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工場法は、わずか25条で内容も簡単な法理だが、法案の検討開始から30年、書き直し百数十回、更迭大臣23人局長15人の末ようやく成立した

明治時代の紡績工場では、長時間労働がはびこっておりました。

電気が導入されてからは、夜間操業を行うようになり、夜通しの作業が女工たちの健康を脅かしました。

女工の多くは、未成年で、12歳未満のこどもも働いていました。

幼いので、夜間操業中に居眠りをしてしまうと、両手に水桶を下げて立させるという懲罰が与えられました。

明治政府も放置しておくわけにはいかず、労働者保護のための工場法の制定を検討します。

一方、紡績企業は、
「本邦の子女は欧米に比べて早熟だから、十歳前後になれば十分使える。それ故、工場法制定に際してもこの事情を斟酌するべきである」
と意味不明の妄説で、
政府の工場法制定を妨害したのです。

一万円札の渋沢栄一も、
工場法制定に反対しています。

この工場法反対について「渋沢押し」の方々は、「この時期には反対したが、後には賛成に回った」と弁護しております。

渋沢をはじめ、反対する経済界を説得したのは、陸軍軍人の長州閥で評判のよくない桂太郎総理大臣です。

明治44年に、難産の末に工場法が成立しました。

農商務省の岡実局長は、「わずか25条で内容も簡単な法理だが、法案の検討開始から30年、書き直すこと百数十回、大臣の更迭23人、局長の更迭15人の末、ようやく成立した」と述べています。

内容は、以下のようなものです。
①12歳未満の就業禁止
②15歳未満の者と女子の12時間以上の就業禁止
③15歳未満の者と女子の深夜業の禁止(法律施行から15年間は深夜業は2交替制は可)

国会で成立した工場法ですが、紡績業界の反対が強く、大蔵省も予算を付けずに、施行がされませんでした。

このような中で、農商務省の医系技官の石原修は、自ら調査した女工の結核感染の状況の報告書を全国会議員に送りつけました。

石原修は九州大学医学部の出身の医師で、東京大学医学部の衛生学教室を経て農商務省に入り、医師の工場監督官として勤務していました。

前代未聞の出来事で、国会でも問題となり、大正5年についに工場法は施行されました。

捨て身の国会ロビー活動を行った石原は、処分はされていません。

その後、大阪大学医学部の衛生学の教授となりました。

医学生に、労働環境の現場見学や実践的調査を教えて、大きな影響を与えたと言われています。

現在の大阪大学医学部には、石原修教授の銅像が展示されています。

石原は、戦後の労働基準法の制定の際には、積極的な発言をして応援しました。

昭和22年の労働基準法が成立した年に亡くなっております。

ちなみに、労働基準法案が閣議決定された日は、昭和22年2月22日です。

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