神信仰」といったテーマごとに、全国の伝承例と言葉を列挙して比較しつつ、女性の身体性にまつわる民俗観念の構造を解き明かしている。瀬川は戦前から『海村生活の研究』などで「血の忌」「海上の禁忌」といった項目を執筆しており、それらの延長線上に本書のテーマがある。専門用語や各地の方言語彙を丁寧に解説しながら、女性に関する民俗事象の共通点と相違点を論じるスタイルで、読者にとっては民俗誌であると同時に文化史的考察ともなっている。分析視点は一貫して「女性という主体から見た民俗」に置かれており、社会の周縁に追いやられがちだった女性儀礼の意義を再評価する内容になっている。語り口は穏やかだが、その根底には女性の民俗を正当に位置づけたいという強い問題意識が流れており、科学的分析と平易な語りのバランスがとれた記述となっている。本書によって瀬川は柳田国男賞を受賞し、その方法論と視点の独創性が改めて認められた。
「衣・食・住」関連の著作: 瀬川は日本人の衣食住に関する民俗変遷も多く手がけている。『女のはたらき 衣生活の歴史』(1962年)や『日本人の衣食住』(1964年)、『食生活の歴史』(初版1956年、講談社学術文庫版2001年)などの著作では、衣服や食物、住居に関する語彙・習俗を網羅的に集成し、その歴史的変化を論じた。例えば衣生活史の研究では、着物や装身具の名称・用途を各地の呼称の比較によって分析し、女性の手仕事(機織り・裁縫)を支えてきた民俗用語に光を当てている。また食生活史では、ハレとケの食事の違いや、食材・調理法の地域比較、食物語彙の収集などを通じて、日本人の食文化の地域性と普遍性を描き出した(彼女は柳田門下の倉田一郎らとともに食物語彙調査にも関与し、昭和戦前期に『食物語彙採集要項』の作成に携わった経緯がある)。住生活では民家の間取りや婚礼・葬礼時の家のしつらえなど、暮らしの場の文化について記述している。これら衣食住に関する仕事では、瀬川は大量の用例と言葉をフィールドから集め、それらを分類・比較する民俗語彙学的手法を採用した。同時に、その背後にある生活者の視点(特に女性の家事労働や知恵)を読み解こうとしている。文章は簡潔で事実の列挙に徹する部分もあるが、それによって逆に各地の生活の豊かさが浮かび上がる構成である。例えば『日本人の衣食住』では、日本文化論的な大きな物語に回収せず、地域ごとの細かな事実を積み重ねる記述で読み手に訴えかけている。こうしたスタイルは、一見地味ながら事実密度が高く、資料的価値も非常に高いものとなっている。瀬川の衣食住研究は、民俗学のみならず生活史研究への貢献として評価されており、現在でも引用される基本文献となっている。
以上のように、瀬川の著作はそれぞれテーマは異なるが、フィールドにもとづく膨大な一次資料の活用、女性の生活に根差した視点、豊かな民俗語彙の紹介と分析、そして読みやすく時に情感あふれる文体が一貫した特徴として見て取れる。地域比較の手法も駆使しつつ、「生活の事実」を積み重ねて文化の姿を描くという彼女のスタイルは、同時代の男性研究者の著作とは異彩を放っていた。それは単に女性研究者だからというだけでなく、瀬川本人のフィールド体験と問題意識が深く関与した方法論的実践だったと言えるだろう。瀬川の記述には、自らが見聞きし驚き感動した経験が随所に盛り込まれており、それが読む者にも伝わるため、民俗誌でありながら一種のヒューマンドキュメントともなっているのである。この点において、瀬川の民俗記述は学術と文学の架橋的な魅力を備えていると評価されている。
第3節 資料とフィールドとの接続
瀬川は生涯で日本各地ほぼ300か所にのぼる調査地を訪れたとされ、その調査範囲の広さは同時代の民俗学者の中でも群を抜いている。北は北海道・東北から南は沖縄の離島まで、山村・漁村を中心に足跡を残した。京都北部の丹後地方(伊根や舞鶴周辺の海村)もその調査地に含まれており、昭和戦前期に柳田國男主導で行われた全国海村調査において瀬川は丹後半島方面の村落も訪れている。実際、海村調査は戦争で中断されたものの、瀬川は困難な状況下で15の海村を単独で調べ上げ、1939年時点で海村調査メンバー中ただ一人調査を続行していた。京都府伊根町や舞鶴市の沿岸集落にも瀬川の聞き取り調査メモや写真が残されており、これらの地域と瀬川との関係は深いものがある。調査先の住民とは家に泊めてもらったり食事をともにしたりと濃密な交流を結び、そうしたフィールドとの絆が調査資料にも表れているのである。
瀬川が残した膨大な一次資料(フィールドノート、写真、図版類)は、彼女の調査方法と成果を今に伝える貴重な記録である。瀬川自身が大切に保管していた『採集手帖(沿海地方用)』19冊と『郷土生活採集手帖』3冊には、昭和9年~24年(1934~1949年)にかけての各地の調査記録が詳細に綴られている。これら計22冊の手帳類は全ページがカラー画像化され、現在ではDVD資料として閲覧できる形で公開されている。手帳には調査項目ごとの質問と回答、スケッチ、地図、統計、聞き書きした談話などが書き込まれており、瀬川の調査の生のプロセスがそのまま封じ込められている。当時の郷土生活研究所が用意した共通の質問票を用いつつも、瀬川は余白にびっしりとメモを書き足し、現地で直に見聞きしたことを克明に残した。例えば「竈の構造」「台所の間取り」「井戸の形状と利用法」「浜での漁労作業分担」といった事項について、写真撮影や図面作成も行いながら記録している。瀬川の旧蔵資料を調査した目録によれば、彼女の遺した民俗資料には当時の採訪メモ(フィールドノート)や写真、スケッチブック、調査項目チェックリストなどが含まれており、それら一連の資料群が「瀬川旧蔵資料」として整理・公開されている。特に写真資料については、瀬川研究会の編集により民俗写真集としてまとめられており、瀬川が撮影・収集した各地の生活の写真(衣服を纏った女性の作業風景や、民家の内部、祭礼の様子など)はビジュアルな民族誌としての価値も持っている。瀬川は調査地で見た事物をできるだけ記録に留めようと努めており、そのためノートの余白には自筆の素朴なスケッチや間取り図も描かれている。当時の調査仲間であった倉田一郎の日記によれば、昭和9年の夏の調査では瀬川も他の調査員と共にカメラを携行し、必要に応じて撮影を行っていたことが窺える(調査用メモ帳の中に写真が貼り込まれているケースもある)。こうした文書・図像・写真が一体となったフィールド記録は、後世の研究者にとって極めて貴重な歴史資料となっている。
瀬川のフィールド資料の意義は、単に彼女自身の研究を支えただけでなく、現代の民俗研究にも新たな地平を開いている点にある。たとえば瀬川が1930年代に調査した村を、60年近く経った後に後継の研究者たちが再訪し、瀬川の『採集手帖』を基礎資料として当時と現代の暮らしを比較検証するといった研究も行われている。瀬川の詳細な記録があるおかげで、民俗事象の変遷を長期的視野で追うことが可能になっているのである。また、地域の郷土資料館や先人顕彰館では、瀬川が撮影・記録した写真やノートが展示され、地元の人々が自分たちの祖父母の世代の生活を知る手がかりにもなっている。京都北部の伊根町でも、瀬川が記録した昭和初期の舟屋集落の暮らしぶり(例:女性たちが井戸端で洗濯しながら情報交換する様子など)は、現存する証言として郷土史研究に寄与している。フィールドと資料が直結している瀬川の仕事は、「資料が語る現場の息遣い」を今に伝えるものと言える。
総じて、瀬川の民俗学における方法的・記述的実践は、女性の生活世界に根差したユニークなものであり、その成果は多面的な資料として結実した。女性の視点で細部をすくい上げる調査方法、豊かな語彙と構成による記述スタイル、そして膨大なフィールド記録の蓄積。これらが相まって、瀬川は日本民俗学に新風を吹き込み、後の世代に貴重な財産を残した。その調査ノートや写真一葉一葉からは、竈の前で料理をする女たちの声や、井戸端で笑いさざめく主婦たちの姿、荒波に挑む海女たちの息遣いが聞こえてくるようだ。それこそが、瀬川という女性民俗学者が現場にもたらした「生活の事実」の力であり、彼女の研究が今なお読み継がれる所以と言えるだろう。(参考文献・出典: 瀬川『海村生活の研究』、同『海女』、同『婚姻覚書』、女性民俗学研究会編『瀬川――女性民俗学者の軌跡』、秋田県立博物館「瀬川アーカイブズ」等。)
第3章 瀬川を民俗学の系譜に位置づけ直す
第1節 ジェンダー研究の先駆として
瀬川清子は、日本民俗学における女性研究の草分け的存在であり、その業績は「ジェンダー研究の先駆」と評価される。柳田國男に師事し、民俗学の中でも女性の風俗や生活史研究の第一人者となった。当時の主流は男性中心の視点であったが、瀬川は女性の暮らしに焦点を当て、女性民俗学の新しい地平を切り開いた。1933年(昭和8年)、教職休暇中に能登半島沖の舳倉島で海女たちと寝食を共にし、「舳倉の海女」を執筆した。このフィールドワークは柳田の注目を集め、彼女は柳田の木曜会に招かれ、郷土生活研究所初の女性所員となる。その後、北海道から沖縄まで全国150以上の村を巡り、女性の視点で生活文化を記録した。
瀬川の関心は衣食住や婚姻・家族制度に及び、農漁村の労働における女性の役割を明らかにした。彼女の調査からは、女性が生産労働や嫁入り、若者組で主体的な役割を担っていたこと、また衣食住に関わる生活技術の知恵と変遷が浮かび上がる。瀬川自身も「良妻賢母」という理想像とは異なる「生活の事実」に根ざした多様な女性像を描き出したいと語っている。これは今日のジェンダー研究が重視する再生産労働やケア労働、身体知をすでに先取りする視点であった。著書『女の民俗誌―そのけがれと神秘』(1980年)では、「明治維新になって女性が出産・月事の忌屋の生活から解放された」と記し、女性の身体と民俗慣習の関係を論じた。出産習俗や月経禁忌を民俗学の正面課題とした点で画期的である。また、戦後まもない1946年には「主婦権と私金」を発表し、農村社会における妻の地位や家計の「へそくり」に注目した。これは家族内における女性の経済的権限を分析した先駆的研究であり、現代の経済人類学的ジェンダー研究にも通じる。
以上のように、瀬川の研究は女性の生活世界を精緻に記録・分析し、民俗学にジェンダーの視座を導入した先駆的意義を持つ。当時は「フェミニズム」という言葉を用いなかったが、その成果は後のフェミニズム研究とも共鳴する問題意識を孕んでいたといえよう。
第2節 民俗学史の再編と新たな地平
瀬川の業績を適切に評価することは、日本民俗学史の再編成に直結する。従来の語りは柳田國男を頂点に、折口信夫や宮本常一ら男性研究者を中心に展開されてきたが、その陰で女性研究者の活動は軽視されがちだった。柳田自身は創始期から「女性の視点でしか対象化できない民俗がある」と述べており、瀬川はまさにその理念を体現した存在である。柳田民俗学の正統な継承者でありながら、「女性の生活世界」を核心に据えることで新たな展望を切り開いた点に、彼女の学説史的意義がある。
柳田門下で唯一の女性所員だった瀬川は、1930年代後半から女性主体の研究ネットワーク形成に関わった。1936年には日本民俗学講習会で「女性と労働」を講じ、翌年には「海女の話」を発表。これを契機に國學院大學で「婦人座談会」が開催され、女性33名・男性14名が参加、柳田も同席して女性労働の重要性を語った。その後、能田多代子の司会で座談会が定例化し、やがて女性民俗学研究会(「女の会」)へと発展した。瀬川の周囲には、彼女に触発された女性研究者のネットワークが育っていったのである。
戦後も瀬川は民間伝承の会(現・日本民俗学会)や女性民俗学研究会で活動を続け、大妻女子大学では多くの女子学生を指導した。1960年に教授に就任して以降、研究と教育の双方で女性の視点を民俗学に根付かせる基盤を築いた。これらの事績から、柳田中心の語りを編み替える際に瀬川を中核に据えることは不可欠といえよう。彼女は「柳田民俗学の延長線上」にありながら、「女性の生活世界」に焦点を当てることで民俗学の射程を広げた。出産・育児の習俗、衣食住の工夫、女性同士の互助組織など、従来は周縁に置かれていた領域を研究の核心へと組み込んだのである。
さらに瀬川の研究は、日本におけるフェミニズム的民俗学の源流とも評価できる。厳密な意味での「フェミニズム民俗学」が確立するのは後年だが、瀬川のアプローチはフェミニズム人類学やジェンダー民俗学に通じる。彼女が照らし出した「多様な女性の姿」は、男性中心史観を修正し、民俗社会をより包括的に理解する手掛かりとなる。瀬川を民俗学の系譜に適切に位置づけ直すことは、過去の評価を是正するにとどまらず、民俗学に新たな視座を開き、未来への展望を拓く意義深い試みである。
第3節 おわりに―今日への射程
以上見てきたように、瀬川清子の研究は日本民俗学に画期的な意味を持ち、その再評価は現代に大きな示唆を与える。柳田國男の薫陶を受けつつも、彼女は女性の生活世界に根ざした民俗研究を独自に切り拓いた。それは柳田民俗学の正統な継承であると同時に、男性中心の従来研究を補完・批判する役割を果たし、家庭や村落における女性の営みを研究の中核へと押し上げた。
晩年には、同時代の女性民俗学者たちの歩みを回顧し、「民俗学の世界にも女性の立場を重視する学者が存在した」という事実を後世に伝えようとした。瀬川という先達の存在は、今日の研究者にとって貴重な財産であり続けている。
今後の課題の第一は、瀬川が残した膨大な一次資料の整理である。調査ノートや書簡、写真資料は長らく保管され、2016年には『瀬川旧蔵資料目録 附・民俗写真集』が刊行された。だが目録化は出発点にすぎず、調査過程や思考の変遷を明らかにするための精査が不可欠である。
また、主要著作の版比較も課題として重要である。『食生活の歴史』や『婚姻覚書』などは初版と再刊で内容に差異があり、改訂や注解の追加を通じて彼女の議論や時代的文脈を読み解ける。こうした比較は、瀬川の学問的深化や当時の受容を明らかにし、民俗学史全体の理解にも資するだろう。
さらに、瀬川が収集した民具や生活用品の再評価も欠かせない。写真や収蔵品には、文字資料だけでは伝わらない女性の姿や生活の具体が残されており、それを現代の展示・研究に活かすことは意義深い。
最後に、瀬川研究をフェミニズム的視点から再読する展望がある。彼女自身はフェミニズムを標榜しなかったが、女性の労働や身体に注目した点は明らかにフェミニズム的である。現代の研究者がその成果を理論的言葉に接続すれば、民俗学とジェンダー研究の新たな対話が生まれる可能性があるだろう。
結論として強調すべきは、瀬川を民俗学の系譜に再定位することの意義である。それは過去の是正にとどまらず、未来への射程を開く作業でもある。彼女のまなざしを丁寧に掘り起こすことは、民俗学をより開かれた学問へと再編成する一助となり、ジェンダー平等の視点を備えた文化研究の発展にも寄与するはずである。
瀬川清子 年表
1890年代–1920年代(調査開始まで)
1895年 秋田県鹿角郡毛馬内町(現・鹿角市)に生まれる。
1924年 東洋大学専門部倫理東洋文学科卒業。東京市立第一中学校(現・東京都立日比谷高校)で教員を務める。
1930年代前半 柳田國男に師事。山村・海村調査に参加し、本格的に民俗学研究を開始。
1930年代–1940年代(調査活動の本格化)
1934–1949年 全国調査のフィールドノート『採集手帖』を作成。京都府北部(伊根・舞鶴・浜詰など)を含む海村調査を継続。
1937年 「日本民俗学講座婦人座談会(女の会)」を開始。女性の生活世界に光を当てた記録活動を展開。
1943年 『海女記』(三國書房)、『販女』(三國書房)を刊行。女性労働と信仰の民族誌として注目される。
1949年 『海村生活の研究』(日本民俗学会/後に三一書房)に「海村婦人の労働」「蜑人の生活」などを執筆。
1950年代(婚姻・通過儀礼研究)
1953年 『海女記』(古今書院)を改訂・再刊。
1955年 『海村生活の研究』(三一書房版)普及。
1957年 『婚姻覚書』(講談社)刊行。婚姻儀礼・贈答・嫁入道具などを横断的に記述。
1960年代(生活誌・比較研究)
1962年 『女のはたらき—衣生活の歴史』(未来社)刊行。
1964年 『日本人の衣食住』(河出書房新社)刊行。
1968年 『食生活の歴史』(講談社)刊行。
1969年 『沖縄の婚姻』(岩崎美術社)刊行。
1970年代(研究の集大成)
1970年 『海女』(未来社)刊行。戦時期の調査成果を再構成した総覧。
1971年 『販女—女性と商業』(未来社)。1943年版の再構成。
1972年 『アイヌの婚姻』(未来社)刊行。
1970年代通年 大妻女子大学教授、東京女子大学講師を歴任。
1980年代(評価と晩年)
1980年 エイボン女性年度賞(教育賞)を受賞。
1980年 『女の民俗誌—そのけがれと神秘』(東京書籍〈東書選書〉)刊行。
1981年 同書で柳田國男賞を受賞。
1984年 逝去(享年89)。
2000年代以降(再評価の動き)
2006年 国立歴史民俗博物館で生誕100年記念特別展「瀬川—その眼差しの先に」開催。図録刊行。
2008年 『採集手帖』DVD化(悠々書肆)。昭和9~24年の採訪メモを公開。
2021年 『海女』(未来社)が新装重版される。
瀬川本人の主要著作(一次資料)
瀬川. (1943). 『海女記』 三国書房.
瀬川. (1955). 「海村婦人の労働」「蜑人の生活」『海村生活の研究』所収. 三一書房.
瀬川. (1962). 『女のはたらき―衣生活の歴史』 未来社.
瀬川. (1964). 『日本人の衣食住』 河出書房新社.
瀬川. (1968). 『食生活の歴史』 講談社.
瀬川. (1969). 『沖縄の婚姻』 岩崎美術社.
瀬川. (1970). 『海女』 未来社.
瀬川. (1971). 『婚姻覚書』 (新版)未来社 → 講談社学術文庫, 2006.
瀬川. (1972). 『アイヌの婚姻』 未来社.
瀬川. (1979). 『女の民俗誌―そのけがれと神秘』 東京書籍(東書選書). ※1981年柳田國男賞受賞.
瀬川. (1981). 『日本の婚礼』 国書刊行会.
瀬川. (1980–1982). 『瀬川著作集』(全8巻・別巻1) 未来社.
瀬川研究に関する主要な二次資料(評伝・研究書・論文)
倉田一郎. (2001). 『瀬川―民俗の海へ』 新評論.
国立歴史民俗博物館 編. (2006). 『瀬川―その眼差しの先に』 国立歴史民俗博物館.
岩本通弥. (2012). 『柳田國男と「今」を生きる』 山川出版社.
小熊英二. (2002). 『〈民主〉と〈愛国〉』 新曜社. (民俗学と戦後思想の関係を論じる文脈で参照)
倉石あつ子. (1997). 「瀬川―フィールドワーカーの軌跡」『旅の発見』19号.
岩崎真. (2008). 「瀬川の民俗学―女性の生活文化研究の視点から」『女性学研究』15号.
上野誠. (2006). 「瀬川ノート―『常民』の細部に宿るもの」『國文學 解釈と教材の研究』51(10).
米屋陽一. (2011). 「瀬川と『衣生活史』研究―民俗学と博物館のあいだ」『国立歴史民俗博物館研究報告』164.
神奈川大学日本常民文化研究所 編. (1997). 『民具マンスリー』30巻8号 特集「瀬川―その人と学問」.
学説史・理論的背景(比較・位置づけのために触れたもの)
柳田國男. (1935). 『明治大正史 世相篇』 朝日新聞社.
柳田國男. (1942). 『海上の道』 創元社.
赤松啓介. (1965). 『夜這いの民俗学』 三一書房.
瀬川の同時代人としての石田英一郎、折口信夫の仕事(比較・参照)
