秦佐八郎がヨーロッパに登場しなければ「化学療法」の確立はもっと遅れた
熊本出身の北里柴三郎の弟子に、秦佐八郎がいます。
岡山医学校の出身で、北里の下で研究し、ドイツに留学しました。
当時、ヨーロッパでは梅毒が蔓延していました。
1906年、コッホの弟子のエーリッヒは、この梅毒に眼を向け、砒素の化合物で梅毒を駆逐できないか、研究に着手しました。
次々に砒素化合物を開発して、試してみますが、成功しませんでした。
418番目に開発した砒素化合物は、副作用が強くて使い物になりません。
606番目に開発した化合物は、1年間放置しておりました。
1909年、日本からエーリッヒの下に、日本から秦佐八郎がやってきました。
この東洋人は、うさぎに梅毒を感染させる方法を開発していました。
その技術を用いて感染させたウサギに、606番目の砒素化合物を投与してみたところ、効果があることが判明しました。
エーリッヒは、救済(salvation)と砒素(arsenic)を組み合わせて salvarsan(サルバルサン)と命名しました。
サルバルサンは、抗生物質ペニシリンが登場するまでは、梅毒に対する唯一の治療法となりました。
こうした化学物質による治療法は、「化学療法」と呼ばれ、治療に使われる化学物質は「魔法の弾丸」と呼ばれました。
日本人の秦佐八郎がヨーロッパに登場しなければ、サルバルサンは開発されず、化学療法の確立はもっと遅れたことでしょう。

魔法の弾丸の化学物質で細菌をやっつける化学療法の開発は、ドイツを中心に行われました。
ドイツは染料の化学会社が多く、医薬品開発に参入してきたのです。
ところがなかなか成功せずに、撤退していきます。
バイエル社だけが残り、そこで勤務していたドーマクという医師が、赤い色素であるプロントジルが、連鎖球菌に効くことを突き止めました。
ドーマクの娘が階段から落下して怪我をし、傷口から連鎖球菌に感染して意識を失う重体に陥りました。
ドーマクは、まだ実用化されていない研究中のプロントジルを、娘に投与してみました。
奇跡が起きて、娘は無事に死の淵から生還します。
その後、1936年頃から、臨床で使用されるようになりました。
類似のサルファ剤が効くかどうか、フランスやイギリス、アメリカなど世界の化学会社による研究開発が進められました。
こうした開発されたサルファ剤は、アメリカだけで3600種類の誘導体が合成され、そのうち30の化合物が売られました。
さながら雨後の筍状態のようなサルファ製品の中で、アメリカのマッセンギル社は、差別化を図って、プロントジルを甘いジエチレングリコールで解かしたものを売り出しました。
しかしこの新製剤で死亡事故が起きて、発売後3か月で105人の死者が出ました。
それまでは野放しだった医薬品の規制が必要だという声が高まり、新しい医薬品規制法が制定されFDAの許認可が必要となりました。
サルファ剤が登場しなかったら、マッセンギル社による死亡事故がなかったら、医薬品の規制はなかったでしょう。
ドーマクは1939年にノーベル医学生理学賞に選ばれましたが、ナチスドイツから受賞を辞退するように強要され、受賞したのは戦後の1947年のことでした。
化学合成されたサルファ剤は、がびのジュースから抽出されたペニシリンに押されて、使われなくなっていきます。

雨後の筍サルファ剤が登場したことにより、医薬品の許認可が必要となり、新薬の審査制度が確立していきます。
薬学の発展においてサルファ剤は、重要な転換点となりました。
甘いジエチレングリコールを使うことは、その後も続いていますね。
ワインに添加して中毒を起こした事件が起こっています。
ワイン業者は、アメリカで医薬品規制ができたという歴史を勉強していなかったのでしょうか。
他業種は、「他山の石」を学ばないような、気がします。
他山の石は、全人類共通の資産です。
学ぶべきものは、他山の石です。
いつか、「他山の石大全」というビジネス書を書こうかしら。
