前時代の歴史を、まっこうから断罪し一語で片づけることはだれにでも出来る
初代内務省衛生局長の長与専斎の自伝「松香私志」を読んでみました。
とんとん拍子に出世したのかと思っていましたが、波乱万丈の人生をおくっています。
大村藩の藩医をしていたときに、長崎に行って学びたいと言いましたが、藩から許可がおりませんでした。
ちょうどそのとき、藩主が狩りに行って誤って散弾銃で自分の身体を撃ってしまいました。
そのときの治療がまずく化膿してきます。
そこで長与が呼び出され、長崎のボードウィンに治療法を聞いて治療したところ治癒しました。
これにより藩命により長崎で学ぶことができました。
長崎では、医学と英語を学んでいます。
ここで、井上馨や伊藤博文、木戸孝允などのちの明治政府の要人と知り合ったことが後の人生に大きく影響します。
幕府が倒れて、長崎の療養所の管理者がいなくなりました。
このとき長与は請われて学校長に就任しました。
オランダ人医師のマンスフェルトと組んで、医学教育改革に着手します。
薬剤師のゲールツを呼びました。
名前も長崎医学校に変えています。
ここでの手腕が東京に聞こえて、文部省の大輔(次官)だった江藤新平から呼ばれました。
東京医学校の改革を託されました。
しかし、東京は、先輩や秀才たちがひしめき合う世界で、しばらく茫然として迷っていました。

そんなときに岩倉使節団が欧米視察に行くという話を聞きました。
なんとかして自分も加えてもらいたいと井上、伊藤、木戸のところを回りました。
文部卿や理事官の田中不二麿の了解も得て、使節団に加わることができました。
医師であることが幸いし、医学教育を調査する役目を与えられました。
ドイツとオランダを中心に調査し、健康保護という事業があることを知りました。
欧州を視察して、経験のある医学教育については目途が付きましたが、健康保護は日本になく、まったく見当もつかないものだったのです。
これ以降は、健康保護の調査を主に行います。
こうして帰国した長与は、「衛生」という言葉をつくって、衛生行政のパイオニアとなっていきました。
これにより、他の医学の秀才たちとの違いを明確にしたのです。
最初の法典である「医制」を公布し、その後に就いた内務省衛生局長のポストに18年も勤務しました。
その間の内務卿は、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、松方正義、山田義明、山縣有朋。
総理大臣クラスです、
局長として、よくぞこれらの大物大臣とうまくやれたものだと思います。
在任中に一番苦労したのは、医師資格の扱いでした。
これまでに開業していた漢方医はそのまま継続させ、新規に医師になる者には試験を課して合格しない場合は開業を認めませんでした。
試験の内容は、西洋医学です。
このステルス性の医師制度の変革に、漢方医たちは気が付きませんでした。
後に、自分の子どもが開業医を継ぐためには西洋医学を学ばなければならず、試験に合格しなければならないことに気が付いたのです。
漢方医たちはさまざまな政治力を使って、局長に圧力をかけましたが、長与は怯みませんでした。
歴代の内務大臣は、みな西洋を見てきていた人です。
戊辰戦争では、漢方医が全く役に立たなかったことを知っていました。
そのため長与局長の医療政策を支持し、政治でぶれることはありませんでした。

長与専斎の人生にはドラマがあります。
一番人気の後藤新平を内務省にスカウトしたのは長与です。
北里柴三郎をドイツに留学させ、帰国後に北里が勤務できるような研究所を作ろうと福沢諭吉に相談したのは、長与です。
子孫には、東大総長や作家が出ています。
戦後に法務大臣になった犬養健や、作家の犬養道子もその子孫に連なります。
宮崎観光ホテルでたまゆらを書いた川端康成についてきたNHKディレクターは長与の直系で、無名の安倍公房を見出だしています。
安倍公房も医師であることが面白いです。
長与の息子は、ドイツに留学して、後藤象二郎の娘と結婚しました。
バカラのカップが好きでした。
産業医大の先輩の保健医療科学院の曽根院長から、厚労省を退職して宮崎に帰るときに、バカラのカップをプレゼントされました。
これも、公衆衛生の縁でしょうか。

犬養道子さんの「ある歴史の娘」(中公文庫)を読みました。
軽快なお嬢様チックな文章が面白いです。
しかし、次の文章を読んでドキリとしました。
哲学者スピノザはこう言った。
前時代の歴史を、まっこうから断罪し一語で片づけることはだれにでも出来る。
しかし、歴史を内から理解すると言う複雑公正な作業は、真の歴史学究によってのみ可能である……
ハベレオ通信で、公衆衛生の歴史をまっこうから断罪し一語で片づけようとしていた自分に対する忠告だと気がつきました。
犬養道子さんが家族と一緒に長崎に行ったことが書かれていました。
長与という駅を通りすぎた。
母方の5代前の先祖に長与俊達という医師がいた。
図抜けて科学的な頭と才とに恵まれ、伝家の医術に進んだ。
三十歳にもならぬうちに大村藩一の名医となって藩主お抱えの医師となった。
門山には診察を乞う人の垣が出来、名声も富も安定もすでに確固なものとなっていた。
しかし、四十になり、漢方医学に疑問を抱き、長崎に行き解体新書を手に入れた。
人体を知らずして医は行えぬと蘭医学に転じた。
藩医の名誉と職を奪われ、禄を失い、社会的地位を棄て、患者一般から見はなされ、村八分者となり下ることを意味した。
手のひらを反すように世の迫害を受け、たちまち貧乏になった。
家財を売って蘭語辞書を長崎から買った。
40歳の半ば近く、オランダ語のABCから学び始めた。
牛痘種痘の法を知り、痘苗が長崎に着いたという連絡があったときに、九歳の孫を実験台としてその日の内に長崎に送り込んだ。
俊達の弟子に仲庵という若い医師がいた。
俊達の娘の夫で、ズーフの和蘭辞典の訳をやってのけた。
この大事業のために体力精力を使い果たして若死にした。
俊達は、仲庵の遺児である12歳の専斉を後取りとして、丸5年間、知る限りの全てをこの少年に伝え、注ぎ、教え込んだ。
後に、この少年によって、国民保健・衛生、厚生、伝染病予防、がん研究等々をめぐる一切の法と施設の一大基礎がつくられるとは、さすがに思い及ばなかったであろう。
長与専斉、恐るべし。
その祖父もまた凄い。
祖父を支えた妻も、その夫の仲庵も。
日本の明治以降の公衆衛生の歴史を、一言で断罪してはなるまいと思いました。
祖父から医学の知識を伝達される専斉は、まるで釣りキチ三平のように思えました。
長与専斉は、これから「公衆衛生の釣りキチ三平」と命名することにします。
また、バカラのカップを「公衆衛生の杯」とします。
公衆衛生の酒は、ジンですよ。覚えてますか?
