1936(昭和11年)に発生した「浜一中大福餅事件」は日本の食中毒の歴史において最大級の惨事の一つであり、社会の衛生意識を大きく変える契機となった
令和3年に食品衛生法が改正されるまで、「菓子製造業」とは別に「あん類製造業」があった。
獣医師である食肉衛生検査所の所長さんから、そのようなアドバイスがありました。
餡子に注意せよ……。
そう言えば、私が大学生の頃に微生物学の講義を受けた記憶が残っておりました。
戦前の浜松市のある中学校の運動会で大福餅が配られて、それを食べた学校の生徒や家族の多くに食中毒が発生して死亡者が出た。
大福餅をつくった店にはネズミが住んでおり、その糞尿が餡子に混じって、それをこね回して細菌が大量に繁殖した状況で大福餅をつくって、それを食べた人が被害にあった。
教授は、「餡子は危ない、衛生の鬼門である」と言われました。
Geminiに聞いてみたら返事がありました!

1936(昭和11年)に発生した「浜一中大福餅事件」が非常に有名です。
日本の食中毒の歴史において、最大級の惨事の一つであり、社会の衛生意識を大きく変える契機となった事件です。
発生日:1936(昭和11)年5月10日
場所:静岡県立浜松第一中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)
原因食品:運動会の終了後に配られた「大福餅」
被害規模:罹患者2072名。死亡者44名(生徒29名、その家族15名)
事件の経過と特徴は次のとおりです。
当時、運動会の記念品として大福餅(1人6個)を配るのが恒例となっていました。
その夜から高熱、激しい腹痛、下痢を訴える者が続出し、翌日には最初の死亡者が出てしまいます。
生徒が家に持ち帰った大福を幼い兄弟や家族が食べたため、被害は家庭内にも拡大しました。
特に10歳未満の子供が多く亡くなっています。
生徒の死亡率が高かったのは、運動会による過度な疲労が影響したためとみられています。
当初は「毒殺説」や「スパイの犯行」なども疑われましたが、陸軍軍医学校や地元の医療機関などの連携による徹底的な調査の結果、原因はゲルトネル氏腸炎菌(サルモネラ属菌)による細菌性食中毒であると判明しました。
製造段階で、餡にネズミの糞尿などを介して菌が混入し、当時の5月としては異例の暑さ(最高気温24.4度C)の中で大福が放置されたことで、菌が爆発的に増殖したことが原因でした。
この事件は、当時の日本社会に「食中毒」の恐ろしさを強烈に植え付け、これ以降「大福餅事件を忘れるな」が全国の食品衛生の合い言葉となりました。
現在も、静岡県立浜松北高等学校の校庭には、亡くなった方々を悼む慰霊碑が建てられています。
うーむ。
餡は食中毒の原点だったのですね。

さらに食肉衛生検査所の所長は、「豆類に気をつけろ」とも。
豆類にはシアン化合物(青酸)が自然に含有することがあり、昔は「輸入豆で含有量が基準を超えた場合、業者に伝えるように」という通知がやたら来た。
もちろん、基準内であれば、加熱等の処理工程中で除去されるとのこと。
こ、これは、Geminiに聞いてみました。
豆類に含まれるシアン化合物は、植物が自己防衛のために持っている天然の毒素の一種です。
主にリナマリンなどの形で存在し、植物の細胞が壊れて酵素と反応するか、あるいは体内の腸内細菌の働きによって、毒性の強いシアンか水素(青酸)を発生させます。
すべての豆に危険な量のシアン化合物が含まれているわけではありません。
日本の流通において特にマークされているのは、ライマメ(リマ豆)の系統です。
バター豆、サルタニ豆、ペギア豆、ホワイト豆など。
これらは主に東南アジアや中南米などから輸入され、主に「白あん」の原料として利用されてきました。
日常的に食べられている大豆、小豆、エンドウ豆、ソラ豆、落花生などは、通常の国内流通品であれば、基本的にシアン化物の心配はありません。
日本国内では、食品衛生法によって非常に厳しい「成分規格」と「使用基準」が設けられています。
一般的な豆類:原則として不検出でなければならない。
特定の輸入豆(バター豆、ライマメ等):シアン化水素(HCN)として500ppm以下
使用基準:シアン化合物が検出される豆類は、「生あん」の原料以外に使用してはならない。(そのまま一般向けに販売して調理させることは禁止)
生あんの製造工程には、シアン化合物を完全に除去するための徹底的なプロセスが義務付けられています。
シアン化合物は、水に溶けやすく、熱で揮発しやすい、という性質があるため、以下の工程を正しく踏むことで毒性がゼロになります。
①温湯へのつけこみ
豆を40~50度Cほどのぬるま湯に4時間以上しっかり浸けます。
これにより豆自体の酵素が働き、青酸配糖体が分解されて水に溶け出します。
②煮込みと渋切り
一度煮沸させてその煮汁をすべて捨てる「渋切り(アク抜き)」を必ず1回以上行います。
その後、さらに新しい水で煮沸を継続させ、揮発性のシアン(ガス)を空気中に追い出します。
③水晒し
煮上がった豆を製あん機で破砕したあと、大量の水が入った水槽で3回以上しっかりと晒します。
残った微量のシアン化合物も、このステップで完全に水に荒い流されます。
最終的に出来上がった「生あん」の成分規格は、食品衛生法で「シアン化合物が検出されてはならない」と定められており、厳格な検査をクリアしたものだけが、私たちの口に入る仕組みになっています。
なるほど、豆のシアン化合物は、当局から思案され、徹底的にマークされていたのですね。

6月16日は和菓子の日。 始まりは平安時代の「厄除け祈願」
西暦848(承和15)年の夏、国内に疫病が流行した際、時の天皇である仁明天皇が、神託(神様のお告げ)に従って6月16日に「16」の数にちなんだ菓子や餅を神前に供え、疫病退散と健康招福を祈願しました。
そして、元号を「めでたいしるし」を意味する「嘉祥(かじょう)」へと改めたことが始まりです。
室町時代を経て、江戸時代になると「嘉祥の祝」は幕府のきわめて重要な年中行事へと発展します。
毎年6月16日、江戸城の大広間には2万個を優に超える和菓子(羊羹、きんとん、大饅頭など)がずらりと並べられ、将軍から大名・旗本へと直接振る舞われました。
これを「嘉祥頂戴(かじょうちょうだい)」と呼びます。
この文化は民間にも広がり、庶民の間では「16文で16個の菓子や餅を買い、無言で食べると病気にならない」という、現代の恵方巻きにも似た風習が生まれました。
ただ、さすがに16個は多いということで、後には「1+6=7」にかけて、7種類のお菓子(七嘉祥)を食べる簡略化された形も定着していきます。
明治以降、洋菓子の普及とともに一度は廃れてしまったこの伝統ですが、現在は「和菓子の日」として、息を吹き返しています。
餡子は公衆衛生です!
椎葉小学校の運動会の後には、餡子の入った紅白饅頭が配られておりました。
懐かしい思い出です。今もあるのかしら。
