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平家物語は史実に正確だと言われているが、軍陣医学については伝説のイーリアスの方がリアリティがある

トロイア戦争は、ギリシャ最古で最高の吟遊詩人のホロメス(生没不詳)が書いた「イーリアス」の題材となりました。

イーリアスは、約一〇年間にわたるトロイア戦争の中の数十日間の出来事を切り取って、ギリシャの勇者アキレウスの怒りを主題に、ギリシャ軍とトロイア軍の戦況の推移を描いています。

ギリシャ軍の総大将アガメムノンと第一の勇将アキレウスが、捕虜にした娘の扱いをめぐって反目してしまいます。

怒ったアキレウスが戦線から引き揚げたので、ギリシャ軍は苦戦します。

アキレウスの親友パトロクロスが、アキレウスの身代わりとなってアキレウスの武具を借りてトロイア軍と対しますが、敵将のヘクトルに倒されてしまいます。

それを聞いたアキレウスが立ち上がって、ヘクトルと一騎討ちをして討ち取りました。

しかし、トロイア軍の放った矢がアキレウスの急所を射抜き、アキレウスは死んでしまいます。

このアキレウスの急所といわれるのが、有名な「アキレス腱」です。

堅固な城「イーリアス」に籠城していたトロイア軍は、城の前に置かれた巨大な木馬を目にします。

自分たちへの貢物だと思って城内に引き入れてしまいました。

しかしこれは罠だったのです。

木馬の中に潜んでいたギリシャ軍兵士が出て来て、城門が開けられました。

これを契機に、ギリシャ軍が城内に入り込み、難攻不落を誇った城はついに落城します。

「イーリアス」は、医学的な観点からは、外傷とその治療や手当の話が多く、疫病の他の病気は出てきません。

マニアックな研究者によれば、以下のとおりです。

戦傷場面は、147か所あり、
槍は106例で、死亡率80%
刀は17例で、全員死亡(死亡率100%)
矢は12例で、死亡率42%
パチンコは12例で、死亡率66%

外傷の手当の方法、矢や槍の抜き取り方、止血の方法、圧迫包帯の使い方、痛み止めの薬、元気を回復させるぶどう酒などが登場します。

ギリシャ人の医師は「多勢の兵士に匹敵するほど大事だ」と評価されています。

総大将アガメムノンとアキレウスとの衝突のきっかけとなった娘は、アポロンの神殿で働いていました。

そうした大事な娘を捕虜にされて怒ったアポロンが矢を射ると、兵たちは次々と疫病で倒れていきました。

人間と神が一緒に戦う物語「イーリアス」は、吟遊詩人たちが楽器を奏でながらギリシャ中に伝えていったのです。

我が国で言えば、琵琶法師が、琵琶を奏でながら平家の滅亡を伝えた「平家物語」に似ています。

祇園精舎の鐘の声、所行無常の響きあり、
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす

おごれる人も久からず
ただ春の夜の夢のごとし

たけき者も遂にはほろびぬ
ひとへに風の前の塵に同じ

平家物語には、イーリアスのように矢を抜いたり、外傷を手当する場面がほとんど出てきません。

昔から我が国は、軍陣医学に重きを置いていないことがよくわかります。

イーリアスは伝説であるのに対して、平家物語は史実に正確だと言われていますが、イーリアスの方が、軍陣医学については相当のリアリティがあると感じています。

私の故郷の宮崎県椎葉村には、平家落人伝説があります。

壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人が隠れ住んだと言われています。

九州の中央部の脊梁山地にありながら、海の神様の厳島神社があり、昔から不思議に思っていました。

平家の落人を討つために、屋島の戦いで弓の名手として轟かした那須与一の弟大八郎宗久が椎葉山に派遣されました。

椎葉山に来た大八郎は、かつて都で栄華を誇った平家の公達らが山の生活をしていることを知って「所行無常」を思いました。

美しい鶴富姫に出会って一緒に暮らし始めます。

だが幸せな期間は長く続きませんでした。

鎌倉から帰還せよとの命が届きます。

そのとき鶴富姫は妊娠していました。

大八郎は、「生まれる子が女ならば当地で育て、男ならば鎌倉に連れて来い」と言って椎葉を後にしました。

生まれた子は女でした。

この子孫は「那須」を名乗って、那須一族は、椎葉山一帯を治めて、戦国時代もその領地を護り抜きました。

現在の宮崎県の大半を領地にして四八か所の城を構えた日向を代表する戦国大名の伊東氏も、椎葉山には手を出していません。

薩摩の島津氏や豊後の大友氏の支配も受けずに、豊臣秀吉の九州征伐後の国割でも、秀吉の家臣に鷹を贈って懐柔し、鷹の産地を守るという名目で、椎葉山は那須一族の領地として残されています。

徳川幕府の二代将軍秀忠の時代に、椎葉山で騒動が発生し、逃げた者が江戸の評定衆に訴えを起こしてからは、その体制が崩れることになりました。

将軍秀忠の命により、阿部正之と大久保忠成という二人の旗本が、九州へ派遣されました。

二人は、海路で大分に上陸した後に、椎葉山に文を送って、首謀者は当地に来て申し開きをするように伝えました。

長らく待っていましたが、なしのつぶてで、怒った阿部と大久保は、人吉の相良藩に向かいます。

再度招致状を出して、人吉に出頭してきた三十名に対して、厳しい審査の末、兇徒と判断した一九人を処刑しました。

その後、相良藩兵とともに夜分に椎葉山に乗り込み、主謀者など140人の男を見せしめのために打ち首としました。

この仕打ちに、男の妻たち約20人が自害しています。

「椎葉山騒動」という事件で、幕府や相良藩の公式記録に残っています。

この後、椎葉山は幕府直轄の天領となりますが、当初は阿蘇神社の預かりとなりましたが返納されて相良藩の預かりとなりました。

相良藩は、椎葉山の多くの者が名字帯刀をしていることを知って愕然とします。

椎葉山の南にあり相良藩が支配した米良山では、名字がある住民は4分の1でしたが、椎葉山では4分の3が名字を持っていました。

武器を取り上げて「名字を名乗るな」と言えば、また騒動が生じて幕府からおとがめを受ける可能性がありました。

そこで相良藩は、椎葉山の先祖をたどれば平家の落人であり武士であることから名字帯刀が多いという理由にして、現状のままで目を瞑ったのではないか、と私の父は推理しています。

旗本からの文が来た時点で申し開きに行くべきでした。

平家の子孫としてのプライドと島津や秀吉からの支配をも凌いだ実績もあることから、徳川の旗本ごときの命に従えるかという気概で行かなかったのかもしれません。

一方、旗本らは、密かにスパイを送って事前に椎葉山の情報を手に入れていたようです。

相当な数の鉄砲があり、山に籠城されると第二の「島原の乱」となる可能性もあることから、相良藩の兵士を使って「夜討ち」という奇襲攻撃で一気に鎮圧したのだと想像します。

平時のインテリジェンス活動と、有事の奇襲攻撃は大事です。

こうしたエピソード満載の有料マガジン「ミリタリー・メディスン」は、戦争と医学の交わりを描いており、日本には類書もほとんどないことからおすすめです。


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