二代将軍徳川秀忠に隠し子がいることに気付いたお江の探索から、母子を守り抜いたのは武田信玄の娘である
国民皆保険・皆年金を実現させたときの厚生大臣は、坂田道太大臣です。
坂田元厚生大臣は、昭和47年に会津若松市を訪問しました。
そのときに、江戸時代の会津藩に老人福祉・社会福祉事業の実践があることを知って、驚きました。
初代藩主の保科正之が、領内で90歳以上の高齢に達した者には、身分男女を問わず生涯一人扶持を与えていたのです。
「一人扶持」とは、1日5合の米を一年間支給するということです。
明治の陸軍では、兵士1人に一日6合の米が支給されましたが、過酷な軍事訓練に従事する若い男性と比べても相当な量を亡くなるまで支給するということにびっくりです。
現金ではありませんが、現物ならぬ現米支給による終身老齢年金制でした。
国民年金制度創設時の厚生大臣だった坂田議員が驚いたのも無理はありません。
支給開始が90歳で、当初の対象者は150人ほどだったとのこと。
対象者の住む家の人は、涙を流して喜びました。
長寿者は、大事にされたでしょう。

保科正之の父は、2代将軍の徳川秀忠です。
秀忠の妻は、有名なお江の方で、NHK大河ドラマにもなりました。
織田信長の妹のお市の方の娘です。姉は豊臣秀吉の側室となった淀君。
織田信長の血をひく、華麗でゴージャスな、6歳も年上のお江に、秀忠は頭が上がりませんでした。
ついつい羽目を外して、静という女性に手を付け、生まれたのが正之です。
恐妻家の秀忠は、他の女性に子どもを産ませたことの発覚を恐れて、姑息な隠蔽作戦を敢行します。
正之はわずか2万5千石の保科家に、養子に出されました。
保科家は、5千石加増されました。
正之の養育費です。
正之は、父秀忠と対面することは生涯ありませんでした。

秀忠の後を継いだ3代将軍は、徳川家光です。
家光は、自分に弟がいることを知りました。
江戸城に呼び寄せて、側近としました。
家光が亡くなったときの跡継ぎは徳川家綱で、わずか11歳でした。
家光は死ぬ間際に、信頼する弟の正之に、家綱の後見役となるように託しました。
こうして4代将軍となった幼少の家綱を、正之は全力で支えました。
明暦の大火で焼失した江戸城の天守閣の再建はせずに、被災民の復興に充てるように進言します。
水不足に悩む江戸の住人たちのために、玉川上水の建設を進めました。
現在の江戸城(皇居)には、天守閣がありません。それは保科正之のせいです。
玉川上水で太宰治が死んだのは、保科正之のせいです。違うか……。
兄である将軍家光の厚い信頼を受けた保科正之は、会津藩23万石の領主となります。
他に預かり領の5万石もありましたが、御三家の水戸藩の石高を越えることになり、「表高23万石、預かり高5万石」で通しています。
会津藩の3代目からは、「松平」姓を名乗り、徳川家の象徴である「葵のご紋」を使うことを許されます。
幕末維新のときに、会津藩は最後まで徳川将軍家に忠義を尽くしています。
実は私は、なぜ会津が幕府の身代わりとなって戦ったのか、理由がよく判りませんでした。
初代会津藩主の保科正之のファミリーヒストリーを知って、納得しました。

さて、恐妻家の秀忠の子を妊った静は、身の危険を感じました。
江戸を離れて、大牧村(現在のさいたま市)に潜んで、出産の時期を待ちました。
このとき静をかくまったのは、見性院という女性です。
見性院は、武田信玄の娘です。
秀忠に隠し子がいるということに気がついたお江の執拗な探索から、母の静と子どもの正之を守り抜きました。
「お江」対「見性院」の戦いは、
さながら「織田信長」対「武田信玄」の戦いの第二幕です。
大宮市にある氷川神社に、静が祈願した文書が残されています。
太守(将軍)の御思い者となり、御胤を宿して、当四、五月の頃臨月なり。
しかれども御台(お江)嫉妬の御心深く、営中(江戸城内)に居ることを得ず。
それがし胎内の御胤男子にして、安産守護し給い、二人とも生を全うし、御運を開く事を得、大願成就なさしめ給わば、心願の事、必ず違い承るまじく候なり。

私は、この氷川神社に行ってお参りをしたことがあります。
武蔵国の一の宮で、日本武尊が東夷鎮定の祈願をしたという歴史のある神社です。
横浜港に停泊する氷川丸の中には、この氷川神社の祭壇があります。
氷川丸は、第二次大戦中は病院船として活躍し、一発の弾も当たらずに生き残った奇跡の船です。
ちなみに、隠し子がいたわけではないので、念のため申し添えます。
勤務していた関東信越厚生局の近くにあったからですよ。
