見出し画像

私が飛鳥新社の社長なら、「感謝脳」と「最高の二番手」をセットで日経新聞に広告をうつ

「感謝脳」の本はハベレオ通信で紹介させていただきましたが、最近読んだ本がかなりクロスオーバーしていたので、ご紹介します。

芸能界で活躍している堺正章さんの「最高の二番手 僕がずっと大切にしてきたこと」(飛鳥新社)という本です。

偶然にも同じ出版社でした。

一番手、二番手という言葉は、歌舞伎用語だそうです。

堺正章さんは小学生のころから気になっていた芸能人でした。

「さらば恋人」という歌を歌う歌手だと思っていたら、俳優もするし、司会もするし、料理番組もやっています。

椎葉小学校の卒業式の前には、卒業遠足があり、上椎葉ダムが見下ろせる女神の像公園に行きました。

そこで、6年生のために、各学年が歌を歌ったり、演劇をしたりする行事がありました。

そのときに何年生か忘れましたが、この「さらば恋人」を歌ったのです。

子ども心にいい曲だと思いました。

歌っているのが堺正章さんで、作詞は京都府立大出身の医師の北山修さんでした。

魑魅魍魎の百鬼夜行の芸能界で、
16歳でスパイダースのメンバーとしてデビューして、
以後、60年以上も芸能界の第一線で活躍しております。

生き残っているのは理由があるはずです。

驚いたのは、堺正章さんのお墓には、「感謝」という二文字が彫られていることです。

俳優の植木等さんから教えられた言葉で、一番堺正章さんの心に刺さっているのが「感謝」。

植木等さんがいつも言っていたのは、
「感謝することを忘れると、いつの間にか薄っぺらい顔の人間になってしまう」
ということでした。

堺さんは、芸能界についてこう言っております。

芸能人は日本全国に7万人いる。

このうち、多くの人の目に触れる形で活動できる人のための芸能界の椅子は、たった500席しかない。

この貴重な席に座れる芸能人は、全体の1%にも満たない。

芸能界は熾烈な椅子取りゲームである。

どんなに疲弊しても、むやみに席を立ってはいけない。

誰かが立ったら、音もなく、あっという間に代わりの誰かがその場所に座る。

そして自分が戻る席は二度と手に入らない。

芸能界にはライセンスがない。定年もない。

人気や立ち位置に関してはなんの保証もないのだから、不安定極まりない。


そんな芸能界を生き抜いてきた、堺さんは振り返って、このように述べています。

思えば今にいたるまで、いろいろな方のサポートやヘルプに恵まれてきた。

ひとりでやってこれれたはずもないのに、昔はひとりでやっているような気になっていた(中略)

若い頃にもっとさまざまなことに感謝できていたら。そんなふうに昔の自分を残念に思うこともある。

今からでも遅くはない。

かつて出会ってきた人々や、過ぎ去ったいろいろな出来事に思いを馳せながら、ときどき立ち止まって考え、感謝を感じる人生を選びたいと思う。


順風満帆に生きてきたように見える堺さんですが、人生で大きな暗黒期を経験していると言っております。

1度目は、ザ・スパイダースが売れる前の下積み時代の3年間。

2度目は、ザ・スパイダーズのブームが去ったとき。

3度目は、怒濤の忙しい時代が過ぎた1986年からの3~4年間。

3度目のときに活路を見いだしたのは、料理番組です。

TBSのグルメ番組「チューボーですよ!」は22年間続きました。

私は料理はしませんが、
この番組はなぜが大好きで、ずっと見ておりました。

堺さんは「天皇の料理番」というドラマの主人公役を演じたことがあり、そのときに料理界と縁ができて、それを知っている料理人たちが堺さんの番組をみんなで応援したそうです。

「感謝脳」で人生がうまくいった代表的な人物を誰かひとりあげるとすれば、文句なく堺正章さんでしょう。

墓にまで「感謝」を書いているところが、
徹底的な証拠
です。

奇しくも同じ飛鳥新社という出版社から出ていますが、堺さんの本の企画は新型コロナウイルスが流行する前からあったそうなので、出版された時期が同じだけで、コラボしている訳ではないようです。

私が飛鳥新社の社長なら、二冊セットで日経新聞に広告をうちます!

椎葉村に墓をつくるときは、
墓石に「感謝」の2文字を刻もうと思いました。

「最高の2番手」の中に公衆衛生的に刺さるエピソードが2つありました。

一つ目のエピソード

堺さんが墓石に「感謝」の2文字を彫ったのは、喜劇俳優の植木等さんの発した言葉が心に刺さったからでした。

植木等さんを知らない人に解説を加えますと、かつて日本一いいかげんな「スーダラ男」と言われた人です。

「スーダラ節」といいう、ほんとうにとんでもない歌を歌って大ヒットしました。

チョイト一杯の つもりで飲んで
いつの間にやら ハシゴ酒
気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝
これじゃ身体に いいわきゃないよ
分かっちゃいるけど やめられねえ

ア ホレ スイスイスーダララッダ
スラスラ スイスイスイスイ


スラスラスイスイスイとは、なんといいかげんな歌でしょう。

さすがに、この歌を歌う前に、父親に相談をしたそうです。

植木さんの父親は、浄土真宗の僧侶でした。

「親鸞聖人の教えによく通じているので、自信をもってやりなさい」
と応援してくれたそうです。

「わかっちゃいるけどやめられない」というのは人間の真理であり、親鸞の教えなのだそうです。

保健指導や栄養指導で、患者に生活習慣の改善について、指導をします。
本人は、「わかっているのですが、やめられない」のです。

それを聞いて、怒って指導するのか、親鸞の教えどおりだと笑って指導をするかで、その後の状況が変わります。

「身体に悪いということは分かっているのですよね。このままの状態を続けたいですか、やめたいですか?」という質問がでれば一歩前進です。

「やめたいのだったら、私と一緒に考えてみませんか?」
保健指導は、次のステージに移行するでしょう。

二つ目のエピソード

堺さんの父親は、「堺駿二」という芸名で、250本もの映画に出演した喜劇役者でした。

京都・太秦の撮影所の人から、
「あんたのお父さんはすごい人なんやで」
とよく言われたそうですが、
若い頃は、その意味がよく分からなかったそうです。

昔の太秦の撮影所は、役者の二大巨頭がいて、勢力を二分していました。

「北大路の御大」と「山の御大」がいて、撮影所内では、御大ふたりが絶対に鉢合わせしないように、みんなが細心の注意を払っていました。

この時代の映画界は、主役から嫌われたら永遠に締め出されるほど恐ろしい世界でした。

御大ふたりの間には、ベルリンの壁ほど高い障壁が立ちはだかっておりました。

一度だけ、カツラ合わせをする場所で、二人が遭遇するというミスがあったそうです。

それぞれお付きの人たちを従えた両巨頭は、お互いに挨拶をしませんでした。

全員が体を硬直させ、空気がピーンと張り詰める中、いつも冷静な役者のまげを結う係の床山が、緊張のあまりヘラを床に落としてしまい、ガチャンと音がしたそうです。

こんな派閥間の確執があった中で、
平和主義者の堺さんの父だけは、
どちらの御大とも仲がよく、
両方とお付き合いすることを特別に許された存在でした。

「ただの八方美人じゃねえか」
と堺さんは思っていたそうですが、
撮影所のみんなから
「御大ふたりから可愛いがられるなんて、誰もいない。特別な人や」
と言われて次第に受け入れたそうです。

御大それぞれから信頼され、たったひとり、どちらの映画にも同時に出演できたのは、すごいことだと思います。

主役の傍にいて、主役の演技を最高にひきたてる、
まさに「最高の二番手」だったのだと思います。

堺さんの父のエピソードを聞いて思い出したことがあります。

私の恩師の産業医大の教授をされていた馬場快彦先生のことです。

馬場先生は、私に
「憲法には医療はないが、公衆衛生はある」
ことを教えて下さいました。

当時は、産業医大にあった産業保健師を養成する専攻科の学生を教えておりました。

馬場先生は、もともと三井三池炭鉱の産業医をしていたそうです。

炭鉱では、激しい労働争議があって、労働組合が第一組合と第二組合に分裂しました。

ざっくりいえば、会社と協議して有利な労働条件を勝ち取る方針の組合と、会社と徹底抗戦をする方針の組合とに分裂しました。

当時は、炭鉱住宅に労働者とその家族が住んでいましたが、
組合が違うと、たとえ親兄弟や親戚でも話をしないようになりました。

そのような状況で、会社の保健師だけは、どちらの組合にも自由に出入りできたそうです。

健康を扱う保健師は組合が違っても、信頼されていたのです。

このことがきっかけで、保健師は大事だと思い、
まだまだ産業保健の分野で働く保健師が少ないので、
産業保健師を育成しようと思ったと恩師はおっしゃっておりました。

以上、二つのエピソードのある堺正章さんの「最高の二番手」は、私的にはすごく心に刺さった本でした。

親鸞の教えをご存じでしたか?
しんらんかった人が多かったのではないでしょうか。

いいなと思ったら応援しよう!