コレラは近世日本の運命を変えた感染症である。コレラにより幕府が崩壊し、治外法権が撤廃され、海上自衛隊が誕生した
コレラは、コレラ菌による感染症です。
天然痘と同様に、人にしか感染しません。
水を通じて感染します。
もともと中国大陸にある風土病でした。
コレラは英国でも広がりますが、英国の麻酔科の医師ジョン・スノウは、コレラ患者を地図にプロットしました。
「地図疫学」と呼ばれる手法です。
これによりロンドンのブロード・ストリートのポンプで水を汲んでいることが患者の共通の行為と判りました。
スノウは、ポンプの使用を禁止して患者の発生を防いだのです。
当時、原因は判りませんでしたが、予防することができたのです。
スノウは「疫学の父」と呼ばれています。
コレラの原因を見つけたのは、ドイツ人医師のコッホです。
流行したエジプトで発見しました。
一方、ドイツの衛生学者のペッテンコーフェルは、コッホが見つけたコレラ菌を認めませんでした。
コレラ菌が入った液体を飲んで、コッホの説の誤りを主張します。
運よく感染することはありませんでしたが、ペッテンコーフェルはピストル自殺を遂げています。
東大衛生学教授の緒方正規、陸軍の森林太郎など日本の衛生学者は、ペッテンコーフェルの弟子でした。
ショックだったと思います。
ちなみに、コッホに学んでいた北里柴三郎は、派遣元の内務省からペッテンコーフェルに学ぶように指示されますが拒否しました。
コッホからの希望もあって、引き続きコッホの下で研究できることになりました。
北里のコッホへの師弟愛は半端ないです。

江戸時代末期に、日本の開国とともに、コレラが入ってきました。
ペリーの艦隊の乗組員にコレラ患者がいました。
このために西日本で流行しました。
下痢で二~三日で死亡することから「三日コロリ」と言われました。
コレラの流行を押さえるために、幕府はポンぺから要請を受けていた前例のない病院開設を認めました。
コレラの国内での蔓延は、攘夷思想を煽ることに繋がりました。
開国したせいで、外国から恐ろしい病気が入ってきたったことは、国民にとって許せることではなかったのです。
江戸幕府から明治政府に代わって、海港検疫をしようとしましたが、英国の公使パークスは治外法権を盾にして拒否しています。
一八七七(明治一〇)年七月に、清国の厦門でコレラが流行しているとの報告が入りました。
九月五日に横浜で患者が発生し、九月六日には長崎で患者が発生しました。
このときは、九州では西南戦争が続いていました。
九月二四日に西南戦争が終結します。長崎で発生したコレラ患者を乗せた船が鹿児島に達していたことから大阪陸軍臨時病院にいた石黒忠悳は、戦場からの帰還将兵には検疫を実施することを決めました。
石黒は、コレラという名前は面白くないので一見ゾットとするほど恐ろしがるようなものがいいと「虎烈刺論」という本を出して世に広めていました。

果たして九月三〇日に神戸に入港した船の将兵に多数のコレラ患者が発生しました。
このため上陸を禁止して隔離しようとしましたが、兵たちは検疫医官を罵りつつ先を争って上陸しました。
そのため神戸市内に三〇〇余人のコレラ患者が発生します。
上陸兵が町屋に立ち寄り、水を一杯、タバコを一服するうちにコロリと倒れて息絶えました。
列車移動で、京都や大津でも数十人もの患者が発生しました。
明治一〇年には、患者一三八一六人、死亡者八〇二七人にのぼりました。
コレラは全国に蔓延しました。
明治十二年には、死亡者が一〇万を越えました。患者を届け出させ、避病院で隔離することにしましたが、国民は隔離を恐れて患者を隠蔽しました。

一八九四(明治二七)年八月に日清戦争が始まりました。
軍医総監となっていた石黒は、西南戦争後の苦い経験から、戦地からの帰還将兵の検疫に備えました。
陸軍次官の児玉源太郎に相談します。
西南戦争の二の舞を避けるためにも、徹底した検疫をする必要があるということで、一人の男が呼ばれました。
内務省の衛生局長でしたが、精神病患者を座敷で匿った事件に巻き込まれて逮捕・収監されて失職していた後藤新平でした。
児玉は後藤に陸軍の検疫を任せます。
似島(広島)、桜島(大阪)、彦島(山口)の三か所の島に検疫所を設置し、翌年六月から五か月間、二三万二三四六人の検疫を行いました。
うち消毒は一五万八四六〇人、停留は四万六六九九人、コレラ患者は一二四二人、死亡は五四六人でした。
検疫せずに入国したなら、日本全国に蔓延したと思われます。
検疫業務に従事した兵員にも犠牲者が出ています。
一三六人がコレラを含む伝染病に感染し、五六人が殉職しています。
後にドイツ皇帝から、日清戦争後の検疫は見事だと称賛されました。
この後、治外法権制度が撤廃され、検疫制度が初めて導入されます。
陸軍次官の児玉源太郎は、兵站と検疫事業という功績で、日清戦争後の明治二九年十月に陸軍中将に昇格します。
兵站と検疫という後方任務をまっとうした軍政家としてただ一人の陸軍中将でした。

第二次世界大戦後、日本の海上は、密漁、密貿易、不法入国などの悪質な犯罪の舞台となりました。
帝国海軍が存在していた時代には考えられないことでしたが、海賊も横行する状態でした。
そういった時期に、朝鮮半島でコレラが流行し、日本国内に蔓延するのを水際で阻止する必要が生じます。
密入国、密貿易などの海の無法状態を取り締まる組織を検討しますが、GHQと連合国は日本海軍復活の警戒心かが神経質なほど強く、どんな海上組織も許可されませんでした。
特に、英国、中国、ソ連が警戒していました。
しかし、コレラの感染は、全国的に蔓延したら社会不安になることから、GHQは、朝鮮からのコレラ菌の上陸の監視を徹底し、船を取り押さえて乗員と船を米軍に引き渡すように、という命令を下しました。
昭和二一年に華南方面からの引揚戦内でコレラが発生し、以後、感染者を乗せた船は次々と入港してきました。
コレラ患者が発生した船は、浦賀沖に全て集められました。
これらの船は「コレラ船」と呼ばれます。
GHQは、感染者の上陸禁止と検疫を徹底しました。
浦賀沖に停留されたコレラ船は、停留されている間は、糞便を垂れ流しました。
漁港の漁民たちは激怒しましたが、GHQの命令は絶対で、どうすることもできませんでした。
長瀬の旧海軍対潜学校に設けられた浦賀検疫所に直接上陸させて検疫を実施しましたが、対象となる人数が多くて、検疫が追い付きません。
隔離された船内では食料が不足し、病状も悪化しました。
暴動もありました。
骨と皮だけになった重症患者を背負って看護婦が連れ出しました。
多くの人々が船内や病院で亡くなっています。
西浦賀に浦賀港引揚記念の碑があります。
一九四八年五月には海上保安庁が誕生し、船の検疫を担当しました。
のちに海上自衛隊の基となります。
コレラが海上自衛隊をつくったと言っても過言ではありません。
