観光の定義は、人が日常生活圏を離れ、再び戻る予定で、レクリエーションを求めて移動することであり、観光は公衆衛生である
山口誠さんの「観光を忘れた日本」(講談社現代新書)を読みました。
観光立県の宮崎県人としては、聞き捨てならない題名の本です。
観光立県とするために、ひたすらフェニックスを宮崎に植えまくった宮崎交通の社長の岩切章太郎さんが化けて出そうです。
山口さんは指摘しております。
1996年から20年ほど続いた「長いトンネル」の中で、日本社会が徐々に低所得化していき、海外旅行にも国内旅行にも消極的になっていった。
「したいけど、できない」のではなく、そもそも観光することに対して意義を見出せない日本人が増えていった。
特に若年層にとって「観光離れ」は新しい事態ではなく、むしろ物心がついたころから当たり前だった、という日本の現状が、ここに表れている。
もはや日本の観光は、お金がないから,時間がないから「したいけど、でいない」ものではなく、積極的に「したくない」ものになりつつある。
これが21世紀の日本社会における、観光の現在地である。
観光することの意義も価値も見出せない日本人が21世紀に増え続けている。
この先には、そのような日本社会が待っているのだろうか。
観光することの価値を認めず、むしろ積極的に観光したくない人が増えていき、観光することの想像力を持たない人びとが多数派を占めていく社会には、何が待っているだろうか。
いま必要なのは、「観光とは何か」とその根元からしっかり問い、深く理解したうえで、21世紀の日本社会に適した一手を考えることだろう。

うーむ。少子高齢化ばかり考えていましたが、宮崎県にとっては、観光についても考える必要があります。
戦前にあった鉄道省の国際観光局の官僚だった井上万寿蔵が「観光」を定義しています。
この定義は現在も引用されているとのこと。つまり、ウインスロウの公衆衛生の定義のようなものです。
観光とは人が日常生活圏を離れ、再び戻る予定で、レクリエーションを求めて移動することである。
観光には、①脱日常、②再帰、③レクリエーション、の三つの要素があると定義しています。
このうち、脱日常と再帰は漢字なので見ただけでわかりますが、レクリエーションは英語なので解説します。
レクリエーションは、自分の衰えや疲れを「回復」させるという意味と、心身を充実向上させたいという「充実」の二つの意味があります。

もともと日本人は、観光の定義をよく理解していて、心身の充実向上を求め、自己の充実を望むために積極的に観光をしました。
それをささえたのは、国民宿舎や国民休暇村をはじめとする安く泊まれる公共施設でした。
1970年代までは、そうした回復と充実の双方に役立つレクリエーションのための「国民旅行」という枠組みが存続していました。
問題はその後にありました。
リゾートのバブルが巨大に膨れ上がった1980年代から90年代にかけて観光旅行はより消費的になり、休養や滞在を主とするリゾート型の観光が支配的になります。
その結果としてレクリエーションの後半を構成していたはずの充実や活動は、時代遅れの観光のかたちとして前半の休養や回復から切り離され、そして人びとの支持を失っていきます。
観光といえば「買い・食い」中心の滞在型で消費的な旅行を意味するようになりました。
レクリエーションが持つ二つの意味などは理解されず、特に充実の機能は忘れされれてしまったようだ、と山口さんは指摘しています。
こうして観光を忘れた人びとは、レクリエーションを忘れていき、休養や回復と両輪を成すはずの充実や活動の価値も知らないまま、ひたすら日常を生き続ける人びとを意味するようになっていく。
観光を忘れた21世紀の日本人は、「旅行資金に乏しいか、または旅行になじんでいないか、あるいは教育の不足ないしは旅行事業にうとい等のために今日まで観光旅行のらち外にあった多くの人びと」と実に同じような姿をしている。

なぜ21世紀の日本社会では、観光することが忘れ去られていったのでしょうか。
山口さんは、バブル末期に乱立したリゾート開発の無残な失敗と、それに続く自然環境の破壊や自治体の破産などの負の連鎖であり、観光そのものに対する失望や嫌悪を生じさせた「リゾート破滅」が決定的だったと指摘しています。
その結果、観光は贅沢で、消費的で、金のかかる個人的な趣味と見なされるようになり、その社会的な価値や機能は忘れ去られ、長らく放置されていった。
山口さんは、旅行代理店の実店舗が姿を消していったことを指摘しています。本屋が減ったのは知っていましたが、旅行代理店については全く知りませんでした。
「いつも」の日常の中で生き続けようと欲する人びとは、そこから離脱して1週間も出かけることなど、まず考えない。
そもそも一泊二日でも、あるいは日帰りでさえ、仕事やバイトを休んで、また旅費を工面して、友人たちや家族と離れて日常を脱すること自体の必要性が、思い浮かばない。それは新たな喜びではなく、更なる不安に過ぎない。それゆえ脱日常を求めてくる観光など、積極的に「したくないこと」になっていく。

長くなりましたが、ここからが本番です。
血液はひとたび心臓から押し出され、全身の隅々まで流れていく。
そのとき末梢の血管では、細胞に必要な栄養素や③をが血液から細胞に引き渡され、細胞が不要となった老廃物や炭酸ガスを血液は受け取る。
あるいは肺に流れ込んで炭酸ガスと酸素を交換した後、再び心臓に帰ってきた血液は、次の循環に向けて再び全身へ押し出されていく。
こうした血液の循環と同じように、観光の循環は、それが流れる世界を、社会を、そして個人を代謝していき、そしてレクリエーション(再創造)し続ける。
血液としての観光が適正に活用され、その循環する機能を増進させていくことができれば、そうして観光する個人だけでなく、その社会も、そして世界も、よりよい代謝を重ねていき、そしてレクリエーション(再創造)し続けることを期待できるだろう。
つまり、観光は公衆衛生です。

フェニックスを植え、脱日常の地宮崎を作り上げた宮崎交通の創業者の岩切章太郎さんは、観光の定義を完璧に理解していました。
青島から堀切峠をとおって鵜戸神宮への道はレクリエーションでした。
台風被害による廃線から復活して創成された高千穂のアマテラス鉄道は、新しいレクリエーションです。
私もここを経験してから、心身ともに充実したと感じております。
ぜひ全国、いや全世界から、脱日常の地宮崎に来て代謝をして、明日の世界をレクリエーション(再創造)し続けてもらいたいです。
その際、「じゃっとよ」、「じゃがじゃが」、「いいっちゃが」の脱日常の地宮崎県の三つの言葉を覚えて帰って下さいね。
