日本薬局方の産みの親ゲールツの墓は横浜の外人墓地にあり、神奈川県薬剤師会が管理している
明治の初めに、熊本に医学校がありました。
その医学校に入学してきたのが、
北里柴三郎です。
柴三郎は、医師になる気は全くなく、
オランダ語だけをまなんで、
末は軍人か政治家になるつもりでした。
このゴーマンな学生を、
医学のとりこにしたのが、
オランダから来た医師マンスフェルトです。
柴三郎に、顕微鏡を見せて、
医学の道に引き込みました。
後にドイツで柴三郎の先生となるコッホは、
奥さんから顕微鏡をプレゼントしてもらって、
細菌学の世界の道を歩き始めました。
この師弟コンピは、
顕微鏡で人生が変わりました。
マンスフェルトは、
熊本医学校の前は、
長崎医学校に勤務していました。
長崎医学校の校長である長与専斉と
二人三脚で、医学教育を担当しました。
二人は、薬学教官のゲールツを呼びました。
オランダ陸軍の薬剤官で、
ウトレヒト軍医学校の教官をしていました。
長崎医学校では、
化学や物理、幾何学も教えました。

明治の始めの日本には、
にせ薬が多く出回っており、
全く信用がおけませんでした。
外国から輸入した薬も、
本物かどうかわかりません。
内務省の衛生局長となっていた長与専斉は、
「司薬場」をつくって、
品質検査をして
偽薬を取り締まることにしました。
1874年に東京に司薬場を設置して、
ゲールツを長崎から呼び寄せました。
ゲールツは、
日本でも欧米先進国のように、
薬局方をつくるべきだと進言しました。
ゲールツのオランダ語の草案に基づいて、
「日本薬局方」
の作成が進められていきました。
ところが、ゲールツは病気のために、
日本薬局方の完成を前にして、
急死してしまったのです。

ゲールツの死を惜しんだ長与局長は、
上野谷中の天竜寺に碑をつくりました。
ゲールツの碑は、
1974年、東京司薬場の後継となる厚生省国立衛生試験所設立100周年記念式で、
用賀にある研究所の施設内に移されました。
その後、
川崎市の殿町に移転することが決まりました。
私は、
厚生労働省の厚生科学課長のときに
研究所移転を担当しました。
所長からは、
「研究所の施設内にゲールツの碑がある。
これを置いていくことはできません!」
と泣きつかれました。
移転費用の中に入れました。
2018年に完成した
医薬品食品衛生研究所を
視察したことがあります。
ゲールツが直接書いたオランダ語の草案が、
一階のロビーの壁一面の
巨大パネルになっていました。
全部がオレンジ色になっており、
その理由について説明を受けたところ、
オランダの色だとのこと。
おい、これはやりすぎだろー!
ゲールツの墓は、
日本人の奥さんとともに
横浜の外人墓地にあります。
この墓は、
神奈川県薬剤師会が管理をしています。
ゲールツほど
日本人に愛された外国人薬剤師は、
たぶんいないでしょう。
