世界のトップクラスにあったドイツのライプツッヒ大学の教授会の選考テストを通過し、その推薦を得て日本に来た3人の医師がいる
1872年、世界でもトップクラスにあったプロシア(ドイツ)のライプツッヒ大学の教授会の選考テストを通過し、その推薦を得て日本に来た第一号の医師は、ヨンケル・フォン・ランゲックです。
第2号の医師は、エルヴィン・フォン・ベルツです。
ベルツは、1976年に来日し、27年間にわたり東京医学校(現在の東京大学医学部)で、病理学、生理学、薬物学、内科学、産婦人科学、精神医学等を教授しました。
退官後は宮内省侍医をしています。
滞日は29年間に及び、明治期の日本における医学発展に大いに貢献しました。
「ベルツの日記」でも有名なベルツは我が国でもよく知られていますが、第一号のヨンケルはほとんど知られていません。
私は、厚労省の審議官のときに、ベルツの名前を冠した「ベルツ賞」の授賞式に出席したことがあります。
授賞式の会場となったのは、ドイツ大使公邸で、ドイツの製薬会社「べーリンガーインゲルハイム社」が主催していました。
当時の日本医師会の横倉会長も出席されており、横倉会長はドイツに留学されていたので、ドイツ語で歓談をされていました。
私は宮崎弁しか話せないんので、ひとりでドイツ料理を食べていたら、横倉会長から声をかけられて安心しました。
同じ九州人の横倉会長の心配りのおかげで助かりました。
ドイツ大使公邸の日本庭園は、江戸時代にタイムスリップしたような感じがしました。
ここに国際スパイのゾルゲも出入りしていたのかと思うと、歴史を感じました。

話がそれましたが、ベルツは、ツツガムシ症や狐憑き、温泉治療も研究しています。草津温泉にはベルツの銅像が建てられています。
現在の「総合診療医」で、第一回の日本医学会の基調講演では、家庭医を目指せといいましたが、日本では臓器別の専門医の道を進んでいきました。
かようにベルツは有名ですが、ヨンケルは全く知られておりません。
しかし、ライプツィヒ大学の教授会の選考に合格した、凄い医師だったのです。
そのことを報じた記事を、藤田先生は紹介しております。
日本政府は賢明かつ先見性をもって、日本国民のために、科学的にも完璧な新しい病院と医学校を併設したいと考えてきた。
その予定地としては、ミカドの居住地である京都が選ばれた。
新しい施設が建てられるまでは、とりあえずは既存の寺院ないし公共の建物が使用される。
新築のお手本とされるのはライプツィヒ大学病院である。
日本政府はドイツにおける代理人に、このプロジェクトのドイツ人リーダー、つまり設立予定者を選ぶための詳しい条件を事細かに提示していた。
彼は、医学の理論と実際に詳しくなければならない。
紙の上だけの学者であってはならない。
医学の実地の経験が豊富である必要がある。
英語が堪能で、それで講義ができなければならない、というのは英語の通訳が他の言語に比して得やすいからである。
彼は、いつかは日本語で教育できるように、日本語を学ばなければならない。
彼は、化学や物理学に堪能である必要がある、尋ねられれば、その場で詳しく答える必要があるのだ。
彼はまた、一般教養教育をマスターしていた、行儀がよく、子ども好きで、また子どもがなつくような優しい人でなければならない。
衒学者はよくない。
彼は病院と医学校の設立を監督しなければならない。
また、長崎でオランダ人の元で勉強していた人たちのグループを引き続き教育したり、新規に勉強を始める人たちに科学一般や、特に医学について教育しなければならない。
また、病人を治療することや、日本の将来の医学の基礎を築くことも求められる。
ただし、これに関して日本政府は十分な報酬を支払う心積もりをしているということも付け加えておこう。
この選考は、ライプツィヒ大学の教授会に委ねられた。
そうして、選ばれたのが、「気管内挿管麻酔」の論文でご存知のヨンケル博士だったのである。
彼はヴィーンの医学士で英国外科医師会会員であり、サマリタン病院に所属していたが、先般の戦争に際して辞職し、バゼイユやザールブリュッケンのドイツ軍病院に軍医大尉として勤務していた。

こうして来日したヨンケルは、京都の粟田口に設けられた仮療病院の外国人医師として、また医学教師として着任します。
ヨンケルは、新しい病院の設計も任されました。
その後完成した京都療病院医学校の建物は、1878年に完成したライプツィヒ大学の臨床棟の設計をモデルにしています
新しい療病院の建築物ができあがったのは、明治13年のことでした。設計が始まって足かけ9年もかかりました。
竣工式に立ち会ったのは設計を任されたヨンケルではなく、三人目のお雇い外国人としてライプツフィッヒ大学から後任として招かれていたショイベでした。
ベルツが所属していたヴィンダーリヒ教授の内科学教室の出身で、ベルツの4年後輩でした。
ヴィンダーリヒ教授は、ライフツフィッヒ大学病院の教授兼医長で、患者の診断と経験的観察の方法論を取り入れた人です。
「体温表」を導入し、発熱は病気ではなく症状であると考えました。
人体の正常体温「37度」を確立したことで有名な人です。
まさに世界の一流の大学病院の推薦で、日本に3人続けてお雇い医師が派遣されたことになります。

大学病院の教授回診では、体温版が重要でした。
なるほど、日本はドイツ医学を学びましたが、その名残だったのかと思いました。緑色だったような気が。
