椎葉村出身の私は、時空を越えて柳田国男とつながっていることを感じた
盆休みには椎葉村に帰省しておりました。
お墓参りしたり、帰省した親戚の一家と花火やバーベキューをして大変楽しい時間を過ごしました。
宮崎日日新聞に、椎葉村の民俗芸能博物館で柳田国男企画展が行われているという記事があったので、尋ねてみました。

タイトルは、「柳田國男と椎葉村 はじまりの地から、民俗学を編みなおす」です。
柳田国男は、民俗学の創始者として知られています。
そのきっかけは、柳田国男が政府の官僚(法制局参事官)だったときに、九州出張をしたときに椎葉村を訪問したことです。
椎葉村の中瀬淳村長との出会いから始まりました。
1908(明治41)年7月13日から19日までの1週間、中瀬村長は柳田国男の椎葉村滞在中にずっと付き添いました。
もともと柳田国男の出張は、四国九州の農村生活の視察が目的でした。内務省から旅費が出ています。
福岡から熊本、鹿児島、宮崎県に入って、飫肥(日南)や富高(日向)を経て、椎葉村に入りました。
当初のプランには、椎葉村は入っていなかったそうです。
九州各地で、椎葉の焼き畑や山茶の文化のことを聞いたことで、椎葉に興味を覚えたようです。
柳田国男は、美郷町から松尾地区に抜ける笹の峠のルートで椎葉村に入りました。
中瀬村長は、笹の峠で柳田国男を出迎えました。
中瀬村長は、柳田国男の印象について、「紋付き袴に白足袋の貴公子のような立派な姿であった」と振り返っています。
中瀬村長は、当時43歳。柳田国男より10歳も年長でした。
椎葉村の大河内の庄屋で見た狩猟の儀式を記した巻物がとりわけ印象に残ったようです。
東京に帰宅した後に、中瀬村長に手紙を書いて、あの巻物を書き写して送って欲しいと頼みました。

柳田国男は、その著書「故郷七十年」に次のように述懐しています。
東京の人間で椎葉村に入ったのは、私が最初のようにいわれたが、ともかくいたる所で大変な歓迎を受けた。
その時の土産が、後に珍本になった「後狩詞記」である。
今日ではこれが日本の民俗学の出発点のようにいわれているが、この本はその時の旅費がわずかばかりあまったので自費出版したものであった。たしか五十部ぐらいしか刷らなかったと思う。

中瀬村長は、笹の峠から松尾までの椎葉村内の道の草刈りをさせて、羽織袴姿で柳田国男を出迎えています。
中瀬村長によるこうした歓待や村内各地区でのもてなし、そしてその後の丁寧な手紙のやりとりがなければ、柳田国男が椎葉村より知見を得て、椎葉村の民族文化を繰り返し振り返ることはなかったでしょう。
著書の中で、椎葉のことを度々述べています。
実は、柳田国男が椎葉村で過ごした日程は長い間不明でした。
1991年になって、熊本商科大学の牛島盛光教授が、群馬県にある田山花袋記念館で、柳田国男が花袋へ宛てた絵はがきを発見しました。
田山花袋は小説家で、「布団」が有名です。
尾崎紅葉のもとで修行して、柳田国男や国木田独歩と親しくつきあっていました。
柳田国男が、愛媛県の松山から、花袋へ投函したものでした。消印は7月31日。
葉書の表裏一面に、福岡から松山までの行程と宿泊した場所が記されていました。
当初、柳田国男は5日間ほど、中瀬淳村長の家に滞在したと考えられていましたが、実際には6泊7日の行程で、村内各地に宿泊しながら、縦断していたことが明らかになりました。
中瀬村長はそのすべての行程に連れ添って柳田を案内していたのです。
中瀬村長が柳田国男に送ったものは、「小猟師式流狩巻」、「椎葉山由来記」、「椎葉山根源記」、「西臼杵郡椎葉村明治四十一年度歳入出預算議案」などの書き写しです。
後狩詞記に記されたのは、小猟師式流狩巻です。
柳田国男から中瀬村長に送られた手紙には、東京の住所が記されています。
手紙ごとに住所が違っています。
その中にギクリとするものがありました。
「東京内幸町二ノ一」とありました。

東京都中央区霞が関にある厚生労働省とは近接しており、飯野ビルがある場所です。
音楽会などが開催されるイイノホールがあります。
くらもちふさこさんの漫画「ポケットにいつもショパン」で麻子がここでピアノを弾くシーンが出てきます。
私は、厚生労働省に勤務していたときに、飯野ビルの地下街にある「よかろう」のだんだんめんと無料のご飯が好きで、お昼にはよく行っていました。
その後に、近くの大型書店にいくことがルーティンでした。
椎葉村の小崎にある中瀬淳村長の生家は、当時のままで残っています。
庭には「日本民俗学発祥の地」の碑があります。

私の小中学校の同級生に中瀬淳村長の子孫がおり、中瀬村長の顔写真とうりふたつだということに気がつきました。
時空を越えて柳田国男とはつながっていることを感じました。
