安井息軒の三計塾に学んだ者の中で、公衆衛生的な人物は雲井龍雄である
宮崎出身の安井息軒は、天保12(1841)年、江戸で私塾「三計塾」を開きました。
「三計」とは、文字のとおり三つの計です。
一日の計は朝にあり。
一年の計は春にあり。
一生の計は少壮の時にあり。
江戸時代から明治維新となっても塾は継続され、安井息軒が没するまでの約40年間に、塾で教育を受けた者は、2千人以上にもなったと言われています。
教育の目的は、人格修養を主とし、社会有用の人材を養成することにありました。

特筆すべきは、酒色の件は殊の外、厳重を極めています。
三計塾に入塾しましたが、追放された者に陸奥宗光がいます。
陸奥は、江戸で二、三の私塾に入りましたが、皆我が師とするに足らずとして、飛び出して息軒の三計塾に入門しました。
陸奥は、弁論縦横、輪講の席などでは断然他を圧倒して、一般の塾生はぐうの音も出ないほどでした。
息軒は、陸奥を呼んで訓戒しました。
過ぎたるはなお及ばざるがごとし。
弁舌に長じたる者は、努めて寡黙なるべし。
汝もこの点に気をつけざれば、長所の為かえって身を誤る事があろう。
陸奥は、塾の規程に背いて水茶屋、矢場廻りなどをして、目に余る行為が頻繁となったので、息軒も惜しい人物とは思いましたが、涙を飲んで退塾を命じています。
三計塾に学んだ著名人は、たくさんおります。
大臣になった人では、以下がおります。
陸奥宗光 外務大臣
品川弥二郎 内務大臣
谷干城 農商務大臣
石本新六 陸軍大臣
興味深いのが、初代司法卿の江藤新平に関係する人が多いということです。
河野敏鎌 農商務卿
島本仲道 司法省
三好退蔵 大審院長
小倉処平 文部省大学権大丞
明石元次郎 台湾総督 陸軍大将
司馬遼太郎さんの「歳月」に詳しいです。
河野は、佐賀の乱の首謀者である、かつての上司の江藤新平の梟首を言い渡した裁判長です。
島本は、江藤司法卿の下で、司法権の独立を目指して辣腕をふるった官僚です。
三好は、宮崎県高鍋出身、司法省の官僚で、佐賀の乱の後の江藤前司法卿の捜索をしています。
小倉は、宮崎県飫肥出身、佐賀の乱の後の江藤前司法卿の逃亡を助け、宮崎から四国に渡る舟を手配しました。
明石は、江藤の書生でした。住む家もなかったところを江藤に拾われました。生涯にわたって江藤の恩を忘れませんでした。

三計塾に学んだ者の中で、公衆衛生的な人がおりますので、ハベレオ通信で紹介させていただきます。
山形県出身の雲井龍雄です。
私が、この人物を知ったのは、NHK大河ドラマ「獅子の時代」でした。
脚本は、山田太一さんです。
雲井龍雄を演じたのは、風間杜夫さんです。
風間杜夫さんは、「これが新政府か」と言って斬首されます。
風間杜夫さんのセリフには、新政府に対する強烈な失望と怨みがこもっていたので、今でも覚えております。
雲井龍雄は、米澤藩士で、幼時から頭脳明晰で、二十二歳のときに、江戸藩邸警備の命を受けて、江戸に出て息軒の三計塾に入門します。
初めて息軒に会ったときには、その態度が傲慢でしたが、入塾したのちは恭敬の至りでした。
息軒も雲井龍雄の才能を愛して、塾生の監督をさせました。
雲井は、攻究して疑わしきものは、書きぬいて、師の説明を求めました。息軒もまた、一々この質問に詳細なる説明を与えました。その数は数百件に及んでおります。
中でも、「色欲」についての質問は面白いです。
歳十八九ノ際、色欲発動シテ自ラ禁ズル能ハズ。
往々勉学ヲ妨害セントス。
之ヲ防遏スル策ナキカ。
息軒の答えです。
色欲ハ是天性ナリ。
之ヲ防遏スルコト甚ダ難シ。
然レドモ其ノ色情発動ノ際、頗リニ、文武ノ業ヲ課シテ、発動ノ逞アラザマシムベシ。
人生十八九ノ際、色情ノ発達ト共二其ノ体力モ発達シテ、知識モ発達ス。
諸能力発達ノ一時期ハ、賢不肖ノ分カルル所ナリ。豈慎マザルベケンヤ。
雲井は、在塾1年有余にして、帰国することになりました。
出発する前に、息軒は、雲井に言いました。
御身此度思う所ありて帰国するというが、余、熟々御身の動静を見るに、なかなか村夫子を以って終わらんとするものではない。
胸中何者か企図する所があろう。ただ匹夫の勇を慎んで堅忍不抜の精神を以て事に当たられよ。
雲井は、米澤藩に戻り、幕末の激動の藩のかじ取りを担います。戊辰戦争後には、その並外れた才能を買われて明治新政府に召し抱えられました。
しかし、薩長中心の藩閥政治や急速な西欧化・旧武士層の切り捨てに強い不満を抱くようになり、やがて辞職します。
新政府を去った雲井は、戊辰戦争で没落した旧幕府・東北諸藩の困窮した士族を救済し、彼らの不満を代弁する運動を始めました。
この動きは「新政府への転覆計画」とみなされ、明治3年(1870)年に逮捕されました。
同年12月28日に、小伝馬町の牢獄で斬首されました。
この事件は、明治政府が反政府的な士族の動きを警戒し、「見せしめ」として早期に摘発した側面が強いとされています。

雲井の遺体(胴体)は、遺族に返還されることなく、大学東校(現在の東京大学医学部)へ送られ、医学発展のための解剖授業の材料とされています。
明治初期は、深刻な解剖用の遺体不足に悩まされていました。自ら献体する人や、親族が解剖を許可するケースは皆無に等しかったのです。
そこで、明治政府は明治3年9月に「死刑者、または獄中病死して引き取り手のない遺骸は解剖を許す」という太政官達を出しました。
司法当局と医学校側の働きかけによって、最初に学校へ回された6つの刑屍体のうちの一つが雲井龍雄の胴体でした。
このときの解剖の様子は、のちに東京大学の解剖学の教授となる田口和美によって、かなり克明に描写されています。
きわめて小柄で、体は華奢、肌は白く、あたかも女体のようであった
「獅子の時代」で、まだ人気が出る前の若き風間杜夫さんが演じたのは、ドストライクの人選だったと思います。
