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インパール作戦は、日本では「無謀な戦い」とされているが、英国では「東のスターリングラード」と呼ばれる死闘とされている

災害ルール(ヘルス出版)という本があります。

イギリス人の災害医療の専門家がまとめた本で、災害医療を学ぶのに一番わかりやすいと思いました。

日本語訳のメンバーは我が国の災害医療のトップランナー4人です。

災害医療の80のルールを示しています。

ルール1は、「災害はさまざま、解決策は一つ」。

「なにはともあれ、まずはCSCATTTを覚えることである」と言っております。

ルール4は、「戦いが始まったら計画に固執してはならない」です。

これは「ビルマ駐留のスリム子爵」の言葉だとありました。

柔軟性のない計画の例として、1942年2月15日のシンガポール陥落を上げています。

極めて重要なシンガポールの英国海軍基地の防衛計画は、南部からの攻撃にしか備えていなかった。

マレー半島は英国の手中にあったため、マレー半島から海峡を越えての北部からの攻撃は不可能であると考えられていた。

また、その計画は、英国海軍の優位性を想定したものであった。

戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが空襲を受けて撃沈され、日本軍が劇的な速さでマレー半島を占拠したため、「難攻不落の要塞」であったシンガポールは北部からの攻撃に対し無防備となった。

日本軍は海峡を越え、激しい抵抗にも関わらず、わずか7日間でシンガポール島を征服した。

したがって、最大限に効果的であるためには、大事故災害計画は、例えば、以下のようでなければならないとしています。

・柔軟性があり、事故の発生において予想される経過からの逸脱を認め、その場の意思決定を奨励する。

・事故発生時に従いやすい。

・その場所に適した知識が含まれている。

・過去の訓練や事故から学んだ教訓をもとに調整されている。

・年1回見直されている 等

計画を立てる際に陥りやすい穴としては、例として以下を挙げております。

・計画がスタッフに依存しており、スタッフの休暇や体調不良を想定していない。それぞれの役割には、それを引き受けるスタッフを多数準備すべきである。

・診療区域が使用できなくなる可能性を無視した計画 等

そもそも、ビルマ駐留のスリム子爵とは何者なのか。

偶然、本屋で見つけた本に載っておりました。

笠井亮平さんの「完全版インパールの戦い」(文芸新書)です。

日本と英国は、第二次世界大戦においてビルマで戦いました。代表的なのがインパール作戦です。

日本では「無謀な戦い」とされた作戦ですが、英国では「東のスターリングラード」と呼ばれる死闘とされていました。

英国の植民地インドに侵攻する日本軍に勝利した英印軍の司令官がスリム中将でした。

英国国立陸軍博物館による企画で、歴史家たちによる英国の戦いのなかで最も栄光のある戦いを選考しました。

その中で、ノルマンディー上陸作戦や、ナポレオンを破ったワーテルローを押さえて選出されたのが、インパールの戦いだったのです。

アジアのイギリス軍にとって、1941年末からの半年間は悪夢のような時間でした。

マレー半島、香港、シンガポール、そしてビルマと、英国の拠点は日本軍の手に落ち、インドもうかうかしてはいられない状況に置かれていました。

イギリス軍にとって幸いだったのは、雨季の訪れでした。

雨季の間、インド・ビルマ国境地帯は世界でも有数の豪雨地帯となります。そのため、ひとまず休戦となりました。

大英帝国にとってインドは単なる植民地ではありませんでした。

国土の広さ、人口、そこからもたらされる莫大な富、どれをとっても、インドは群を抜いていました。「王冠に輝く宝石」と呼ばれていました。

日本軍がビルマを平定し国境に迫ったことで、インドという宝石が王冠からもぎとられかねない恐れが出ました。

1943年にビルマ奪還に取り組む攻勢部隊として、第14軍が設置されます。

このとき軍司令官に任命されたのがスリム中将です。

スリム司令官は、日本軍との戦いに備えて準備をしました。

ビルマでの敗退は英印軍の将兵に対して、心身ともに深刻な影響を与えていました。

志気が低下していたのです。日本軍がインドに侵攻してきたら、跳ね返すことなどできない、そういう弱気ムードが蔓延していました。

スリム司令官は、志気をアゲアゲにするために、二つの改革を断行します。

「食糧事情の改善」と「医療態勢の整備」です。いずれも公衆衛生改革です。

スリムが就任した時には、インド北東部に展開する部隊への食糧供給態勢が整っていませんでした。

スリムは本部のあるデリーに飛び、直談判します。

その結果、軍民をあげた供給態勢強化の取り組みが行われ、1944年の初めの時代では質量ともに食糧事情は着実に改善に向かいました。

インド北東部では、感染症が蔓延しており、中でも影響が深刻だったのはマラリアでした。

マラリアの感染により、中隊規模に縮小してしまった大隊や、機能停止状態に陥った部隊がありました。

特効薬キニーネの産地を日本軍が占領したことで入手が困難になります。

キニーネの替わりに目漠リンやパルドリンといった別の薬を飲むように義務化しました。

半ズボンの着用や日没後の腕まくりを禁止します。

抜き打ち検査を実施し、規定に達しない部隊の指揮官は更迭しました。

一連の感染症予防対策により、インパールの戦いを経た45年には、第14軍のマラリア罹患者は1000人当たり1人まで減少します。

恐るべきスミス司令官の公衆衛生パワーです。

一方の日本軍の状況はどのようになっていたのでしょうか。

ビルマの第15軍に所属の第31師団(烈)は、イギリス軍の要衝地コヒマを攻略しますが、雨季の中で補給が続かず、このままでは全滅するとして師団長の佐藤幸徳中将は撤退を決意しました。

そのときの電報です。

今や第一線各部隊は戦う事より自滅を防ぐ事を第一義として行動しつつあり。

糧秣を得、弾薬を装備して初めて作戦は成立するものなり。

烈兵団の如きコヒマに於て刀折れ矢盡き糧絶えるまで勇戦奮闘したる軍隊が更に三千名の患者を帯同し雨中の轉進一百里に及び補給を受けたるものはチドウィン河渡河以来フミネに於て僅かに二日分の糧秣に過ぎずに非ずや。

飢餓と栄養失調、マラリア、下痢、脚気の為途中死亡せるもの実に五百名に及べる外健康者殆ど無き状態に於て尚補給せずして、兄等はバレル要塞を攻撃せしめんとする意思なりや。兵団の幾名が敵陣地前に到着し得ると思考するや。

今回の作戦に於て将兵一同の痛感せるものは各上司の統帥が恰も鬼畜の如きものなりと思う外何者も印象を受けず。


あまりにも激烈な文面なので、第15軍司令官牟田口廉也中将とそれを統括するビルマ方面軍では、佐藤師団長が発狂したと考えました。

フィリピンにある南方総軍司令部から参謀副長が精神科の軍医を帯同してビルマに到着しました。

そこで髄液検査などの精神科の診断を行ったところ異常なしの判定でした。

精神科医で作家の帚木蓬生さんの「蛍の航跡 軍医たちの黙示録」に「抗命」という作品があり、このときに派遣された軍医が「事実をありのままに」鑑定書を作成する姿が描かれております。

英印軍はスリムという希有な司令官を得て、第14軍は生まれ変わったのです。

スリムは食糧事情の改善や感染症対策、医療態勢の整備といった公衆衛生の課題に注力することで、折れてしまった将兵の士気を高めることに成功しました。

スリムは、最終的にインドを防衛し、ビルマを奪還します。

しかし、戦勝からわずか3年以内に、インドもビルマもイギリスから独立することになりました。

対日戦に勝利したからといって、被支配国の民衆が無条件にイギリスを支持したわけではなかったのです。

スリムは、敵であった日本軍兵士のことをこのように評価しています。

日本軍の強さは上級指導部にあるのではなく、個々の日本兵の精神にあるのだ。

彼らは死の直前まで戦い、進軍を続けた。

500人の日本兵がある拠点の守備を命じられたとしよう。

わが軍がその拠点を確保するまでに、495人を殺害しなくてはならないーーそして、残る5人は自決してしまうのだ。

このような忠誠と勇敢さの結合があったからこそ、いかなる状況下においても日本軍はかくも手強い存在でありつづけた。

このような兵士がいてくれれば、どの国の軍でも手強い存在になることだろう。

スミス中将、いやスミス子爵の言葉、「戦いがはじまったら計画に固執してはならない」はこのような将軍によって発せられた言葉です。

食糧と医療が大事で、その態勢を整備すると士気が上がります。インパールの戦いでの教訓です。

公衆衛生は士気を上げるのです。


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