住友は道路建設のために100万円を宮崎県に寄付した。これを原資に耳川に沿って造られたのが現在の椎葉村に続く国道327号線である
住友は、三井、三菱と並んで日本の三大財閥と言われた会社でした。
この住友を財閥へと発展させたのは、高鍋出身の鈴木馬左也(まさや)です。
経歴はユニークです。
秋月家に生まれて、鈴木家の養子となります。
高鍋の明倫堂に学び、その後、鹿児島にある医学校で学びました。
その後、東京大学政治学科に入学し、卒業後は内務省に入省しました。
明治29年(1896)年に、住友に入社します。
「徳を先にし利を後にする。徳によって利を得る」という住友の方針に惹かれました
大阪本年の副支配人から住友第三代総理事となり、別子鉱業所支配人を兼任し、住友が経営する全事業の監督経営に貢献しました。
鈴木馬左也が宮崎県出身だったことから、住友は宮崎と関係があります。
「宮崎観光の父」と呼ばれ、「大地に絵を描く」をモットーとした岩切章太郎は、東大を卒業して住友に就職しました。
「自分は、宮崎に帰って事業をすると決めており、その前に勉強をするために3年間住友で働かせて欲しい」と、面接試験のときに正直に話しました。
住友の幹部は「自分の勉強のために住友を腰掛けにするとはけしからん」と怒りますが、あっさり採用となりました。
住友での3年間は、本当に勉強になったと後に岩切章太郎さんは言っております。

住友は林業も営んでおりました。もともとは銅山を経営していた会社です。
銅を採掘して精錬すると木や草が枯れてはげ山になるので、それを修復するために、自社で木を植えていたのです。
住友には林業の拠点が3つありました。北海道と九州と朝鮮です。
九州の拠点は、宮崎県の椎葉村でした。
椎葉村には住友の事務所があり、大阪本社から所長以下職員が赴任してきました。
椎葉村の厳島神社の境内には、神社の建て替えのために、寄付をした額を刻んだ碑があります。
住友は、道路建設のために100万円を宮崎県に寄付しました。
これを原資に、耳川に沿って造られたのが、現在の国道327号線です。
昭和8(1933)年に現在の日向市富高から椎葉村那須橋までの道路が開通しました。
「百万円道路」と呼ばれました。
この道路の開通により、人や物の動きが変わって、耳川沿いになりました。
このため昭和24(1949)年に、椎葉村と諸塚村は西臼杵郡から、東臼杵郡に変更されています。
恐るべし、道路の力。人流と物流は、地域を変えます。
つまるところサービスは人と物の流れです。道路は、医療サービスをも変えます。

さて、昭和21年の夏に、大阪にある住友金属製鋼所に、一人のアメリカ軍将校が訪れました。
GHQのサンクス中尉で、戦後の賠償のために接収する工場の調査に来ました。
航空機メーカーの技師だった中尉は、住友の工場の職場環境の悪さに驚きます。
「こんな所で労働者を使うのは、労働者を奴隷扱いするものだ。賠償にとっても仕方がない。工場には安全技師はいないのか? 三か月経っても環境を改善しなければ、本工場は閉鎖する」
中尉の厳命は、絶対的なものでした。GHQには何人も逆らえません。
住友金属製造所の広田寿一所長は、緊急会議を招集し、日本の安全活動の草分けの三村起一を招いて対策を協議しました。
三村の助言をもとに、徹底的な環境改善を行うことにしました。
安全技師も4人が任命され、プロジェクチームも発足させて、具体策の検討に着手した。
暗い工場を明るくしました。
乱雑に積まれていたスクラップを整理します。
数十万の投資でしたが、その結果、薄暗くゴタゴタしていた工場は明るくて見違えるほどきれいになりました。
約束の三か月後に、サンクス中尉が再び、工場に来ました。
サンクス中尉は、きれいになった工場に驚き、「閉鎖」は撤回されました。
環境を整備した結果、昭和21年の死亡災害15件が、翌年はゼロになりました。
環境の整備は安全の向上に結びつきました。広田所長は後に住友金属の社長になります。
広田所長が、サンクス中尉にサンクスと言ったかは不明です。「おおきに」だったかも
