日本軍対アメリカ軍の戦いは、「孟宗竹」対「ライフジャケット」の戦いでもあった
1943年2月末に、ニューギニアへの増援のためラバウルを出航した日本軍の輸送船団8隻は、米軍の攻撃を受け、全て沈没しました。
護衛の駆逐艦4隻も沈められて、「ダンピール海峡の悲劇」と呼ばれています。
これにより約3000人が戦死し、搭載していた重火器や機材など全てを喪失しました。
日本軍の兵士には、救命胴衣や浮き袋が全員に行き渡っていませんでした。
ゴム製の救命具も調達は不可能な状態となっていました。
このため、竹を救命具の代用品としたのです。

秘密兵器の竹は、直径9cm以上、180cmに切って、1人2本ずつ持たせることにしました。
孟宗竹が一個師団に3万本~4万本必要とされました。
これは軍事機密とされて、宇都宮第14師団が、竹を調達したときは、北関東から福島県までの竹藪が無くなったと言われています。
対照的に、米海軍では、戦闘中の兵士全員がライフジャケットを着用することが義務付けられていました。
ライフジャケットは、首の周りと胸を背中に浮力材が取り付けられたもので、たとえ海上で気を失っても頭が水面上に出るようになっていました。
悪天候で波が高くても、頭が水面から出るので、呼吸が楽にできました。
ライフジャケットは、ベストのように上半身を包み込む形になっており、海水につかっていても体温低下を防ぐ機能もありました。
米軍は、ライフジャケットを徹底的に研究して、兵士の命を護ろうとしました。
日本軍対アメリカ軍の戦いは、「孟宗竹」 対 「ライフジャケット」の戦いでもあったのです。
竹がライフジャケットの替わりになるとは驚きです。
人命重視の米海軍と人命軽視の日本陸軍の差が顕著に現れています。

西南戦争で、可愛岳の戦いで西郷隆盛は政府軍5万人の囲いを突破して、鹿児島に向かいました。
高千穂から飯干峠を越えて椎葉村の隣にある諸塚村の恵後の崎にたどり着きました。
耳川の流れが西郷たちの行く手を阻みましたが、近くにあった孟宗竹を伐採して筏をつくって、あっという間に川向かいに行くことができました。
昔の軍人たちは、孟宗竹の浮力を知っていたのでしょう。
一方、アメリカ海軍と日本海軍の人命の考え方の違いは、こちらの記事にも現れています。
