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BC級戦犯として裁かれたのは捕虜収容所の関係者であり、A級戦犯よりも死刑が極めて多かった

内海愛子さんの「スガモプリズンー占領下の『異空間』」は身につまされる本です。

公衆衛生関係者は、こういう歴史があったことについてもよく理解しておく必要があります。

日本が受諾した「ポツダム宣言」(1945年8月14日、アメリカ、イギリス、中華民国、ソ連に対し受諾通告)には、第10項に以下が明記されていました。

吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加へらるべし

日本軍の捕虜となった連合国兵士を虐待した者を厳しく裁くという内容でした。

1945年8月20日、陸軍の河辺虎四郎中将がマニラで受け取った文書には、さらに細かい指令がありました。

捕虜に関する情報を降伏文書の調印式までに提出するようにとあり、そのなかには捕虜の安全確保、投下物資の確実な伝達、捕虜収容所を示すPW(Prisoner of War:戦争捕虜)を標示するようにとの指示がありました。

このときに日本国内には捕虜収容所が130か所、アメリカ人やイギリス人など「敵国の民間人」を抑留していたところが29か所ありました。

日本軍が占領していた朝鮮、台湾、中国、フィリピン、マレー半島、シンガポール、インドネシアなど「大東亜共栄圏」各地にも捕虜収容所が開設されていました。

そこにも食料や医薬品を投下することとしました。

連合国軍が緊急に物資を投下しようとしたほど、収容所での食料や医薬品の欠乏は深刻だったのです。

何をおいてもまず、飢餓と病に苦しむ自国の兵士たちを救出しようとしました。

皆殺しの危惧を抱いていたところもあったのです。

というのも、日本の捕虜の扱いは劣悪でした。

戦争中から連合国軍は情報を収集して、スイスなど中立国や国際赤十字を通して日本に問い合わせや抗議を繰り返してきていたのです。

日本は「俘虜の待遇に関する1929年7月27日の条約(ジュネーヴ条約)」に署名していましたが、批准はしていませんでした。

しかし連合国側には「準用する」と約束をしていました。

日本軍は、具体的な処遇の改善もできませんでした。

時には問い合わせや抗議を無視してきました。

連合国はこうした日本政府に激しい怒りを抱き、一刻も早く、捕虜の救出に動いたのです。

矢継ぎ早の指示は、日本側が当惑するほどでした。

戦争中、捕虜を管理する部署は、よけいなもののように扱われていました。

それが突然、歴史の表舞台に押し出されたのです。

しかも戦争犯罪追及の矢面に立たされたのです。

日本に提出させた収容所の位置情報やアメリカ軍がつかんでいた情報をもとに、8月25日から食料などの投下作戦が展開されました。

三井三池炭鉱のある福岡県大牟田市の上空には、赤や青、色とりどりの落下傘の花が開きました。

125機のBー29機が日本の捕虜収容所60か所に、87万5000ポンドの食料・衣料・医薬品を投下していった、と8月30日の朝日新聞は報道しました。

9月2日の東京湾の戦艦ミズーリ号で降伏文書が調印されました。

この降伏文書にも、すべての捕虜と抑留者を「直ちに解放すること」「指示せられたる場所への即時輸送の為の措置を執ること」などと命じています。

また、各軍管区と捕虜収容所に、捕虜の引き渡し計画をラジオ放送するようにとも命じていました。

放送は英語そのほか必要な言語で行うこと、捕虜の本国帰還を準備するために、連合国代表をできるだけすみやかに収容所に派遣すること、などと詳細な指示が出されました。

捕虜の引き上げは、8月30日から始まり、9月22日には完了しています。

日本国内に収容されていた捕虜3万4152人が引き渡されました。

うち3415人は収容中に死亡していました。

このように連合国軍が何を差し置いても、まず、捕虜の救出に動いたほど、収容所は目を覆うばかりの惨状でした。

国際法を無視した日本の捕虜取り扱いに激しい怒りを抱いていた連合国軍は、捕虜の身柄を確保すると、戦争犯罪の追求に着手します。

戦争犯罪を裁いた軍事裁判は、東條英機らの戦争指導者をさばいたA級戦犯裁判と、捕虜収容所に勤務していた軍人や軍属をさばいたBC級戦犯裁判があります。

戦争指導者をさばいたのは東京裁判で、アメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、中国、ソ連など11か国による裁判です。

東京市ヶ谷の元陸軍士官学校の大講堂で軍事裁判が開廷します。

ハリウッド並みと言われるほどの照明の中で、裁判が行われました。

一方、BC級戦犯の裁判は、国内では横浜法廷のみで、その他はアジア各地で開かれました。

その数は連合国49か所、中華人民共和国2か所で51か所にのぼります(ソ連を除く)。

BC級裁判は被告も法定数も多く、逮捕された容疑者は2万5000人以上に及ぶと言われていますが、正確な数はつかめていません。

起訴された者は5700人、死刑判決984人(のちに減刑などにより執行は920人)、無期刑475人、有期刑2944人、無罪1018人、その他279人となっています(この数字には中華人民共和国裁判、ソ連のハバロフスク裁判は含まれていません)。

BC級裁判では、人定の誤認、人定の無視、人違いが非常に多かったので、それを一番の問題として被告を救済していかなくてはならないというのが、厚生省の方針だったと言われています。

厚生省は、アジア各地の法定に弁護士100人と通訳100人の約200人の弁護団を送っています。

横浜法廷で判決の出た事件数327件のうち232件、被起訴人1037人のうち516人が捕虜収容所関係でした。

アメリカが捕虜虐待にどんなに激しい怒りを抱いていたのかを示す裁判結果です。

なぜ、ポツダム宣言に明記されるほど捕虜虐待があったのでしょうか。

開戦の詔勅に「国際法遵守」の文字が入っていなかったことや、戦時国際法の軽視・無視にその一因があったことは、東京裁判で指摘されています。

元陸軍省法務局長は、六点を指摘しています。

1 国際法教育の不足:国際法教育は将校に対しては、士官学校で一応、教育はしていたが、下士官兵等相当無関心な者もあったと思われる。

2 政府、軍の宣伝の誤り:東條英機陸軍大臣の「捕虜を甘やかすな」との言動について、規則通りに正々堂々とやり、悪い者は徹底的に取り締まれとの意味で、決して俘虜をいじめよとの考えではなかったと思う。しかし、東條の発言が誤解されて行き過ぎとなった点はあったかもしれない。

3 日中戦争の悪影響:「日中戦争」以来、予備役・後備役が大量に召集され、前線に配備された。このため、軍隊内における軍紀・風紀の維持は相当困難になった。

4 俘虜管理陣容の不適切:収容所の配置には、部下統制の感覚を持ったような現役軍人はほとんど一人もいなかった。いずれも予後備で他では使いものにならないような二流三流の配置がなされ、ことに大切と思われる通訳が悪かった。

5 内地への無差別爆撃への復讐心:無差別爆撃が軍や国民の復讐心、俘虜への虐殺・虐待を生んだ。

6 ジュネーヴ条約「準用」の不徹底:日本として、ジュネーヴ条約を批准していようがいまいが、国としてその「準用」を約束した以上、条約は充分尊重されねばならないが、この約束の徹底についての措置は曖昧だった。

1941年1月8日、陸軍大臣東條英機が示達した「陸訓第一号 戦陣訓」には「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」との訓がありました。

兵士にはこの「戦陣訓」が教え込まれていました。

捕虜になるより死を選べと兵士に教えていた日本軍では、捕虜管理にあたる収容所も軍人の職位として軽視されていました。

捕虜の軽視、敵愾心が収容所の職員への軽視となり、食料や医薬品の調達を一層、難しくさせました。

収容所関係者は連合国捕虜と日本軍・日本国民の狭間で苦闘してきましたが、敗戦後はその処遇が「虐待」とみなされ、戦争犯罪人の矢面に立たされたのです。

横浜法廷などBC級裁判では、その問題点として次の四点が指摘されています。

1 A級と比べて死刑判決がきわめて多かった。

2 権限と責任を持つ上官より、現場の責任者および実行者の責任が重く問われた。

3 証拠として用いられた捕虜の宣誓供述書や陳述書は、作成の経緯、内容や取り扱われ方からみて、きわめて信頼性に乏しいものである。

4 個々の裁判をみるときわめて短時間のうちに審理、判決、処刑が行われ、十分な審理が行われないまま判決が下された。

1945年8月30日に、熊本県の捕虜収容所へ救援物資(食料や衣料)を空輸中だったBー29機が、悪天候による視界不良のために祖母山(親父山付近)に墜落しています。

この事故で搭乗員12名全員が亡くなっています。

それより少し前に、日本軍の戦闘機「隼」が空中戦ののち、高千穂町の山中に墜落し、パイロットの坂本幹彦中尉が戦死しました。

高千穂町の祖母山のふもとに位置する展望の優れた高台である三秀台に平和記念碑が建てられています。

日米両軍の亡くなった兵士を祀っています。

毎年8月末に、平和記念碑前で、地元住民や米軍関係者が参列し、献花や黙祷が行われています。翌日は実際にB-29機が墜落した現場まで登り、現地で供養が行われています。




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