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日向市細島にある観音寺は、明治4年1月4日に岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、山県有朋、西郷従道が会談をした場所である

日向市の細島に行きました。

日向市の指定有形文化財となっている旧高鍋屋旅館を見学しました。

名前のとおり、高鍋藩とのつながりが深い旅館です。

高鍋藩が参勤交代の際に、休息するための座敷がありました。

木造三階建ての建築で、歴史を感じることができました。

高鍋藩主だった秋月種樹の書やら絵がたくさんありました。

秋月種樹は、明治天皇の教育係もしている教養人です。

テレビ東京で放映している「お宝探偵団」に出したらどれくらいの値がつくのかと、想像したりしました。

野口雨情という童謡作家が昭和17年に宿泊しています。

そのときの歌です。

港細島 錨はいらぬ 厚い人情が 船つなぐ


ぐっとくる歌です。

また種樹の書もいいです。

翻銀

窓の外は海で、はねた魚が銀色に光ったのを書いたのか、将棋で銀が成金となること書いたのか。
両方かもしれません。

西南戦争の可愛岳の戦いで戦死した迫田鐵五郎少佐の絵やピストルもありした。

歩兵第一連隊第三大隊の大隊長でした。

ピストルは坂本龍馬も持っていたアメリカ製のものです。

政府軍に包囲された西郷軍は、政府軍の本営のある可愛岳を夜襲しました。

不意を突かれて迫田大隊長はただちに応戦しますが、西郷軍の放った銃弾が頭蓋骨を直撃しました。

迫田大隊長の実家は加治屋町にあり、西郷とは親しい仲でした。

近所で育った両者が、敵味方に分かれて戦ったのは、本当につらいことだったと思います。

近くに、観音寺という寺があります。

ここにも立ち寄りました。

昔、私の祖母の実家に東京から逃げてきた士族がいて、学校の先生をしていました。

明治22年10月に48歳で亡くなり、椎葉に埋葬しました。

ところが、12月に東京から人夫が来て、墓を掘り起こしました。

遺骸を椎葉から細島港まで運んで、船で東京に持っていこうとしましたが、規則で遺骸を船に乗せることはできません。

そのため、近くの観音寺の墓地に埋葬しました。

墓石は自然石で、山口県士族と名前が彫られている。

裏面には、その由来が漢文で刻まれている。

父からそういう話を聞いて、本当かどうか確認してみようと思ったのです。

観音寺は明治4年の正月4日、西郷隆盛を明治政府に迎えるために鹿児島に来た岩倉具視、大久保利通、山県有朋、西郷従道が、東京へ帰る途中に西郷隆盛と会談をした場所です。

一行は、翌5日に、細島港から軍艦で出港しました。

父が言った墓は、実在しました。

回りの墓は、ほぼ全部が四角の墓石で、自然石を使ったものはありませんでした。

墓地は広くて、いろいろ探しました。

木漏れ日に照らされて光っている尖った墓石があり、椎葉という字が見えたので、「これだ!」と判りました。

光る墓石

とにかく蚊が多くて、かなり刺されました。
虫除けスプレーは必須です。

明治維新の頃は、26歳の長州藩士の青年で、バリバリだったはずです。

椎葉に逃げてきたのは、明治11年頃で、西南戦争の翌年のことです。

33歳の頃に何があったのか?

そういう歴史も調べてみたいと思います。

椎葉村の文字が見えます

椎葉には、明治9年の神風連の乱の熊本県士族が逃げてきています。

3人の隊士が逃げてきましたが、かくまえるのは1人だけだと村人は言ったそうです。

椎葉を出た2人は、熊本県の市房神社の境内で捕縛されています。

椎葉に残った一人は、学校の先生となり後に校長になっています。椎葉村史にも名前があります。

もしかして、椎葉村は、国家警察の権力が及ばない治外法権だったのかしら。

いや、椎葉に住むことは懲役刑と同じだったのかも?

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