国鉄総裁十河信二は、日本初の鉄道を敷いた技師長のエドモンド・モレルの墓を鉄道記念物に指定している
東京に住んでいたときに、横浜の外人墓地で、エドモンド・モレルのお墓を見に行ったことがあります。
明治5年に、新橋横浜間に鉄道が走るようになりましたが、その技師長としてイギリスからやってきました。
モレルは、開通を待たずに、わずか30歳で結核で亡くなってしまいます。また、妻のハリエットも後を追うように亡くなりました。
二人のお墓があります。
その場所には、「鉄道記念物」に指定したという当時の国鉄総裁・十河信二の名前がありました。
そのときに、「十河信二」の名前が記憶に残りました。
このような墓を鉄道記念物に指定するという人物に興味を持ったのです。
その後、「有法子 十河信二自伝」(ウェッジ文庫)を本屋で見つけて買いました。
ながらく見ていませんでしたが、宮崎に帰ってから読んでみました。
経歴が紹介されていました。
1884年(明治17)愛媛県生まれ。
1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。
1912年、鉄道院に入省。26年退職後、満州鉄道理事、興中公司社長を歴任。
戦後、1945年(昭和20)に愛媛県西条市長に就任、翌年、辞任。
鉄道弘済会会長をへて、1955年(昭和30)71歳で第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁に就任した。63年退任。
在任中、東海道新幹線の実現に尽力し、「新幹線の父」と呼ばれる。
1981年(昭和56)没。
読んでみて、びっくりしました。
十河信二は、なんと、後藤新平にリクルートされて、鉄道院に入省したのです。

大学を卒業する際に、十河は、世の中で働くのになにが最も愉快で生き甲斐があるかといえば、国民大衆に奉仕することであると考え、それには国民大衆の生活に直接利害関係の深い官庁の役人になることが必要だと思い、農商務省に入省することが決まっておりました。
ところが、その後、鉄道員総裁の後藤新平に会う機会があり、「なぜ農商務省にゆくことにしたのか」と問われました。
大衆に奉仕したいからと答えたところ、後藤新平はこう言ったのです。
「そういう気持ちであるならば、農商務省よりも鉄道院の仕事の方が、もっと国民生活と直接に、密接に結びついているではないか、いっそのこと鉄道院へ来たらどうか」
後藤新平の言葉に納得して、鉄道院に入省することにしたのです。
ところが、成績のことを聞かれて、30番前後だと答えます。
後藤新平からは「5番以内になってみせろ」と言われて、無理だと思ったのですが、その後一生懸命に勉強をして、5番になり、国鉄一家の人になることができました。

十河は国鉄に20年間勤務しますが、終始会計の職場でした。
後藤新平から、「みんなのいやがる仕事をしないか」と言われて感激して、ずっと国鉄会計のことばかりしていました。
後藤新平の影響力は半端ないです。
多くの人々の協力にまつところの大きい鉄道に従事するものは、まず愛というものに徹しなければならない。
日々従事している仕事を愛し、寝ても覚めても、鉄道を愛するという念を離れてはならない。
ただただ鉄道のためにつくすという心がけを持ち、その愛を乗客、貨物、器具、機械におよぼすのである。
要するに鉄道のために鉄道を愛し、万事に精神をこめて渾身的に鉄道に従事してもらいたい。
これは、後藤新平の訓示ですが、まるで後年に誕生する鉄道オタクの「テツ」のための言葉のような気がします。違うか。
十河は、後藤新平総裁から、直接、任務を与えられました。
これからは人間関係の問題が大切だ。
労働問題が将来大きな問題になるから、今からその用意をしなければならない。
それは職員給与と厚生福利の問題だ。それを研究せよ。
後藤新平は、「鉄道広軌」を推進しようとします。
エドモンド・モレルが日本に鉄道をつくるときに、広軌と狭軌のどちらを採用するか、大隈重信と伊藤博文に尋ねました。
線路の幅のことでしたが、二人はなんのことかわからず、建設費が安く済む植民地使用の狭軌を採用したのです。
そのため日本の鉄道では狭軌が採用されていました。
後藤新平は、グローバルスタンダードの広軌を採用しようとしたのです。ところが、政党の反対によりおじゃんとなりました。
後に、十河が国鉄総裁となり、新幹線の建設を進めることになりましたが、それは、後藤の「鉄道広軌」のリベンジでもあったのです。

十河は、後藤新平の功績を、いくつか挙げています。
和の精神、愛の精神をもって鉄道職員の気風を一変せしめ、和気にあるれたものたらしめたことは特筆すべきであると言っています。
特に職員の福利問題には殊の外熱心でした。
鉄道病院の創設もその一つの現われでした。
後藤総裁は元来医者でしたが、鉄道の仕事は、その性質上怪我をしたり、病気にかかる機会が多く、また旅客公衆にも大きな迷惑や損害を与えることもあるから、健康管理に十分注意すると同時に、職員の保健衛生についても、旅客の不時の病気、怪我などに対しても、でき得るかぎりの用意をすべきであるという趣旨から、今の鉄道病院を作られたのであります。
東京帝大の権威ある先生方にお願いして設立された鉄道病院は、当時どこの官庁にも会社にも全くその例を見なかった新しい施設で、今日各企業体の行っている厚生福利施設の生みの親というべきものであります。
今でこそこの鉄道病院も古ぼけて来ましたが、当時は東京でも立派な第一級の病院で、職員はもちろん、その家族の病気をも治療してくれるという後藤総裁の唱えた大家族主義の具体化したものといえるでしょう。
鉄道職員が制服を着るという制度も後藤総裁のはじめられたものです。
それまで雑然としていた職員の服装が、統一されたことによって、規律秩序が整い、気分も変わったことは確かでした。
多勢の人がチームワークをする場合には、一定のワクの中で行動させることが必要であって、全然のほうずに各人の自由意思による行動などを許しては仕事にならぬばかりか、どんでもない結果を招来する恐れがあります。
鉄道の仕事がばらばらになったら、どのような事故が起こるかもしれません。一人のちょっとした不注意が大きな災害の原因になったという例は、昔から今にいたるまで数限りなく起こっております。
秩序を乱し、共同動作を破壊するようなことは許されるべきでないばかりか、民主主義の根本は、各個人が責任を重んじ、企業全体のために図り、国民一般の福利を増進するような秩序と規律とを正しくするということにあるでしょう。
識見の高い後藤総裁はこうした点についても、深い注意を払われていたものと思われるのであります。
十河の「後藤愛」は半端ないです。
後藤は、全身が労働安全衛生の塊のような気がします。

「有法子」には、新幹線建設のことは触れられていないので、Geminiに聞いてみました
有法子(ユーファオツー)は、「方法はある」という意味で、十河はこの言葉を座右の銘として、周囲の猛反対や技術的困難に対しても「必ず道はある」と突き進みました。
かつて国鉄を去っていた天才技術者・島秀雄を「技師長」として呼び戻し、技術面での全権を委任しました。
新幹線建設には膨大な予算が必要でしたが、国会での承認を得るために、あえて実質の半分程度の予算案(約1948億円)を提示し、着工へとこぎつけました。
途中で予算が足りなくなることを見越し、世界銀行から約288億円の融資を受けました。
これにより、政府が簡単にプロジェクトを中止できない「国際公約」という形を作り上げました。
案の定、建設予算は当初の予想を大幅に上回り、その責任を取る形で1963年に総裁を退任しました。
1964年10月1日の東海道新幹線開通式。自らが心血を注いだ「夢の超特急」の晴れ舞台に、功労者であるはずの十河(と島秀雄)の姿はありませんでした。
彼は自宅でテレビを通じてその瞬間を見守ったと言われています。
うーむ。かっこいい。サムライだと思いました。
日本最初の鉄道は、英国からモレルという「技師長」を呼び、英国のオリエンタル・バンクからの借款で建設を進めました。
これにより、明治新政府が簡単にプロジェクトを中止できない「国際公約」という形を作り上げました。
陸軍や薩摩藩出身の高官たちは、鉄道建設に反対しました。線路予定地の土地を使わせませんでした。
そこで、大隈重信は海を埋め立てて線路を引きました。
一連の歴史を調べて、十河総裁がモレルの墓を鉄道記念物として指定した理由がよく分かりました。
モレルは島秀雄、オリエンタル・バンクは世界銀行だったのです。
後藤新平の墓は青山墓地にありますが、これを鉄道記念物に指定したらと思いましたが、「後藤新平の功績は鉄道だけではない」と叱られそう。
