なかにし礼さんと阿久悠さんという二人の大作詞家に曲を提供した作曲家がいる
昔、武田鉄矢さんのBSの番組「そのとき昭和は輝いていた」を見たことがあります。
作曲家の浜圭介さんが登場しました。
恐縮です。全く知りませんでした。
なかにし礼さんと阿久悠さんという二人の大作詞家に曲を提供した作曲家だということを知りました。
昭和21年に満州の捕虜収容所に生まれました。
たまたま日本軍と遭遇しなければ、母のお腹の中にいたのでこの世に生まれていなかったとそうです。
ドラマ性がありました。
その後、青森の大鰐で育ちます。
父の故郷の札幌に移りましたが、津軽弁が恥ずかしくて、いつも一人でした。
高校時代から、ダンスホールで歌ったそうです。
プレスリーやポール・アンカにあこがれ、ロックンロールやジャズを聴いていました。
テレビ番組で優勝して、歌手としてデビューしましたが、全く売れません。
生放送をドタキャンして、東京から逃げ出しました。
青森まで来ましたが、津軽海峡を渡ることができませんでした。
弘前の友人の家に居候し、居酒屋である女性に会いました。
50歳代の方で、これまでの人生を聞かされました。
女性は、「なんて馬鹿なことをやってきたのか」としみじみに語りました。
このときにできた歌が「おんな道」です。
それまでは、演歌というものは、カッコ悪くて大嫌いでした。
武田鉄矢さんが、おんな道の詩を見て「日本版の朝日の当たる家ですね」と言いましたが、絶妙なコメントをされたと思いました。

青春に感謝しました。
青森を歌った代表的な歌に「望郷じょんから」があります。
サビは「故郷夢ん中」
この「おんな道」を引っ提げて、東京に帰りました。
歌うことよりも、曲を作りたかった。
東京で出会った恩人から米国旅行に誘われて、ニューヨークの摩天楼を見てつくった歌が「終着駅」です。
昭和46年、奥村チヨさんが歌って、大ヒットしました。
紅白歌合戦にも出ました。
「天から降りて来た歌」だそうです。
その後、奥村チヨさんと結婚します。
格差婚でした。

森昌子さんに「哀しみ本線日本海」を提供し、演歌歌手として不動のものにした。
それまでは、「せんせい」と「おかあさん」で伸び悩んでいた。
また16年間ヒット曲のなかった高山厳さんに「心凍らせて」で大ヒットを飛ばしています。
どちらも作詞家は新木とよひささんです。
芹洋子さんの「四季の歌」の作詞をしていた方です。
この詩の世界観が面白いと思って組んだそうです。
昭和の歌謡曲は、作詞家と作曲家と歌手の組み合わせで、さまざまな人生模様を歌っています。
今は、シンガーソングライターで、一人でやることが多いですが、ヒットメーカーの秋元康さんは、昭和スタイルを貫いています。
超時代おくれで、かえって凄いです。

筒美京平さんの新書をみました。
ライバルだと思ったのは、吉田拓郎さんだったそうです。
「ああゆう曲は自分にはつくれない」と言いいました。
また、郷ひろみさんや稲垣潤一さん、CCBさんなどの変わった声の歌手を好んだとのこと。恐縮です。
沢田研二さんや山口百恵さんのような大物歌手からの依頼は断り、岩崎宏美さんや太田裕美さんなど芸能界に染まっていない「真面目系な新人」に曲を提供しました。
表には出ず、亡くなったことさえ明らかにしませんでした。
庭での花づくりが趣味で、服はエルメス。
家近くにあったホテルオークラが好きで、銀座のクラブは全く行きませんでした。
NHKで、作曲家の筒美京平の特集をやっていました。
知らない曲がありません。
最盛期は、年間300曲を作っていました。
その中で、堺正章の「さらば恋人」は、肩のこらない日本人好みの曲となっており、京平先生も自信作だったそうだ。
作詞は、医師の北山修さん。

尾崎紀世彦さん「まあ会う日まで」
太田裕美さん「木綿のハンカチーフ」
中原理恵さん「東京ララバイ」
ジュディオングさん「魅せられて」
凄すぎます。
筒美京平さんは、アーチストファーストの作曲家・編曲家でした。
一番いいところを引き出し、最大限にアーチストの思いを叶え、無理をさせない。
そして、その時代の香りを忍ばせる。
5年もアーチストを持たせたら「もう大丈夫だ」と言われたそうです。
作家と同じかしら。
主人公の最大限の魅力を引き出すことができれば、そして5年間なんとか作家として生きていければ……。
目標が決まったような気がする。
筒美京平先生を目標に、主人公をアーチストファーストで小説を書くのだ。
ハベレオ通信で、毎回言っている気がするのは、気のせい?
