日本初の女医荻野吟子は、1000年以上も前の古文書の記述で、女は医師になれないという石頭内務省を論破した
私が関東信越厚生局に勤めていたときに、埼玉県の民政委員・児童委員協議会の会長さんが、やってきて、渋沢栄一のパンフレットをいただきました。
1万円札の顔で、経済人として超有名です。
このパンフレットは、渋沢栄一の社会福祉における足跡をまとめたものでした。
年表と解説がセットになっていて大変判りやすいものでした。
残念ながら、東京から宮崎に引っ越すときに、処分してしまったので手元にはありませんが、覚えております。
最後のページに、埼玉県出身の二人の偉人である盲人の国学者「塙保己一」と、日本初の女医「荻野吟子」が紹介されていました。
渋沢栄一は、江戸時代に塙保己一が編纂した膨大な本の版木を残すことに尽力をしております。
荻野吟子は、この塙保己一が残した本により、日本初の女医となる道を開くことができた、とありました。
三人は、密接に関係していたのです。

塙保己一が、弟子を集めて講義をしていたときに、灯りが消えてしまいました。
目の見えない塙保己一は、そのことが判らないので、そのまま講義を続けました。
弟子たちが、「先生、灯りが消えて、暗くて本が読めません」と訴えました。
塙保己一は、それを聞いて、このように答えました。
「目が見える者は、不便じゃな」
このエピソードは、椎葉中学校の社会科の先生から習いました。

荻野吟子は、明治時代に医師になるために国家試験を受けようとしました。
ところが内務省は、女医の前例がないという理由で、受験を認めませんでした。
荻野吟子は、昔習った「令義解」に「女医博士」という記載があったことを思い出しました。
令義解は、古代の法令である養老律令の解説書で、833年に成立した本です。
散逸した部分もあったのですが、塙保己一が他の書に引用された部分から復元して、出版していたのです。
荻野吟子は、陸軍の軍医制度を創設した石黒軍医総監に相談しました。
郷土の先人である塙保己一が編纂した令義解に、女医博士という官職があることを知らせました。
石黒は、内務省衛生局長の長与専斎に、この前例があることを伝えました。
1000年以上も前の古文書の記述で、立ちはだかる内務省のへ理屈を論破しました。
埼玉スピリットも凄い。
もし荻野吟子が、埼玉に生まれていなければ、令義解のことは知らなかったでしょう。
日本初の女医として歴史に残ることはなかったかも知れません。
さすが埼玉県!
「ださいたま」ではありません。
そう言えば、さいたまんぞうさんの「なぜか埼玉」は名曲でした。

渡辺淳一の小説「花埋み」は、荻野吟子の生涯を描いております。
医師の渡辺淳一は、北海道の医師会報を見て、荻野吟子のことを知って小説を書いたと言っています。
私が高校1年生のときに、クラスルームの時間に、3年生の先輩が医学部を受験するので、面接の練習のために教室にきて、「なぜ私が医師を目指すのか」という話しをして我々が質問をし、それに先輩が答えるということをやったことがありました。
先輩は、冒頭に渡辺淳一の「花埋み」を読んで医師を目指した、と言いました。
この先輩は、現在、保健所長をされていることが判明しました。
きっかけは、延岡市の薬剤師会の会長さんです。
会長さんと一緒に食事をしたときに、
お姉さんが私の高校の先輩で、3年のときに1年生の教室で医学部を受けるための面接の練習をしたことがあると言ったのです。
私は驚いて、お姉さんに渡辺淳一の「花埋み」の話をされたかどうか確認して下さい、と頼みました。
会長さんから返事がありました。
お姉さんは、最初は忘れていましたが、思い出して「なんでそんな細かいことを覚えているの!」
と驚いたとのこと。
実は、そのとき私はクラス委員をしており、
司会をしていました。
まさか、行方が判るとは。
しかも公衆衛生医師になっているとは……。
世の中は狭いです。
