相馬事件の後藤新平は、法政大学の学長のおかげで危なかった橋をかろうじて渡ることができた
我が国の精神医学の歴史の中に「相馬事件」と呼ばれるエピソードがあります。
事件の概要は以下のとおりです。
明治10(1877)年に旧・奥州中村藩(現在の福島県相馬市)の藩主の相馬誠胤が、瘋癲(ふうてん)、つまり精神錯乱であるとして家族や縁者によって自宅に監禁され、次いで東京癲狂院(現在の東京都立松沢病院)の密室に入院させられたことが発端でした。
内務省衛生局の部長として勤務していた後藤新平のところにひとりの男が現れます。
中村藩の救心出身の錦織剛清という人物で、「旧主君の相馬誠胤公が瘋癲ではないのに拘わらず、瘋癲病者として麹町の屋敷に監禁されている。主君の身を案じており、助力を得たい」ということでした。
翌々日に、後藤新平の家に、宮内省の大書記で華族会館の幹事が訪問し、相馬家の内情を調査したところ、錦織の言うことがないとは断言できないので、法医学に精通している後藤新平に、この件について研究して自分たちを助けて欲しいと頼みました。
この二人の要請を受けて、後藤は調べてみることにしました。
相馬誠胤の診断書を書いた医師は、実際には診察せずに書いたことを知りました。
この経緯を知った後藤は大いに憤慨して、意を決し、この事件の究明に身を乗り出すことになりました。

明治16(1883)年に、旧中村藩の旧家臣の錦織は、旧藩主の相馬誠胤を監禁したことは、家令らによる家督相続・財産目当ての陰謀であるとして、告訴しました。
明治20(1887)年には、錦織らは癲狂院から相馬誠胤を強引に連れ出します。そのとき後藤は、その手助け(家宅侵入教唆)をしました。
錦織は家宅侵入罪で重禁固1か月に処せられています。
明治25年2月に、旧藩主の相馬誠胤が血を吐いて急死しました。
錦織は、相馬誠胤の急死を、異母弟らによって謀られた毒殺であるとして告発しました。
謀殺の告発を受理した東京地方裁判処検事局は、関係者を召喚して取り調べを行います。
予審判事は、連日にわたって証人・参考人の尋問をして、証拠物件の収集を行います。
旧藩主の相馬誠胤が急死した直後に遺体の検査を行ったのは、帝国大学教授の法医学者片山國嘉で、誠胤の主治医であり相馬家に出入りしていた医師でした。
警視庁の医務局長が検死を行い、死因不明として解剖を勧告しましたが、なぜか解剖が行われず埋葬されました。
予審判事は、警視庁の医務局長が持ち帰った相馬誠胤の吐出物と、その分与を受けた帝大法医学の片山教授が持ち帰ったものを、分析鑑定を行っています。
双方の吐出物の分析の結果は、毒物を含む証拠はないと鑑定されましたが、帝大法医学で保管されていたものにはアンモニア臭がありました。
証拠隠滅を図るためにアンモニアを投じたのではないか、という疑いがもたれたのです。
予審判事は、この事件を徹底的に究明するために、青山墓地に埋葬されていた誠胤の遺体を発掘して解剖することを命じました。
遺体諸臓器からは毒物は検出されず、裁判医学からも毒殺ではないと判定されました。
この告発は事実無根であるとして、逆に錦織は相馬家と家令らに告訴されます。
後藤は、錦織に同情して三千円の借金証文に捺印をしたことで、錦織の一味と見なされました。資金援助をしていることが、決め手となりました。

26年11月に、内務省衛生局長の後藤は、共犯の嫌疑をかけられ拘引されて、鍛冶橋にある監獄に収監されます。
東京控訴院における最終判決は、錦織は事実を偽った謀殺誣告罪で、重禁固四年、罰金四十円付加となりました。
錦織はこの判決を不服として上告しましたが、却下され、服役しました。
後藤新平は、無罪になって釈放され、はれて自由の身になりました。
後藤が錦織を支援して、この事件に関与した根拠は、人権擁護と裁判医学上の問題でした。
事件発生当初、後藤は警視庁大警視に会って、「医師の診断をも受けずして、ほしいままに瘋癲を監禁するのは、人権を無視した行為である。帝都人民の自由と生命保護の任にある警視庁はよろしくこれが取締令を制定布達すべきである」と意見を述べています。
東京府の衛生課長で警視庁の警察医長を兼務していた医師にもこの件を警視庁に強く進言するように要請しています。
その結果、明治17(1884)年に、警視副総監から瘋癲狂を介護するための管轄警察署への許可願いとその違反についての警視庁通達が出されています。
この通達が出たことで「相馬事件」は大問題となり、その反面では「相馬事件」によって法制が進歩したと言われています。
相馬事件が契機となって、明治33(1900)年に我が国最初の「精神病者監護法」が制定され、癲狂院は「精神病院」と改称されました。

晩年の後藤新平が、法政大学に呼ばれて講演をしたことがあります。
そのときの松室致学長は、後藤新平の裁判を担当した裁判長でした。
後藤は、懐かしい「相馬事件」当時のことを話しました。
松室学長は、意外なことを告げました。
「実はあの時、陪審判事には有罪とする意見が多かったが、私が自分の意見を押し切って無罪にした」と言ったのです。
獄中の後藤新平の医療を支援した親友の金杉英五郎(東京慈恵医大教授・わが国の耳鼻咽喉科の創始者)は、手記でこう述べています。
然るに伯の不正の心無き為に発せる峻弁剛舌は豪も屈することなく、社会政策上より、法医学上より、事理を尽くして弁明したるを以て、公平無私を以て鳴りたる当時の裁判官松室致(現枢密顧問官)が極力其無実たるべきを陳述説明したる為め、辛うじて危険を免れたのであった。
もしこれが、事件の経過のみを平凡に看過する判官の手に裁断さるることになったら、到底免るる能わざりしものなるべく、実に危かりける次第であった。
後藤は、松室裁判長のおかげで危なかった橋をかろうじて渡ることができたのでした。
この「事実の経過のみを平凡に看過する判官の手に裁断さるることになったら」という一言には、ぞっとします。

村木厚子さんは、裁判に勝つためには「運」が必要だと言っておりました。
後藤は逮捕拘留で内務省衛生局長を罷免されますが、日清戦争後の陸軍の大規模検疫を成功に導いた功績で内務省衛生局長に復活し、台湾総督府民生局長、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市長となりました。
裁判長が違っていたら、後藤新平は予審判事の言うとおりに有罪となって、全く違った道を歩んでいたと思います。
後藤新平は、本当に運が良かったと思います。
タイトルの写真は、厚生労働省国立医薬品食品衛生研究所にある後藤新平の書です。
