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やなせたかしは「那須良輔さんにはもっと長生きしてほしかった。もっともっと怒ってほしかった」と言った

昨年、熊本県湯前町にある湯前まんが美術館(那須良輔記念館)に行きました。

平成4年(1992)年に、湯前町出身の政治風刺漫画家の那須良輔の功績を保存・展示する施設として、また町活性化の核となる施設として開設されました。

建物は大変ユニークで、「市房山に集う川魚の群れ」をモチーフにして、人吉・球磨地方に伝わる郷土玩具「きじ馬」に似た独特な外観をしています。

漫画が好きなので、漫画の博物館が椎葉村の隣村にあると聴いて、行ってみましたが、驚きの事実が判明いたしましたのでご紹介します。

那須良輔のことは、知っている人はほとんどいないと思います。

大正2(1913)年に熊本県湯前村(のちの湯前町)に生まれ、平成元年(1989)年2月22日に亡くなっています。

農家の長男でしたが、子どもの頃から絵を書くことが好きで、親戚中の反対を押し切って上京し、美術学校に入学し、漫画家となり毎日新聞の政治風刺漫画を連載した人です。

昔は、漫画家はストーリー漫画ではなく、政治風刺漫画という時代がありました。

国民が新聞で一番読んでいたのは、社説ではなく政治風刺漫画だったのです。

漫画家は新聞社と契約を結んでおり、風刺漫画を新聞に掲載していました。

朝日新聞は清水崑、毎日新聞は横山隆一、読売新聞は近藤日出造というキャスティングです。

清水崑は、政治漫画以外で、カッパ天国が有名です。

横山隆一は、フクちゃんが有名です。角帽をかぶったフクちゃんの絵は、早稲田大学の野球部の応援に使われます。

近藤日出造は、手塚治虫が「似顔絵の名手」と評価した政治漫画家です。

この3人は、昭和26年のサンフランシスコ講和条約を取材する報道陣の一員として渡米しています。

つまり、漫画家がジャーナリズムのフロントランナーだったのです。

漫画家の里中満智子さんは、このように解説をしております。

新聞紙面上の政治風刺漫画は、一般読者つまり国民にとって「政治活動の姿勢を問う重要なメッセージ」であり、風刺漫画家はまさに「物言う国民の代表」として国を動かすパワーを生み出していました。

人気漫画家は大臣に匹敵するほどの存在だったのです。

その代表者の一人に那須良輔先生がいらしたのです。那須先生の人生はまさに日本の文化の歴史そのものです。

湯前まんが美術館には、このような那須良輔の作品が多く展示されています。

戦後日本を実をコミカルに時に生々しく描いた作品からは、当時の時代背景と那須良輔の思いや人柄が伝わってきます。

那須良輔は鎌倉に住んで、さまざまな文化人とふれあっています。

評論家の小林秀雄、小説家の大佛次郎、里見弴などがいます。

アンパンマンのやなせたかしさんとも交流がありました。

正義にほとばしる熱血でこの世の正義について声高く主張する人は那須さんが最後の人だったかもしれない。
(中略)
那須良輔さんにはもっと長生きしてほしかった。もっともっと怒ってほしかった」

とやなせさんは追悼文に書いています。

那須良輔の父は椎葉村の出身です。湯前村の農家の養子となりました。

父の妹の「まさ乃」は、良輔が幼い頃から絵の才能を認めていました。美人のまさ乃をモデルに絵を描きました。

百姓家をつがずに東京の美術学校に行くと言った良輔に驚いて、「うちが育てた子牛をあげるから残って」と必死で止めました。

2年後にまた絵描きになる夢を実現しようとした19歳の良輔を、まさ乃はもう反対はしませんでした。

良輔は、まさ乃の椎葉村の実家に行ったことがあると書いています。

叔母は色白で彫りが深く、髪は天然ウェーブがかかって一寸エキゾチックな美人でいつもモナ・リザのように柔和な微笑みを含んでいた。

私は子供心にこの美人の叔母が大好きだった。

叔母の住んでいた美しい村も、いまはダムの底に沈んでいる。

だが私の胸の中の叔母の微笑みはいつまでも消えないだろう。

こうした文章を読むと、叔母の住んでいた椎葉村は特別な場所だったのかもしれません。

恥ずかしながら、椎葉村出身の私は、那須良輔という漫画家を知りませんでした。恐縮です。

湯前まんが美術館の作品群に触れたとき、その時代に流れる「風」が自然に浮かび上がってくるような感じを受けました。

中島みゆきさんの「時代」のように、あんな時代もあったと口にする時間だけが過ぎていきました。

実は、那須良輔の命日は2月22日で、私の誕生日は2月22日なのです。

もしかして、生まれ変わり? 

すいません。妄想でした。


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