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大分で生まれた二人が、全く違う運命をたどって最後にミズーリ号で降伏文書の調印をする役となり、まさかの戦犯指名を受けた

宮崎市のみやざきアートセンターで開催された「マッカーサーと現代日本の夜明け」に行ってきました。

マッカーサーの貴重な資料や写真が、たくさん展示されており、大変勉強になりました。

昭和20年9月2日の東京湾上で行われた降伏文書の調印式がひとつのハイライトでした。

日本代表として署名するのは、政府代表の重光葵外務大臣、軍代表の梅津美治郎陸軍参謀総長です。

重光外相と梅津参謀総長は大分県出身です。

重光外相は杵築市、梅津参謀総長は中津市出身。

先の戦争を終わらせたのは大分県人だということは、もしかすると大分の人もあまりしらないかも。

戦争に負けて降伏文書に調印するする人に選ばれて、喜ぶ人は1人もいないでしょう。

歴史に永遠に名前が残ります。

重光外相は、降伏文書に署名することがきまって歌を詠んでいます。

願わくは 御国の末の 栄え行き
我が名さげずむ 人の多きを


たとえ自分がさげずまれても、日本の将来の繁栄を願っていることをうたっています。

重光外相は、中華公使のときに、上海で爆弾テロにあって右足を失って義足でした。

一方の、梅津参謀総長は何も残しておりません。

昭和の陸軍幹部には珍しく一匹狼で、何の派閥にも属しませんでした。

満州にいた関東軍は絶えず日本政府や陸軍中央部の方針に逆らって事件を起こしましたが、梅津が関東軍司令官だった時代は、まったく静謐を保ちました。

重光外相は、関東軍の暴発を押さえている梅津の手腕を評価しています。

東條英機首相兼陸軍大臣兼参謀総長がサイパン島陥落後に辞任して、後任の参謀総長となりました。

ポツダム宣言受諾の御聖断が下った後に、アジア各地にいる陸軍部隊に反乱が全く生じなかったのは、梅津参謀総長が陸軍を押さえていたからです。

梅津は、226事件、ソ連軍と関東軍が衝突したノモンハン事件、終戦の3回の重要な局面で冷静な判断を下しており、その点で評価されています。

なぜ、このような将軍が陸軍大臣になれなかったのか不思議です。

最後の最重要場面に間に合ったという感じでしょうか。

重光も梅津も、極東軍事裁判ではソ連政府の主張でA級戦犯とされています。

重光は禁固7年、梅津は終身禁固の判決が下りました。

梅津は服役中に獄死しています。

何も語らず、記録も残しておりません。

服役後、重光は政治家となり、鳩山内閣で副総理兼外務大臣としてソ連との国交回復を実現させました。

それまではソ連の拒否権行使により日本の国際連盟への加盟は承認されませんでしたが、国際連盟への復帰も実現しました。

翌年の昭和32年1月に重光は亡くなりました。

69歳でした。

記録はたくさん残しております。

神奈川県の湯河原に、重光葵記念館があり、行ったことがあります。

湯河原町の重光葵記念館

大分県杵築市に重光家の武家屋敷があるとのこと。いつか行ってみたいと思います。

一方の梅津参謀総長は、うーむ。

クリスチャンで、若くして妻を亡くしましたが、再婚せずに独身を貫きました。

相当な美男子で、若いときは女性にもてたそうです。

いつかドラマ化されるかもしれません。

そのときに備えて、外務省の重光葵と陸軍の梅津美治郎の二人の小説を書こうかしら。

大分で生まれた二人が、全く違う運命とたどり、最後にミズーリ号で降伏文書の調印をする役となった。

平和を願った二人だったがまさかの戦犯に指名され、獄中で語り合うことから始まる物語。

フィクションとしてはいいかも。

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