高齢化が進み、バス路線も廃止されていく地方にとって「一人に一台」の軽自動車は「生活者の足」であり、必需品であり、地方のインフラである
スズキ自動車の社長鈴木修さんの第二弾です。
軽自動車市場は、1972年から販売台数は100万台を切ったまま推移していました。
昭和30年代から40年代にかけて一世を風靡したものの、日本の道路から消えていったオート三輪と同じ運命をたどると危惧されていました。
これを吹き飛ばし、軽自動車市場そのものを再度作って、日本に定着させたきっかけになったのっが「アルト」です。
これを商品化させたのは、社長になったばかりの鈴木修さんです。
開発中の「アルト」を見ましたが、鈴木修社長は、これまでの軽自動車と代わり映えがしないと、売れる予想はありませんでした。
工場で働く従業員の多くは、軽トラックで通勤していたのを見て、ひらめきます。
工場で働きながらも、野菜を作って市場に出荷していた従業員が多くいたのです。
軽トラは通勤にも、農作業・出荷にも利用できて使い勝手がよかった。
鈴木社長は、「アルト」を乗用ではなく、商用として、商品化することを決めました。
ユーザーの使い方から判断して、「アルト」は商用に方向付けられました。
商用には、当時あった物品税が課税されませんでいた。このため価格を下げる面で大きいものがありました。
物品税は贅沢品であり、乗用には15~30%の税がかけられましたが、商用はゼロ。
また商用は排ガス規制が緩かったので、スズキが得意とする2サイクルエンジンを搭載することができたのです。
鈴木社長は、技術陣に対して、徹底的な軽量化を命じます。軽くすれば使用する部品や素材は少なくなり、コストダウンが図られ、燃費性能も向上します。
当時、軽自動車は60万円で売られていました。
これに対し、「アルト」は、価格を全国統一の47万円と設定します。
衝動的な低価格が受けて、「アルト」は大ヒットしました。
当初「月5千台売れれば」と目標を立てましたが、発売1か月の注文が8400台、2か月目は1万台となりました。
アルトの登場で、軽自動車をセカンドカーとする新たなニーズが創出されました。
特に地方では、自動車は「一家に一台」から「一人に一台」へと移行しました。
高齢化が進み、バス路線も廃止されていく地方にとって「一人に一台」の軽自動車は、「生活者の足」と化していきました。
つまり軽自動車は必需品であり、地方のインフラです。

鈴木社長は「アルト」を販売員の社長たちに発表する会の前に、必死に説明の準備をしておりました。
「アルト」はイタリア語で、「才能などに秀でた」という意味です。
なんかピンと来ない。イタリア語の単語を教えても、販売員の社長たちの心を動かせるとは思えない……。
悩んでいるときに、突然の来訪者が登場しました。
来客は、夫の愚痴をこぼすご婦人でした。
「主人は、あるときは、こんなことを、また、あるときは、あんなこともやらかして……」と言いました。
鈴木社長は、ひらめきます。
「奥さん、いまなんと仰いました?」
「ですから、あるときは……」
こ、これはイタリア語よりわかりやすい!
発表会では、「あるときは、レジャーに、あるときは通勤に、またあるときは買い物に使える。あると便利なクルマ。それがアルトです」と話したところ、ばかうけでした。
アルトの登場で、軽自動車市場は、100万台を回復しました。
以後、100万台を割り込むことありません。
2024年は156万台です。
鈴木修氏は、まさに、「軽自動車をつくった男」となったのです。

私の従姉妹が、大学を卒業して養護教諭として採用され、椎葉村の松尾小中学校に勤務することになりました。
実家の上椎葉から松尾まで通勤するために、自動車を購入することになりました。
従姉妹の父(私にとっては叔父)が車を何にするか考えていたら、職場の同僚からアドバイスがありました。
「アルトとがいいよ」
叔父さんは、ムッとして言い返しました。
「そらーあるとがええわ。ねえーとは買えんから(それは当然、在る車の方がいい。無い車は買えない)」
ことときのアルト論争は、40年後の今でも親戚中の笑い話となっております。
叔父さんは亡くなりましたが、アルトを見ると想い出します。
