見出し画像

宮崎県高鍋町出身の連合艦隊司令長官小沢治三郎海軍中将は、絡まれたチンピラ3人を橋から大淀川に投げ飛ばして退学となった

開戦時日本海軍の連合艦隊司令長官は、海軍大将山本五十六で、大変有名です。

最後の連合艦隊司令長官は、小沢治三郎海軍中将ですが、あまり知られておりません。

小沢長官は、宮崎県高鍋町の出身です。

高鍋町には、長官の実家があり、また、舞鶴城の高鍋町歴史総合資料館には、小沢長官の遺品があります。

宮崎中学校時代には、宮崎市の橘橋で3人のチンピラに絡まれて、橘橋から3人を投げ飛ばしたので、退学となったという武勇伝があります。

あだ名は鬼瓦です。

鹿児島にある第七高校を卒業して、海軍兵学校に入学しました。

小沢治三郎は、当時の海軍には珍しく巨艦巨砲には執着せず、母艦航空兵力こそが艦隊決戦における攻撃主力だという思想の持ち主でした。

海軍大学校での成績はそれほどよくはありませんでしたが、順調に出世して昭和14年には、第一航空戦隊司令官となっています。

昭和16年12月4日に、南遣艦隊司令長官の小沢治三郎の率いる艦船64隻、上陸群輸送船27隻の船団は、密かにマレー半島を目指していました。

12月7日正午に、輸送船団は3つに別れました。

小沢治三郎の南遣艦隊は、コタバルに上陸する陸軍部隊5500人の将兵を載せて、コタバル沖に向かいます。

コタバルの海岸近くに潜入した潜水艦から気象報告が送られてきました。

「風速7メートル、波の高さ1メートル」

上陸可能と判断がなされ、12月7日午後11時半、月夜の中を輸送船は次々と上陸用舟艇を下ろしはじめました。

12月8日午前零時45分。

最初の上陸部隊が発進しました。

英国軍は、日本軍のコタバル上陸に対して、飛行機で機銃掃射を行うなどの必死の抵抗をしました。

日本軍は、その日の午後9時半には、戦死者320人、戦傷者538人を出して、コタバル飛行場を占領しました。

コタバルへの上陸は、真珠湾奇襲よりも1時間20分早かったのです。

太平洋戦争は、コタバルを守る英国軍の一発から火蓋が切られました。

小沢治三郎司令官は、コタバル上陸作戦の成功の後に、英国東洋艦隊の撃滅作戦を命じています。

英国の東洋艦隊には、不沈戦艦といわれた「プリンス・オブ・ウェルズ」と巡洋戦艦「レパルス」がいました。

12月10日午前10時15分に、マレー沖の東洋艦隊を発見します。

英国東洋艦隊に対して、日本海軍は、航空機部隊での波状攻撃を行います。

最初に到着した美幌航空隊の爆撃機8機から、午前11時13分に高度三千メートルから爆弾8発を投下させ、その1弾がレパルスに命中しました。

正午前には本山航空隊の雷撃機9機が到着します。

プリンス・オブ・ウェルズに2本の魚雷が炸裂し、同艦は操縦不能になります。

レパルスにも1本の魚雷が命中しました。

午後零時二十分に、鹿屋航空隊の雷撃機26機が到着しました。

プリンス・オブ・ウェルズに5本の魚雷が命中します。

レパルスにも7本の魚雷を命中させました。

午後零時23分にレパルスは海中に沈没しました。

最後に到着した美幌航空隊の爆撃機の爆弾2発がプリンス・オブ・ウェルスに命中して、午後1時20分に海中に沈没しました。

フィリップス提督は、プリンス・オブ・ウェルズと運命を共にしました。

日本海軍の航空隊は、それ以上の攻撃はせず、駆逐艦が乗組員を救助するのを邪魔をしませんでした。

最後に翼を振って英海軍将校の敢闘をたたえ、基地に帰っています。

翌11日、鹿屋航空隊の大尉は、二束の花を海に捧げています。

一束は日本武士道のために、二束は勇敢に戦った英国騎士道の戦士のために。

マレー沖海戦の報告を受けた英国のチャーチル首相は、強い衝撃を受けて「生涯で、かくも大きな痛手を受けたことはなかった」と第二次世界大戦史に書いています。

「飛行機」対「戦艦」の戦いは、「飛行機」の方が強いことを世界に初めて示した戦いでした。

南遣艦隊旗艦「鳥海」の作戦室にいた小沢治三郎は、報告を聞いて、鬼がわらと呼ばれた鋭い目を閉じて、数滴の涙を流しました。

それは換気の涙ではなく、悲嘆の涙でした。「自分もいつかはフィリップ提督と同じ運命をたどらねばならない」と思ったのです。

実際に、それから3年後、米国海軍を相手に、小沢治三郎は多くの艦船を海に沈められました。

最後の連合艦隊司令長官として、日本海軍の終焉を見届けることになりました。

戦後は、いっさいを語らずに沈黙を守って、1966年11月9日に東京で亡くなっております。80歳でした。

高鍋町には、小沢長官の実家があります。

第二次世界大戦中には、連合艦隊司令長官は4人が歴任しました。

最後の長官が小沢治三郎です。

初代が山本五十六長官で、ブーゲンビル島で飛行機を待ち伏せされて戦死しました。

ブーゲンビル島は、熊本にあった陸軍第六師団が派遣されています。

このときの主力は、都城23連隊でしたので、県内出身者がたくさんブーゲンビリア島で亡くなりました。

上陸した米軍と激しい戦闘が行われました。

多くの戦没者は、食糧不足による餓死やマラリアなどの病気によるものでした。

宮崎神宮内には、ブーゲンビリア島での戦没者の慰霊碑があります。

私の祖父の弟も、ブーゲンビリアで戦死しています。

宮崎空港は、ブーゲンビリア空港という名前がついており、ブーゲンビリアの花が植えられています。

宮崎観光ホテルの駐車場は、ブーゲンビリアの花が咲いています。

蝶は、多くの国で人の魂を運んでくるという話があります。

漫画家の水木しげるさんが、生き残った戦友と、ラバウル島に墓参りに行ったときに、花束を置いたところ、どこからともなく蝶がやってきて花にとまったことを書いていました。

亡くなった戦友がやってきたと感じたそうです。

子どもの頃に、網をかかげてよく昆虫採集をしておりました。

お盆のときに、赤とんぼを捕っていたところ、祖母から声をかけられました。

お盆の赤とんぼには死んだ人の魂が乗っているから採るなと叱られました。

いつも優しい祖母だったので、びくりとしました。今も覚えております。

祖父はフィリピンで戦死しています。

祖母からは、山椒の葉をうたいながら摘むと枯れるという話を聞いたことがあります。

その話は信用していなかったそうで、若い頃に歌いながら葉をちぎったら、いつのまにか枯れたと言っていました。

このことは家の誰にも言わんかった、と言っておりました。

昭和20年4月14日の夜に、小沢治三郎の宿舎にひとりの男が訪ねてきました。

小沢の妻の叔父で高鍋出身の外交官秋月左都夫の紹介だと言いました。

男の名は、吉田茂です。英国大使を退任して66歳となっていました。

秋月はオーストリア大使、読売新聞社社長をしていた大物です。吉田の外務省の先輩でした。

吉田茂は、海軍の軍令部次長の小沢に言いました。

「戦局は極めて悲観的だ。早急に和平工作をしなければならない。君も同意見だろう」

「しかし、今の政府は半狂乱です。われわれの意見を聞き入れる理性は持ち合わせていません」

小沢の声を聞いて吉田はこのようにいいました。

「私が直接、英国と交渉する。なんとか飛行機を一機提供してもらい、英国圏まで連れて行ってくれんか。もしくは潜水艦で、英国圏の海岸まで放り投げてくれれば。捕虜になってでも和平交渉するところまでこぎ着けたい。秋月翁に相談したら、君に会うように言われた」

吉田の申し出は、さすがに無理筋でした。

吉田は横浜憲兵に逮捕されます。

秋月翁は、昭和20年6月25日に亡くなりました。

吉田は戦後、外務大臣となり総理大臣となりました。

もし、このときに、吉田茂を英国領に届けて、終戦交渉をするという作戦があったら、面白かったかもしれません。

高千穂町の甲斐町長から聞いた話です。

終戦前に、海軍の将校が岩戸町長をしている祖父のところに来たそうです。

海軍では、皇族を九州の山の中に隠す作戦を考えており、隠す場所を探しに高千穂まで来たとのこと。

この話は実話で、後に国会議員となった海軍の源田実が密かに立案していたとありました。

まだまだ、宮崎には知られていない話が埋もれていると思います。

高鍋町の小沢長官の実家の近くには、GADOROさんの壁画とたか鍋大師くんのパネルがあります。


いいなと思ったら応援しよう!