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初代延岡市長の仲田又次郎は薬剤師で、8つの橋を架設し、また衛生事業にも大きく貢献したことから「橋かけ市長」「衛生市長」というあだ名がつけられた

延岡市薬剤師会で講演をしたことがあります。

延岡保健所に勤務していたときに、延岡市の薬剤師会の会長の山下先生と話をする機会がありました。

関東信越厚生局にも勤務していたので、「会員の薬剤師に社会保障行政について教えて欲しい」と言われました。

実現したのは、延岡保健所から高鍋保健所に異動した後のことでした。

延岡市薬剤師会館で開催され、オンラインによる講演でした。

そのときに、絵が飾られている人物が眼に入りました。

この方は誰でしょうか?と聞いたところ、初代の延岡市長の仲田又次郎市長だとのこと。

なぜ、初代市長の絵がここにあるのかと聞いたら、仲田市長は薬剤師でした。

山下会長から、延岡城のあった城山に仲田市長の碑があって、毎年の命日に薬剤師会でお参りしているという話を聞きました。

いつか行ってみたいと思っておりましたが、昨年11月に延岡市で中高生を対象に医療人を目指すシンポジウムがあり、それに参加した際に、市役所近くの城山に行きました。

そのときに、仲田又次郎延岡市長の碑を見ました。

市内に8つの橋を架設し、また衛生事業にも大きく貢献したことから「橋かけ市長」、「衛生市長」というあだ名がつけられたとありました。

延岡市薬剤師会が、初代市長の碑にお参りしているという話と似た話があります。

神奈川県薬剤師会は、横浜の外人墓地にまつられたゲールツ夫妻の墓の永代管理をしています。

ゲールツは、オランダ軍の薬剤官をしており、日本の長崎の医学校に赴任しました。

日本に輸入される医薬品に偽薬が多いことから、検査をする司薬場を建設するよう建議します。

また、日本薬局方の編纂や、日本の温泉の調査などを行いました。

長崎出身の山口きわと結婚し、6人の子どもを生みました。

ゲールツは、司薬所の所長を務めたほか、日本薬局方の編纂を進めました。

ところが完成を見ずに40歳で亡くなり、日本政府は、ゲールツの功績を称えて勲四等に叙し、旭日小綬章を贈っています。

残された夫人は、内務省衛生局長の長与専斎が庇護して、6人の娘は華族学校(現在の学習院女子部)に学び、それぞれの道を歩みました。

夫人は、東京麻布でドレスメーカーを営む長女のもとで余生を送り、昭和9年11月に81歳でゲールツのいるところに旅立ちました。

墓の横には、ゲールツが横浜司薬場監督となってから百年目にあたる昭和51年の命日に、神奈川県薬剤師会がゲールツ夫妻に捧げた日本語とオランダ語の墓碑銘があります。

夫人の名前は、「ヘールツ山口きわ」と刻まれています。

ゲールツはドイツ語読み、ヘールツはオランダ語読みなのだそうです。

この墓地の管理は、神奈川県薬剤師会の永続事業となっています。

仲田市長にしろ、ゲールツにしろ、よほど慕われていなければ、このようなことはしないと思います。

お二人は真の公衆衛生人だったのだと思います。

横浜の外人墓地には、日本に最初の鉄道を敷設した英国人技師エドモント・モレルの墓もあります。モレルもまた完成を見ずに亡くなりました。多くの人から慕われたモレルの墓の横には国鉄総裁が建てた碑があります。

外人墓地は、普段は中に入れませんが、公開日がありますので、是非そのときに行ってみると世界が広がります。

延岡の城山の仲田市長の碑は、いつでも見ることができます。

その書は、自民党副総裁で衆議院議長を務めた大野伴睦です。

大野伴睦は、品川駅に創業記念碑を建てています。

日本の鉄道は、新橋~横浜(現在の桜木町)間で明治5年10月に正式開業したことで有名ですが、それに先立つ明治5年5月7日(旧暦)に「品川~横浜間」で仮開業しました。

そのため、品川駅は「日本で最初の鉄道駅のひとつ」であり、その歴史を後世に伝えるためにこの記念碑が建てられました。

裏面には仮開業当時の時刻表や運賃表が刻まれています。

東京に住んでいたときに、この碑を見つけてびっくりしました。鉄道の本にはほとんど取り上げられていません。

衛生市長の記述

大野伴睦の目は節穴ではないと、「凄み」を感じました。

大野伴睦と仲田市長とどのような関係があったのかは分かりませんが、歴史を感じました。

若い頃に大野伴睦が政治の世界にデビューを果たせたのは、北里柴三郎が応援したからです。

日本医師会の初代会長は、北里柴三郎です。

大野伴睦は、生涯にわたって日本医師会を応援します。

「義理と人情と梯子」は大野伴睦の政治信条を表す言葉。

義理人情を重んじ、一度約束したことは愚直に守る「侠客風」の政治スタイルで、多くの若手議員や支持者から慕われました。


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